第15話

 その瞬間、体の浮遊感が消え、私は寝そべっていた。

 身動きが取れなかった。顔は動かせるが、誰かが私の上に乗っかっているのだ。

 その人影は、私に向かって一心不乱に手に持った石を振り下ろしていた。迷いなどない、乱暴な打ち付け方だった。痛みはない。だが、私の心に恐怖が広がっていくのを感じた。

 やがてその人影の顔がはっきりと見えるようになる。

 それは紛れもなく、私だった。表情には憎悪の色が浮かんでいる。

 顔を見たその瞬間、顔面に石が振り下ろされる。


  体をビクン、と跳ねさせながら私は目を覚ました。

 前とは違う悪夢だったが、あの吐き気を催すような気分の悪さは変わらない。まるで二日酔いのようだ。次第に夢の内容が記憶から薄れていく。見ている最中はあんなにも現実味を帯びていたのに、今ではその欠片も残っていない。

二階から慌ただしく真音が下りてくる。窓に取り付けられたブラインドの隙間から差し込む光を彼女の白く美しい腕がまばゆく反射している。

「ちょっと、大丈夫? 凄い大きな音が聞こえたけど」

 そう言われて私は自分がソファから転げ落ちて地べたに寝そべっていることに気が付いた。もしかして、落ちる夢を見たのはこれのせいか。

「ああ、すまない。大丈夫だよ」

 私は痛む腰を手で押さえながら、苦笑いを浮かべつつ立ち上がった。ふくらはぎも筋肉痛で痛む。まさに満身創痍だ。

「でも、ひどく汗かいてるわよ」

 手の甲を額に当てると、確かにじっとりと湿っていた。心臓の鼓動も先ほどから落ち着かない。

「本当だ。ちょっとシャワーを浴びてくる」

「その方がいいわ。顔色も悪いし」

 おぼつかない足取りで脱衣所へ向かい、衣服を脱いだ。再び腕の傷跡があらわになる。いつ見ても見慣れない傷跡だ。

 思っているよりも自分はずっと疲れているようだった。それだからあんな悪夢も見てしまうのだろう。

 それも当然だ。いつもの篤司はもういないし、真音という監視の目がある。彼女はいつもと変わらない対応をするが、その腹のうちでは何を考えているか分かったものではない。みな、最近はどこか狂ってしまっているのだ。

 平凡な日常が、手のひらの隙間を抜けて宙を漂って、次第に私の手の届かないところまで昇っていく。篤司を少しからかって、真音と取るに足らない話題で談笑して、月並みな依頼を淡々とこなしていく。そんな日常が、恋しい。

 どうして私はこうなったのだろう。いや、元はと言えば全て私のせいなのだ。篤司の忠告も無視して、あの千駄咲神社の幽霊のことを知ろうとした。最初こそいぶかしんでいたが、篤司は本当に私のことを想って言っていたのかもしれない。私は幽霊に「死んでくれ」とお願いされたのだ。目的こそ分からないが、彼女は確かに死を望んでいた。篤司はそうなることを知っていたのかもしれない。

 それにしても、真音の態度には少し驚かされた。確執を残したままだと思っていたのに、彼女はまるでそんな素振りも態度も見せない。

 ——姉? 今、なぜ私は真音を姉だと思った?

 私には兄の篤司しかいない。それ以外に家族などいないのに。

 あれが夢だったという安心感から来るものだろうか。生まれた動物が、最初に目にしたものを親と誤認することがあるように。あの悪夢から目覚め、最初に目にした真音に強い安堵感を覚えたのだろうか。

 シャワーの音に混じって、風呂場の外から声が聞こえる。

「ここに着替え置いておくわよ」

「ああ、ありがとう。おね——」

 まただ。私の脳が真音を姉だと誤認している。どうしてしまったのだろう。

 荒くなっていく呼吸を整わせるために、うつむいて髪の毛からしたたり落ちる雫を眺める。どうにか落ち着かなくては。


 ——いや、やはり変だ。

 私の髪は、こんなに長かっただろうか。

 この傷は、本当に私が付けた傷だっただろうか。

 どうして私はこうして立っているのだろうか。

 私の声は、あの悪夢の中で聞いたものと本当に同じだっただろうか。

 時々、心のどこかで思ってしまうことがある。おかしいのはどちらなのか、と。

 真音が取った喫茶店での態度も、篤司の「監視を付ける」という発言も、彼らがどこか狂い始めているのだと思っていた。最初はそう思っていたのだ。

 狂っているのは私の方だとしたら、どうしよう。そんな意識が薄々、私の中に芽生えていた。この世界で狂っているのは私だけで、他の人が正常だとしたら。真音や篤司の発言を異常だと思うこと自体が、異常だとしたら。

 私は。

 私——?

「『私』って、誰のことを指してるの?」

 無意識に、聞き覚えのない声が私の口から発せられる。

 壁に手を付け、鏡を見た。

 曇った鏡の中には、見知らぬ女の顔だけが映り込んでいた。


 私は風呂場から出て、真音の用意した服に着替えた。私の顔や声のように、その服もまた見覚えのないものだった。

 無知のまま生きる。これは——ああ、これは誰から言われた言葉だったか。もう分からなくなってしまったが、この言葉は正しいのかもしれない。今、私は私が誰なのか分からない。様々な疑問が思考の中を次第に埋めていって、今にも頭が破裂してしまいそうだ。頭痛も、起きたときからずっと吐き気もする。

 知ろうとしなければ、私は幸せのまま生きられたのではないだろうか。大事なのは知ることではなく、幸せになることのはずだ。私は幸せにならなくてはならないという責務を背負っている。

 この風呂場も、レザーチェアも、ソファも、天井も、壁も、全て知らない。私はきっとここの住人じゃない。

 怖い。ここはどこだ。私は誰だ。

「大丈夫?」

 ソファに座り込む私の顔を女が心配そうにのぞき込む。この人は——真音だ。この人だけは知っている。私の、大切な人なのだ。

「大丈夫……」

 。そう言いたかったが、真音に迷惑をかけたくないという気持ちが強くなっていた。

「大丈夫だなんて、嘘ばっかり。顔色がさっきよりも悪いわよ」

 真音が私の頬に触れる。ランタンの淡い光のように暖かい手だった。

 その瞬間、が外れたように私の目から涙がこぼれ始めた。こんな見知らぬ顔で泣いている姿を見られたくはなかったが、もはや止めることはできなかった。

「ちょ、ちょっと。急にどうしたの」

 真音が華奢な腕で私をそっと抱きしめる。心の中にあった恐怖や困惑が、一瞬のうちに溶けていくようだった。私がずっと求めていた心の拠り所のようなものが目の前にあるような気がした。

「私、もうずっと、怖くて」

「怖いって、何が?」

「全て、もう考えるのも嫌なのです。私は——私は、楽になりたい」

 自分の過去とかも、自分が何者かとかも、自分の幸せがどこにあるかとかも、もうどうでもいい。全て嫌いだ。それらを考えたところで、こんな私に何ができるというのだ。

 私はずっと何かに寄りかかって生きていたくて、心の支柱を探して生きていたのだ。そのために私はこうして生きている。

「あなたはね、少し背負い過ぎなのよ。……あなたが自動車事故に遭ったっていう話を聞いたとき、最初は私も思わずその場に倒れそうになったわ。本当よ? だって、私の大切な人が死んじゃったんじゃないかって。そう思ったの。でも、あなたは事故に遭う前に比べて明るくなっていた。きっと私はそれを喜ぶべきだったのよね。あなたは純粋で、純白な人。だからこそ、色々なことに出会ったときに考え過ぎてしまうのよ。私に身を委ねて。考えることも嫌なら、楽になりたいなら——そうね。私の妹になる、なんてのはどうかしら? 私があなたのお姉ちゃんになってあげる」

 妹。真音が私の姉。なんて甘美な響きだろう。こんな人が姉だったら、私はきっと今よりもずっと楽になれる。いつでもその優しい言葉と暖かい腕で包み込んでくれる。

「……うん」

「そんなあっさりと賛成するなんて。でも、嬉しい。じゃあ今日から私はあなたの姉です。お姉ちゃんとも真音とも、好きに呼んで」

「じゃあ、お姉ちゃん」

「……良い呼び名ね。じゃあ、あなたは私の妹だから、そうね——真音に似た響きの名前——うん、モネがいいわ。百の音と書いて、百音もね。あなたは今日から古橋真音の妹、古橋百音よ」

 古橋百音。どういうわけか、その名はすうっと私の心に響いた。ぴったりだ。きっと単に忘れてしまっているだけで、私は最初から古橋百音という名前だったのだろう。

「これからよろしくね、百音」

「うん」

 ああ。私は今、幸せだ。


 その日の晩のことだった。二階から真音と男の会話が耳に入り、私は目を覚ました。声を抑えようと努力しているようだが、まるで口論をするかのような荒い口調だった。

「お前はあいつを何だと思ってるんだ。俺の、ただ一人の家族なんだぞ」

「そんな怖い目を向けないでください。私はあの子に危害を加えるようなことはしていませんし、これからもするつもりはありません。私はあの子を守ってあげたんです。この世に戻した、ただそれだけで」

「……は?」

「言葉の通りです。数日前、暮葉に会った時に確信したんです。あの子はもうこの世にいないんだって。だから私、また一からやり直すことにしたんです。あの子の魂は体に入れず宙を舞ったままでした。きっと長い時間寂しい思いをしていたでしょう。一昨日、御船みふねさんに相談して、そしたら解決方法を教えてくれて。あ、でも、まだ完璧じゃないんですよ。まだ途中なんです。だから、篤司さん。あなたには私たちの幸せを邪魔しないでほしいんです」

「真音、お前いったい、何を——」

「白を切らないで下さいよ。篤司さんだって共犯です。七年前に手伝ってくれたじゃないですか」

「手伝った記憶はないぞ」

「手伝ってくれましたよ。深くは言いませんが。万が一、あの子が聞いていたら困りますからね。とにかく――」

 私は反射的に耳を塞いだ。あの真音が「聞いていたら困ります」と言っていたのだ。私が聞くべき話ではないのだろう。

 そして、これを聞いていたら考えてしまう気がするのだ。二人の言葉の意味を。

 私はもう考えることを捨てた。篤司と呼ばれていた男が何を考えているのか、真音が何を考えているのか、考えても疲れるだけだ。

 早く楽になろう。

 私は目をつむり、海溝のような深い暗闇の中へ意識を手放した。


 翌朝、私は真音に急かされながら服を着替えていた。話によれば、彼女の持っている車でどこかへ出かけるようだ。どこにいくのか訊ねたが、それは着いてからのお楽しみよ、とだけ言われたので私は何も考えず外出する支度をした。

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