第17話

 私はダイニングの扉を開き、廊下に出た。右手側の壁に扉が一枚あり、左手側の壁にも少し位置をずらして一枚の扉がある。まず私は右手側にある部屋に入ってみることにした。

 足を踏み入れた途端に、そこが誰の部屋なのか理解した。篤司だ。白い木製のデスクが壁際にあり、その横にあるベッドの上には青いブランケットが几帳面に畳まれている。あとはクローゼットや本棚など、これといって特徴のない普通の部屋だった。少なくともクレハが住んでいそうな部屋ではなかった。

 私は篤司の部屋を後にし、反対側の扉のレバーハンドルに手をかけた。

 だが、その扉を開けることはできなかった。

「何をしているのかしら」

 お風呂から上がり、ちょうど階段を上ってきた真音が険しい表情を浮かべてこちらを見つめていた。昼頃の優しそうな雰囲気は微塵もなく、ただ値踏みをするような鋭い視線が、扉のレバーハンドルにかけられている私の右手を突き刺していた。

「あ、いや——」

 私は慌てて跳ねるように扉から遠ざかる。

「そこはあなたの部屋じゃないのよ。入らないで」

「……うん、分かった」

 私は真音の手に引かれ、再びダイニングに戻ってきた。

 真音があんな剣幕を見せているのを私は初めて見た。彼女は普段から見た目通りの温厚さと物腰の柔らかさを備えているのだが、先ほどの真音には冷淡という言葉の方がよく似合う。

 真音が何を恐れているのか分からない。きっと考えるべきではないのだろう。ただ——クレハという人物について、やはりどうしても気になる。彼女は何者なのだろう。そして、彼女の友人である清水とは何者だろうか。電話越しの彼は敬語を使っていたが、かなり親し気な声色だった。

 再び携帯が振動する。見ると、一通のメールが届いていた。送り主は「朝撒あさまき高校新聞部」と表示されている。件名に「長谷川暮葉様」の文字を見つけると、途端に私の心臓が大きく動き始めた。携帯を握る手がわずかに汗ばむ。

「ちょっと、トイレに行ってきます」

 私はそう言い残し、一階のトイレへ向かった。真音が部屋を出て行こうとする私に何か声をかけたような気がしたが、気のせいだと思うことにした。

 私はトイレの鍵をかけ、届いたメールの内容をゆっくりと暗唱する。


 先日、千駄咲神社跡でお会いした児玉です。連絡が遅くなってしまい大変申し訳ございません。

 顧問の西川に訊ねたところ、探偵の方であれば取材内容についてお話しても構わないということでしたので、メールを差し上げました。

 大変お手数ですが、お時間のございます時にお会いできる日時について返信いただけると幸いです。

 何とぞよろしくお願い申し上げます。


 朝撒高校三年二組 児玉 夕


 

 分からないことは山ほどあった。児玉こだま、千駄咲神社、朝撒高校新聞部、探偵。文面からしてどれも暮葉——清水が電話で口にしていたクレハとはおそらくこの人だろう——に関わる話のようだ。

 暮葉を知る人物に会ってみたい。しかし、真音は絶対に拒否するだろう。あの部屋を開けることだけでもあそこまで拒んだのだから。

 隠れて児玉に会うしか道はない。真音にはバレないようにここを抜ける必要がある。となると、夜中が最も適しているだろう。

 何の根拠もないが、私は彼女を知る人物に会わなくてはならないと、本能でそう感じているのだ。

 きっと彼女なら、「私」は何者なのか知っている気がしてならない。

 私は今日の深夜に会えるかどうか、という旨のメールを返した。

 児玉の返信は私の想像よりもずっと早かった。


 午前一時過ぎ。気温は二十三度にまで下がっている。夏の夜は、昼とは全く異なる様相を呈する。蝉時雨は鈴虫とカエルの大合唱に変わり、涼しい風がそよぎ始める。

 闇夜に包まれた公園に一人の青年がやって来た。黒のカーゴパンツに半袖の白いフーディを着ている。年齢は高校生か、あるいは大学生ほどに見える。おそらく彼が児玉だろう。

「あなたが、児玉さん?」

 そう言うと、児玉はキョトンとした顔で私の顔を見つめた。

「はい、そうですけど……?」

 私は周囲を見渡し、真音がついて来ていないことを再確認してから、声を潜めて話を切り出す。

「あの、暮葉さんって知ってますか?」

「え?」

 児玉は更に困惑した表情を見せ、何も答えないまま首を傾げた。何か言えない事情でもあるのだろうか。

「あの、本当に何を言ってるのか分からないんですけど」

「何か隠さなきゃいけない理由でもあるのですか?」

「いや、何が……あなたが暮葉さんですよ?」

 ——今、彼は何て言った? 私が、暮葉?

「私……?」

「はい。あなたはどう見ても長谷川暮葉さんですよ。着ている服は違いますが、その顔は紛れもなく探偵の暮葉さんです」

「ちょ、ちょっと待って」

 どういうことだ。私が長谷川暮葉? いや、あり得ない。だって私は——。

「わた、しは……?」

 ——私は誰だ?

 私は古橋百音。真音の妹。

 ——いや。いや。だとしたら妙だ。そもそも、あの家にいることがおかしいだろう。あそこは紛れもなく長谷川探偵事務所だ。古橋という名字の家は他にあるはずだ。

 こんなことを考えても疲れるだけでしょう。私は古橋百音です。真音がそう言ったのですから、私は百音なのです。それ以上でも、それ以下の存在でもありません。

 ——嫌だ。そんなのは嫌だ。考えるのを止めるな。思考を回せ。何だ? 何が起きている? 私が……私が、二人いるのか?

 余計なことは考えなくていいのです。

 ——駄目だ。考えないと始まらない。

 無知のまま生きればいい。

 ——それで幸せになれるわけがない。


「暮葉!」


 名前を呼ぶ声がする。ひどく焦燥を含んでいて、上ずっている。

 ——これは紛れもなく私の名前だ。

 いつの間にか、私の目の前には怒っているとも悲しんでいるとも取れる複雑な表情を浮かべた男がいた。彼は私の両肩を掴み、細かく揺さぶっている。

 ——この男は、兄だ。名前は篤司。見た目だけは几帳面な堅物に見えるが、その実はただの心配性な人間だ。私はそんな兄と、二人暮らしをしている。

 そうだ。あの家には始めから二人しかいないのだ。私と篤司。ただそれだけだ。百音なんていない。

 私は長谷川暮葉だ。

「……篤司」

「暮葉……それとも、百音なのか……?」

「妹より不安そうな顔をする兄が、この世にいるかな?」

 私はからかうように笑った。からかうつもりだったのに、目の奥が急激に熱くなって、思わず涙をこぼしそうになった。

「良かった……!」

 篤司が私を強く抱きしめる。こうして篤司に触れるのは何年ぶりだろうか。もうずっと遠くの記憶のような気がする。


 ——『大丈夫だ。父さんも母さんも、すぐに帰ってくるからな』。


 ああ、そうだ。両親がいなくなったあの日の夜だ。ストーブの前で、今にも泣きそうな私をこうして落ち着かせてくれたのだ。

「痛い……力が強過ぎるよ、篤司」

「あ、ああ……すまん」

 篤司は素早く私から離れる。私は呆れるように小さくため息をつき、それからすぐに羽織っているパーカーのポケットの中をまさぐった。

「あれ」

 ああ、そうだ。前までの私は古橋百音というタバコを吸わない人間だったのだ。

 すると、篤司が私の目の前にキャメルのボックスを差し出した。心でも読めるのかと思えるほどに完璧なタイミングだった。

「タバコをやめろ、なんてもう言えないな。そこまでニコチン依存症になってるのなら」

「気が利くね」

 一日以上の禁煙をしていたのだ。よく古橋百音の時の私は発狂しなかったな、とつくづく感心する。

「あの……そろそろ説明を頂けると嬉しいです」篤司の背後から児玉がもう我慢できないといった具合で言った。

「ああ、すまないね。とはいえ、色々あったんだ。どこから話そうか」

「まず、なんで暮葉さんがあんな様子だったのか知りたいです。……え? 暮葉さん、ですよね?」

「ああ。君は間違えてないよ。私こそが長谷川暮葉だ。さっきはすまないね。ずいぶんと混乱するような質問をしてしまった」

「——これは、おれから話そう」私が何から話そうか考えているうちに、篤司が口を開いた。「とはいえ、どうしてそうなったのかまでは分からない。ただ、どうやら真音は暮葉に百音という人格を作り上げようとしていたようだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。そもそも真音、というのは?」

「暮葉の友人の姉だ」

 ——友人の、姉? 篤司は何を言っているのだろう。

「どういうことかな、篤司」

「正直、おれも話したくない。だがこうなった以上、説明をしなくちゃいけないだろう。暮葉。お前は真音を友だちだと思っているようだが、正確には真音は友だちの姉だ。そして——その友だちの名前が、百音だ」

「は……?」

 私に百音という名前の友人がいたと、篤司はそう言っているのか。だがまったく記憶にない。

 古橋、百音——か。

「関係は分かりました。どうして暮葉さんに、その百音さんの人格を? というか、そもそもそんなことができるんですか?」

「理由は——それは、なんとなく分かる。古橋百音は……死んだんだ。七年前に上陸した台風十七号の影響で日慕山ひぼやまが——ああ、日慕山ってのは南の方にある山だ。あそこで大規模な地すべりが起きてな。危険だから立ち入るどころか近づくことすら禁止されてたんだが、あの子は、その……事情があってあの日慕山に入ってしまったんだ。そして——あとは言わなくても分かるだろう。おそらく当時の新聞を探せば地方紙に載ってるはずだ。……悲しい転落事故だった」

 と語られるその事実に私は愕然としていた——というより、もはや恐怖を覚えていた。なぜ私は友人が死んでいることを忘れているのだろう。彼女の顔さえ思い浮かばない。

 そして、それなのに。

 どうしてこんなにも苦しいのだろう。

「大丈夫か、暮葉」

「ああ、うん。問題ない。とにかく、私に忘れてしまった友人がいることは分かったよ。それと、真音が私の中に百音の人格を作ろうとした理由もね」

 寂しかったのだろう。一人暮らしを始めたこともあって、きっとその想いは加速したに違いない。あの時見た海も、手間暇かけて作ってくれたパスタも、空白の七年間を埋めようとした彼女なりの愛情表現だったのだ。

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