第16話
「おい、真音。分かってるだろうな」
今まさに事務所を出ようとしている私と真音の背に、篤司が脅すように声をかけた。低く唸るような声色だった。
真音は相変わらずの柔和な笑みを湛えながら振り返る。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。あなたとの約束も守りますから」
「お前が何を考えてるのか知らんが、とにかく約束を守ってさえくれればどこへ行っても構わない」
「それは昨晩も聞きましたから。ほら、行こ」
真音は篤司から視線を外し、私の手を取る。私は篤司の方へ訝しむような視線を向けてから、すぐに真音の後をついていった。そもそも、あの男は何様のつもりでこの家にいるのだろうか。
「さあ、出発よ」
真音の車は長谷川探偵事務所を離れ、この町を徐々に南下していく。いくつもの家々を通り過ぎ、田畑の脇を走り抜け、そして着いたそこは、海だった。
「なんで、海に?」
「え、私が行きたかったからよ。それだけ。それに、あなたも来たかったでしょう?」
「……まあ」
「でしょ? 今は夏なんだから、ほら。目いっぱい楽しむわよ」
真音はまるで子どものように運転席を飛び出した。私も助手席から降り、海の方を見やる。
バタフライピーの花びらのように青い海が、どこまでも広がっていた。遠くには、思わず見上げてしまいそうな大きさの入道雲がそびえ立っていた。太陽でさえ覆ってしまえるのではないかと思えるほどだ。
浜辺には点々と人影が見られる。今日は——何日だったか。忘れてしまったが、きっと夏休みの最中なのだろう。しかも今日は天気がいい。絶好の海水浴日和だ。
「ほら、百音も」
いつの間にか真音は白いサンダルを片手に砂浜の上に立っていた。スリットの入ったロング丈のデニムスカートも、シンプルなデザインのタックインされた白いシャツも、主張しない程度に輝く真珠のピアスも、海を背景にすることでよく映えている。奇麗だ、と率直に感じた。
真音の手招きに誘われるように砂浜に降りようとしたところで、ふと、脳裏を妙な疑問が掠めた。
私は砂浜を歩いていいのだろうか。
意味が分からない自問だった。しかしそれはどんどん膨れ上がり、一瞬にして私の思考と行動の自由を奪った。私はじっと砂浜を見つめながら動けなくなってしまった。
助手席に座っていただけなのに、心臓が大きく拍動している。呼吸するたびにじりじりとした熱気が肺に入り込み、潮の匂いに吐き気を覚える。
どうして私はこんなに動揺している? ここには宝石を散りばめたような海と雄大な入道雲があって、優しい姉もいる。真夏の思い出作りに胸を躍らせるべきだ。それなのに、私の心の中には不安とも形容すべき不快なもやがかかっている。気味が悪い。
「どうしたの?」
真音に声をかけられたところで、私はようやく我に返った。
「あ、いや……駄目です」
「駄目?」
「なんでか分からないんですけど、私はこの砂浜を歩いちゃ駄目な気がするのです。私の足、全く動かないのです」
真音の表情がわずかに曇ったような気がしたが、すぐに太陽の日差しにも負けないほどに明るい笑みを浮かべ、そっか、とだけ言って階段の途中で立ち止まっている私の隣に腰かけた。
「あなたが駄目だというなら、仕方ないわね。ほら、座りなさい。立ってても疲れるでしょ」
真音の言う通りに座り込むと、彼女は私の肩に頭をそっと乗せた。ふわりとサボンの香りが漂う。
「百音は今、幸せかしら?」
真音はそう言うや否や、なんか宗教勧誘みたいな言葉ね、と照れくさそうに笑う。
「幸せです」
「そう。なら良かった」
しばらくの沈黙が続く。さざ波と子どもの声だけが辺りの音を占領している。
私はじっと水平線を見つめていた。無限に続いているようにも見えるし、あるいは水平線より向こう側の世界が丸ごとなくなっているかのような、そんな錯覚に陥る。
私がこの景色を見たかったことは確かだ。だが、何かが違う。決定的に足りないものがある。その正体はいまだに掴めずにいるが、案外身近にあるような気がしている。
ああ、駄目だ。深いことは考えちゃいけない。私はもう考えることを捨てたのだ。私は真音の妹なのだから、何も考えなくていい。ただ姉に従うだけでいい。
——それなら、私が無意識のうちに考えてしまうことをいっそ真音に打ち明けてみたらどうだろうか。私が考えても何も解決しないが、真音ならきっと、正答とまではいかなくとも良い答えをくれるだろう。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「私は、確かに海に来たかった。それは確かです。でも、何かが違うように感じてしまうのです。ついつい考えてしまう——私に足りないものって、何でしょう?」
少し震えた声で私は訊ねる。真音は相変わらず海の方に顔を向けたまま、わずかに間を置いてから口を開いた。
「可哀想ね」
真音はそれ以上何も言わなかった。言えなかった、という方が正解なのかもしれない。再び静寂が辺りを包み込む。
それからどれほどの時間が経ったのか分からない。周りの音はほとんど耳に入らなくて、まるで夢の中にいるかのようだった。いや、本当に私は寝ていたのかもしれない。長い長い、海の夢を見ていたのかもしれない。きっとこの砂浜を歩きたくないという思いも夢特有の強迫観念のようなものだったのかもしれない。
気づけば私は車に揺られ、家に帰って来ていた。時間はちょうど昼食を食べる頃で、真音がキッチンに向かって何かをフライパンで炒めている。わずかにオリーブオイルの匂いがする。
「手伝いましょうか?」
「ん、大丈夫よ。これくらいなら一人でもできるから」
真音は隣の市で一人暮らしをしており、自炊もしていると聞いたことがある。こういうことに関して私のような素人が手を出すのはむしろ邪魔にしかならないだろうと思い、私は大人しくダイニングの席でじっとその完成を待った。
美味しそう、と言いながら真音が私の目の前に奇麗に盛り付けられたパスタの乗った皿を置く。嗅いだことのない匂いがいくつもあって、それでいて見た目も綺麗だ。その隣にベビーリーフとトマトとチーズの入ったサラダが入ったボウルも置かれ、一瞬にして食卓がイタリアンレストランの様相を呈する。
「サラダは、プチトマトとモッツァレラチーズを添え、塩とハーブオイルで味を調整したベビーリーフです。メインのパスタは、トマトをベースとしてアンチョビとブラックオリーブ、イタリアンパセリを添えたものです。ニンニクやケイパー、オリーブ油などで味を調整いたしました。また、オリーブ油で炒めたパン粉を振りかけてあります」
まるでウェイターのように意気揚々と料理の説明を終えた後、真音は机を挟んで向こう側に座る。かなり満足げな表情だ。
「どう?」
「どう……って?」
「私、高級レストランのウェイターとかになれるかしら」
実際、真音はかなり容姿が整っている。そもそも化粧が上手だし、描いたような下睫毛に至っては地毛だと言っていた。タキシードのような正装をしている真音を想像して、もしかしたら高級レストラン取り上げたテレビの特集で既に見たことあるのではないかとさえ思えてくる。
「たぶん、なれますよ」
「たぶん?」
真音は不服そうに口をとがらせる。
「いや、なれます」
「ありがと」
まずベビーレタスのサラダに手を付けた。真音の説明を聞いたとき、最初は少し味付けに不安があった。塩とハーブオイルだけだなんて聞いたことがない。そもそも、ハーブオイルの存在さえよく分からない。だが、思ったよりもしっかりと塩味が効いていて美味しかった。何より驚いたのがその香りだ。このハーブオイルとやらはどこで売っているのか訊ねたら、自家製だと言っていた。家でこんな物が作れるのか。
パスタの方は、見た目のイメージとはまた少し違う味がした。トマトソースのパスタと言えばコンソメなどを使って濃厚な味に仕上げることが多いが、これはどちらかと言えば旨味を全力で引き出すような、今まで味わったことのないものだった。おそらくこの旨味の正体があのケイパーという正体不明の食材だろう。また、上にかかっているパン粉が食感を加えており、もはやパスタとはまた別の物を食べているような気分になる。
「え、美味しい」
「本当?」
「一言で言い表すのは難しいけど、とにかく美味しいです。本当にお店の料理を食べてる感じで」
「良かったわ。ウェイターじゃなくてむしろシェフになろうかしら」
「どっちでもやっていけると思いますね……うん、本当に美味しい」
今までの食事はあくまで栄養を摂取するための無味乾燥な手段に過ぎなかったのではないかとさえ思えてくる。やはり真音は完璧な人間だ。
これからの食事は、ずっと真音に頼もう。
前までは誰の料理を食べていたのかすら、もう思い出せないけど。
その日の夜、見知らぬ携帯に電話がかかってきた。時計の針は既に午後九時過ぎを示している。こんな時間に誰だろうと携帯を見てみると、ディスプレイに「清水くん」と表示されていた。
清水? こんな知り合い、いただろうか。
「もしもし、どなたですか?」
「あ、暮葉さん。あれから調査はどうですか? 進んでますか?」
それはまだ幼い少年の声だった。いや、電話相手の正体はいったん置いておこう。それよりも、クレハとは誰のことだろうか。調査とは、何のことを言っているのだろうか。
「ごめんなさい、電話間違えてると思います」
「え——」
私は通話を切った。なぜだか手がひどく震えている。ついさっきまで運動をしていたかのように心臓が激しく動いている。
「清水くん 通話終了」と表示されているディスプレイを見て、それが何だかいやに恐ろしく感じ、思わず携帯を机に伏せた。
クレハ——そういえば、昨晩の篤司と真音の会話にそんな名前が挙がっていたような気がする。ということは、この携帯はそのクレハという人物の所有物なのだろうか。
しかし、そんな人間を私は知らない。私は百音だ。古橋百音。この携帯だって、私のものじゃない。
もしかして、この家にはもう一人誰かいるのだろうか。クレハという名前の、私の妹か姉か、篤司の妹か姉か分からないが——とにかくもう一人住んでいる可能性はある。だったら、挨拶くらいはするべきなのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます