第14話
私は道を歩きながら、少し背後を警戒している。これは単に篤司に見つかるのではないかという怯えだけでなく、私を狙う通り魔のような人間をいち早く察知するためでもあった。
幸いにもそれらしい人影はなく、私は一人で千駄咲神社の入口に辿り着いた。
まず最初に驚いたのがその暗さだった。何の考えもなしに家を出たが、携帯がなければまず歩くことすらできないだろう。携帯のライトを点けてから、私はつまずかないよう慎重に石段を上り始めた。
今夜は月が出ているのだが、それが闇夜に浮かぶ木々や灯篭の姿をより目立たせている。昼間は太陽を避けられる最高の場所だったのに、千駄咲神社はほんの数時間経つだけでその不気味な側面を表にしていた。
私は携帯のライトや懐中電灯の光といったものが嫌いだ。周囲を照らすわけではなく、対象を絞って照らす。足元に障害物がないか見ようとすれば目の前の空間に対する注意がおろそかになる。向かう先を照らそうとすれば足元の障害物につまづくかもしれない。こういう光は二者択一なのだ。一方を得るために一方を捨てる。
これは私の今の状況にも合致している話だ。私は今、千駄咲神社の幽霊に会うという選択を取っている。しかしこれは、篤司や真音を捨てることに近い。幽霊を照らしたがために、二人は暗がりの中に捨て置かれている。
この選択肢は、価値として釣り合っているのだろうか。私にとって大事なのはどちらだろうか。こういう場面でもなお、私は二者択一を迫られてしまうのか。どちらも照らすことのできるランタンはどこかにないのだろうか。
ふいに私はつまずいた。石段を上り切ったことに気が付かなかった。
顔を上げると、そこには何度か目にしたことのある拝殿がそびえ立っていた。というより、暗がりの中にぼうっと佇むそれは拝殿の形をした黒い塊のように見えた。
木々の隙間からは月光が降り注いでおり、地面の草むらに歪な葉の影を落としている。どこかから鈴虫の鳴き声が聞こえる。水分をたっぷり含み、それでいて涼し気な風が頬と髪を撫でつける。
私は一度深呼吸した後、懐からタバコを取り出し火を点けた。白や黒、青などの陰鬱とした色合いの空間の中に、ぼっ、とオレンジ色の明かりが灯った。
煙を吸うたびに赤く点灯するタバコの先端を見て、私はひどく安心感を覚えた。嵐の海を航海している中で灯台の光を見つけたような、そんな救われた感覚だった。
ニコチンが回っている脳で私は少し考え事を始めた。彼女は——幽霊はここにいるのだろうか。いつもずっと本殿の中に隠居するような生活を送っていそうだが、さすがに一日中あそこにいるわけではないだろう。いや、地縛霊のような類であれば別に食事も睡眠も排泄も要らないし、きっとあの本殿に縛られ続けるのだろうが。
数分経ってタバコの吸い殻を携帯灰皿に入れてから、私は奥の本殿へゆっくりと歩みを進めた。草葉を踏みしめる感触が革靴越しに伝わる。
「夜分遅くにすまないね」
私が声をかけると、がたっ、という物音がした。まさか、幽霊は本当にずっとここにいるのだろうか。
「——りんが」
人感センサーで点くライトのように、無機質な声がする。
「君も飽きないね」
「どうして、こんな夜中に」
驚くを超えて、少し怯えるような声色だった。
「私はもう夜中にしか来れなさそうだということを、君に伝えておきたくてね」
「こんなところ、そんな無理してまで来る場所じゃないですよ」
「いやいや、別に無理はしてないさ。これは仕事だからね。私は君を調査しなくちゃいけないんだ」
私がそう言うと、彼女はまた喋らなくなってしまった。仕方がないので、私はいつものようにただ一方的に話しかける。
「君は、海に行きたがっていたね。だが君はなんらかの事情で海に行けない。——そこで、交渉をしよう。君の大好きな交渉だ。君が私の依頼主となるのはどうだい?」
「どういう、ことですか」
「君は、この本殿から出られるけど出られないと嘘をついているのかもしれないし、あるいは、そうだね——幽霊らしく、呪いみたいなものでここに縛り付けられてるからここを出られないのかもしれない。いずれにせよ、そこには何かしらの理由があるはずだ。これでも私は探偵だよ? そんな悩み事の一つや二つ、簡単に解決してみせるさ。任せてくれ。長谷川探偵事務所は暇なんだ。情報を収集する時間だって十分にある」
私は得意げにそう言い切ったが、内心はまったくそう思っていなかった。探偵とはいえ、謎を解決するような案件なんて一つもやったことがない。現に私はいまだに幽霊が口にする「りんが」という言葉の意味をよく理解していないのだ。
だが、これは交渉だ。決して嘘を言ってはいけないなんてルールは存在しないし、相手を丸め込んだ方の勝ちなのだ。今の私の手元にある武器は虚言と虚栄だけだ。がらんどうの私にはこんな空っぽの手札しか残されていない。
「どうだい? 私に依頼してみるのは」
ここで乗ってくれるのであれば、私の半分勝ちと言っていいだろう。決して法的な拘束力のある契約ではないが、少なくともこの先もあるだろう交渉において優位を取れる。
「では」
——乗った。私の勝ちだ。そう思った。
「死んでくれませんか?」
私は言葉を失った。それどころか、呼吸すら忘れていた。彼女の言葉の後、鼓膜の奥でキーン、と耳鳴りが反響した。粘り気を含んだ生ぬるい風が髪を揺らす。
死んでくれ、と。彼女はそういう望みを口にしたのか。
どうして篤司が千駄咲神社に行かせたくなかったのか、その理由が少し理解できたような気もした。どうして知っているのかも分からないが、篤司はこの千駄咲神社の幽霊と面識があったに違いない。そして、千駄咲神社の幽霊は死を望んでいることを知っていたのかもしれない。
「できないですよね。まあ、あなたが死んでも根本的な問題の解決とは言いがたいですが」
根本的な問題とは、何なのか。「解決とは言いがたい」という妙な言い回しは、どういう意味なのか。なぜ死ぬことを望むのか。いくつかの疑問は頭に浮かび上がったものの、そのどれもが言葉として出ることはなく、ただ私の思考を膨れ上がらせるばかりであった。
「私の望みはただ一つです。本殿の扉を
矛盾している。さっきは「死ね」と言ったのに、今度は「生きろ」と言っている。彼女は何を抱えて、本心では何を望んでいるのだ。
ずっとそうだ。私はずっと周囲の人間の本心を掴めずにいる。千駄咲神社の幽霊だけじゃなく、篤司も真音も、ここ最近は何を考えているのか分からない。
いや、それこそホームズやポワロなどに代表されるような名探偵が考えるようなことだろう。そしてきっと、私もそんな名探偵のように彼らの本心を暴く必要があるのだろう。
「やはり君は嘘つきだ」
「これは本当のことですよ」
「だとしたら、その矛盾した言葉はなんだい? 『死んでくれ』と頼んだかと思ったら次は『生きてろ』なんて」
「この世は二者択一ですよ。あなたは知っているでしょう? 死ぬことを選べば生きるという選択を捨てる。生きることを選べば死ぬという選択を捨てる。最終的に人間はみな死ぬので、あくまで遅延に過ぎないのですが——とにかく、今のあなたには生きるか死ぬかの選択しか残されてないのです。本殿の扉を開けて一緒に海に行く、なんて選択は捨ててください」
「そのどちらかを選ぶだけで、君は幸せになるのかい?」
「私は——」
ぷつり、と声が途切れた。まるでボイスレコーダーの電源を切ったようだった。
「幸せにはなれないのだね。だったら、私が選択肢を増やしてみせよう」
返答はなかった。これで交渉の優位を取れればと思ったが、まさにけんもほろろといった具合だった。
「私は死なない。だが、何も知らないまま生きる選択もしない。私は全てを知って、正しく生きてみせるよ」
「その先に幸せがなくても、あなたは知ることを選びますか?」
「——ああ」
一瞬戸惑ってしまったが、私はすぐに肯定してうなずいた。ここで肯定しなければ、私は永遠に立ち往生してしまうような気がしていた。
そして、ここで肯定すれば二度と元には戻れないような予感もしていた。
次の日の朝、探偵事務所内に誰かの来訪を告げるインターホンの電子音が鳴り響いた。時計に目をやると、まだ朝の六時だった。
二階から足音を立てて篤司が下りてきて、私に
「よく来てくれた、真音」
「別にいいんですよ。困ったときはお互い様なんですから。あと、これ」
真音は白い紙袋を篤司に差し出す。篤司は小さく驚嘆の声を発し、おずおずとそれを受け取る。
「手ぶらなのもあれかなと思いまして」
「すまんな。こっちは厚いもてなしもできないのに」
「いいんです。今回のは、ほら……事情も事情ですから」
私は寝たふりをしていたが、二人の視線がこちらに向いているのを肌で感じた。
「ああ。本当にすまないな」
二人の示しを合わせたような会話を聞いていて、私は自分が悪役になったような心地がしていた。街角にある小さな探偵事務所なのに一生ここから出られないような、そんな錯覚をしてしまった。
そんなことを考えながら、私の意識は徐々に遠のいていく。千駄咲神社の幽霊とずっと話していたせいで、昨日の帰りはかなり遅くなってしまったのだ。まだ寝足りない。
私は、黒い空間に立っていた。辺りを見渡してものっぺりとした闇が広がるだけで、方向感覚も平衡感覚も頼りにならない。ただ確かに私は透明な足場のようなものの上に立っていて、当惑を隠せないままでいた。
歩こうにも上手く足が動かない。太ももだけを上下に動かしているかのようだ。
そして、ふいに私の体は落下した。全身を気持ち悪い浮遊感が包み込む。着ている衣服が忙しなくはためいている。だが自然と恐怖はなかった。「ああ、落ちるのだな」と、なぜかその状況をさらっと吞み込んでいた。
ふと、どこかから悲鳴のようなものが聞こえることに気が付いた。これはどこから聞こえているのだろう。いや、そんなことより、これは誰の悲鳴だろう。落ちていく私に向けられている悲鳴なのだろうという推測はつくが、それが誰なのか分からない。女性だ。女性の悲鳴だが、それしか分からない。
その悲鳴をかき消すように、声が聞こえる。聞き間違えるはずもない。女にしては少し低い声。長谷川暮葉——私の声だ。
「いっそ死ねたら良かったのに、なんて」
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