第18話

 だが、私はそれを良しとしなかった。きっとどこかで拒否反応が出てしまったのだろう。何があったのか詳しく思い出せないが、あれはほとんどマインドコントロールと同じだ。古橋百音だった少し前の自分を思い返すと、今でも皮膚が粟立つ。

「そして、そもそも他人の人格を作れるのかどうかという話だが、その方法はおれにも分からない。——だが、その方法を教えそうな人間なら知っている」

 篤司は憎々しげに吐き捨て、ズボンのポケットから一枚の小さな紙を取り出す。両面とも黒地で、その上に白い文字が書かれている。

「これは名刺だ。真音のスマホケースに大事そうに挟んであったのを盗んできた」

 篤司は名刺を私と児玉に見せる。そこにはなんとも怪しい文言と怪しい名前が書かれていた。

「『死んでしまったあの人に会いたい、を叶えます』……御船みふね三途さんず?」

 三途とは、三途の川の三途か。御船も三途の川を渡るための船のことを示しているのだろう。

「縁起の悪い僧侶のような名前だね。絶対に偽名だとは思うが。それに、『死んでしまったあの人に会いたい、を叶えます』って」

「ああ。真音もとんだ霊感商法に引っかかったものだな。まあ、死者と話せるなんて最も人間の弱い部分を突くような話だ。無理もない」

 篤司は悲しげな目で地面を見下ろしていた。きっと篤司の脳裏にも私が思い浮かべている人の顔が浮かんでいるのだろう。私も、本当に死者と話せると言われたら話したくなるに違いない。二人が私たちをどう思っているのか。

「ご丁寧に電話番号と住所まで書かれている。幸か不幸か、住所を見る限りこいつは朝撒町にいない。だから明日、仕事が終わったらおれはこの電話番号にかけて事情を訊いてみようと思う。それで、他に何か質問はあるか?」

 児玉はしばらく悩む様子を見せていた。いつの間にかその手にはボイスレコーダーが握られている。

「……今回の件は、正直に言えば新聞の記事にすることはできないです。暮葉さんには言ってませんでしたが、結局、あの千駄咲神社の幽霊に関しての記事を書くことは止めたんです。というより、目黒めぐろさんに止めろと言われたので」

「おや、そうだったのか」

 私はふと篤司の方を一瞥いちべつした。彼は誰とも視線を合わせずに、じっと地面を見つめたままだった。てっきり怒られると思っていたが、どうやらもう千駄咲神社の幽霊に関して口を挟むようなことはしなくなったようだ。

「ですので、これ以上の質問は止めておこうと思います。なぜ暮葉さんがあんな言動を取ったのか、その理由が知れただけで十分です。これ以上僕が干渉するのは、きっと互いに損するだけですから」

 児玉は手に持ったボイスレコーダーを私の前に差し出した。

「今の話は録音しておいたので、使うかは分かりませんが調査の役立ててください。それと、今回暮葉さんにメールを差し上げた本来の目的を果たしておきますね。僕は方戸かたど神社への取材に加え、幽霊が方戸中学校の制服を着ているという情報を得たので方戸中学校の方へも取材してきました。ですが、方戸神社に関しては特に有力な情報は得られず、方戸中学校の方も、もし幽霊が存在するのだとしたら行方不明や亡くなった生徒がいるのではないかと考え取材をしたのですが、該当する生徒はいないそうです」

「そうか。本当に、色々とありがとう」

 私が感謝の言葉を口にしながらそれを受け取ると、児玉は「では」とだけ言って公園を立ち去ろうとした。

「一つだけ質問をさせてくれないか、児玉くん。目黒の話によれば、君は記事のネタを探していたそうじゃないか。千駄咲神社の幽霊についてでなくとも、この件は君も食いつくと思っていたのだが。なのにどうして君は深入りをせず、しかも協力までしてくれるのか? 私はそこが知りたい。そもそも、こんな真夜中の呼び出しに応えてくれた意味も分からない」

 児玉は立ち止まったが。振り返らなかった。

「……ここに来たのは、本当に僕の興味本位でした。わざわざ夜中に呼ぶということは、そうでないといけない複雑な事情があるのだろうと。その複雑な事情について訊けば何か記事のネタになるかもしれないという下心があったのも否定できません。実際、ボイスレコーダーも持って来てますから。でも、暮葉さんが既に友人を失っていて、しかもその記憶がないということを知って、僕はそこに踏み込むべきじゃないと思ったんです。大切な人がいなくなるのは悲しいですが、もっと悲しいのはその人のことすら上手く思い出せなくなることです。その点で言えば、まだ僕は恵まれている方でした。父さんの——あの優しい表情を思い出せるから」

 児玉は急ぎ足で公園を出て行った。その目はわずかに潤み、赤くなっていた。

 私は、百音を思い出せないままでいる。彼女の死因を聞いてもなお、だ。

 それなのに私の心にはさっきからずっと不透明のがかかっている。タバコの煙のような粘り気を持ったそれは、心臓の鼓動と呼吸を荒くさせる。

 私はこのままじゃ幸せになれない。きっとこのもやも、心の底から発生した欲求不満の表れだと思う。百音の人格に抗っていたときも「無知のまま生きればいい」という言葉に「それで幸せになれるわけがない」と反論していた。

 私の幸せとは、全てを知ることだ。百音とはどんな人間で、どんな顔をしていて、どういう関係だったのか。それだけじゃない。千駄咲神社の幽霊、リンガ・フランカ、あの悪夢。まだ知るべきことは山ほど残っている。

「暮葉」

「……ああ、すまない。何か言っていたかな?」

「いや、暮葉も気になってると思ってな。どうしてお前が、記憶喪失になってるのか」

 そうだ。そもそもそこが引っかかっていた。事故の結果、私の脳には何の異常も見られなかったのだ。何がきっかけで、私は百音を忘れてしまっていたのだろう。

「もう知ってると思うが、お前の脳には何の異常も見られなかった。話によれば、事故による記憶喪失という事例はそう少なくない。これは暮葉を診てくれていた医者から聞いた話だが——何て言っていたか——ああ、そうだ。本来、事故で見られる一般的な健忘症候群の多くは、内側側頭葉とかいうエピソード記憶の記銘や想起などに関わる脳の一部が損傷することで起こるそうだ。しかし、今回のはそれとは異なる種類の記憶喪失だ」

  篤司は右手の人差し指を立てる。さながら講堂で知識を披露する教授のようだ。

「解離性健忘。これはメカニズムがいまだにはっきりと分かっていないが、決まって何かしらの強い精神的なストレスや心的外傷が引き金となっているそうだ」

「じゃあ、事故に遭ったショックを受けた拍子に私は記憶を失った、と」

 私がそう言うと、予想に反して篤司の表情は曇った。

「問題なのはそこだ。暮葉は事故に遭って、そのショックで記憶を失った。お前の記憶喪失はそれでも十分説明がつく。過程だけ見れば何の変哲もない、一般的な解離性健忘だからな。——だが、おれは少し違うと思う。これは、かつての暮葉を知っているからこそ言えることだ」

「つまり?」

「つまり……」

 篤司の歯切れが悪くなる。耳がわずかに赤くなっている。いつもの癖だ。何を言うべきか迷っているのだ。

「ここからはおれの持論なんだ。おれは精神疾患に造詣ぞうけいが深いわけでもないし、当然ながら精神科の医者でもない。……お前は、正確に言えば事故のショックで記憶を失ったんじゃない」

 篤司は苦しそうに眉間にしわを寄せ、目をつむる。だと思う、と少しの間を置いてから付け足す。彼のまぶたの裏にどんな情景が浮かんでいるのか、想像することすらできない。

「——『この事故で私は百音という人間の記憶を失うんだ』と自分を納得させるように、心の奥底でずっとそう願っていたように、。おれはそう考えてるんだ」

 篤司の言葉を受けて、私が何かを言うよりも先に——ショックを受けるよりもずっと早く——脳裏に情景が浮かんだ。それはまるであの時の悪夢のように次々と場面を転換させていった。走馬灯の様相を呈している。

 あまりにも早過ぎるそれを、私は全て捉え切ることができなかった。突如として溢れた情報の奔流ほんりゅうに押し流され、私の脳は完全に身動きが取れずにいた。

「大丈夫か、暮葉」

 ふいにかけられた篤司の声に、私は我に返った。ずっと水の中に沈んでいて、命からがらようやく呼吸ができる場所を見つけたような気分だった。

「ああ、すまない。少し考え事をしていた」

 そして、怒涛のフラッシュバックに呑まれた私の頭の片隅に残ったのは、誰かとの会話だった。

「早く帰るか。今日は色んなことがあり過ぎた」

「ああ、そうだね。その方がいい」


     *


「やっぱり、ここからだと桜も綺麗に見えるね」

「奇麗だよね」

「なんで私にはここを教えてくれたの? 他の人にも教えてあげればいいのに。ほら、水木みずきさんとか」

「なんで——かな。たぶん、私と暮葉は同じタイプの人間だから、かも」

「ふーん……よく分かんないけど、なんか分かったかも。私たち、そのうち混ざって一人になっちゃったりして」

「それは面白いけど、なんか少し気持ちが悪いような」

「でも、離れ離れになったら寂しいからね」

「たまに思うんだけど、あなたって歯に衣着せぬ言い方をするよね」

「だって、想いは秘めてるだけじゃ無駄になっちゃうじゃん? きちんと言葉にしなきゃ。いつ言えなくなるかも分かんないし」

「……その辺りは、私と違うんだね」

「あはは、そりゃそうだよ。まったく同じじゃつまんない」


     *


 頭の中でずっと同じ会話が反響し続けるのを聞きながら、私は篤司と共に家へ向かった。

 物音を少しでも立てないようにそっと事務所に入り、私は思わず息を漏らした。

 見慣れたレザーチェア。見慣れた応接用の長机と革張りのソファ。見慣れた天井、見慣れた壁。

 ああ、確かにここは私の家だ。ほんの一時間前に見たはずなのに、長い旅行から自宅に帰って来たような妙な安心感がある。

 私はそのままソファに倒れ込み、目をつむった。篤司が何か言っているような気がしたが、全く頭に入ってこない。そのまま気を失うように眠りについた。夢など見ない、穏やかな眠りだった。


 次の日の朝、私が目覚めてまず最初に行ったことは、周りを見渡すことだった。眠っている間にまた百音の人格が戻って来ているのではないかという不安に駆られてしまうのだ。

 幸いにも、そこは確かに私の知っている長谷川探偵事務所のままだった。私がほっと胸をなでおろすのもつかの間、次の不安が頭を過ぎる。真音のことだ。

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