第13話

 そうだと分かっているのに、幽霊の口にする言葉と今の状況を重ね合わせてしまう。私は部屋を訪ねている。扉越しに話しかけている。だが幽霊は「りんが」について言及するのを渋っている。彼女の言う通り、これはまるで通商だ。

 ——通商。私はこの言葉をどこかで見たような気がする。

「嘘はついていません。ごまかしているだけで」

 幽霊の、その自嘲気味な物言いの真意を、私は上手く掴むことができなかった。落胆するような声だったが、少なくとも私を馬鹿にしているわけではないようだ。

「君は、どこまで知って——」

「それは言えません」

 先ほどまでの饒舌さはどこへやら、幽霊はすぐに自動音声のように淡々とした受け答えを再開した。あと少しで何か掴めそうだったのだが、まるで煙のように指の間をすり抜けていく。私を困らせる煙なんてタバコだけで十分だというのに。

「……君は、部屋には決して入れないと言ったね」

「はい」

「私はなんとしても部屋に入ってみせるよ」

 私はそう言い残し、本殿に背を向けた。太陽が雲の間を行き来しているので辺りが暗くなったり明るくなったりを繰り返している。風も強まってきている。雨が降り始めるのではないかと憂い、私は足早に千駄咲神社を後にした。

「わた——いの——」

 木々のざわめきに紛れて何か声がしたような気がしたが、私はそのまま鳥居をくぐった。


 午後九時過ぎ。篤司が風呂に行っている間に私はいつものようにベランダでタバコを吸っていた。昼ほどではないが、髪が揺れるくらいの風が吹いており、風鈴が一定の間隔で鳴り続けていた。吐いた煙が左へと流れていく。

 そこへ、ポケットに入れていた携帯に一つの着信が入る。清水からだった。

「やあ、清水くん」

「あ……く、くーちゃん?」

 私は思わず笑い、煙でむせてしまった。「くーちゃん」とは、清水の親が履歴を見ても違和感がないように、同級生っぽいあだ名として私みずから提案した名前だ。まさか本当に使われるとは思ってもみなかった。

「ちょっと待ってくれ、急に笑わせないでほしいんだが」

「ごめんなさい——お母さんに聞こえてるかもしれないんです」

 清水は至極申し訳なさそうにささやく。

「分かったよ。ため口の方が違和感もないだろうから、できるだけ自然に会話してくれ」

「は、はい。その、『りんが』についてこっちでも少し調べてみて……それで、えっと」

 清水の声にわずかなノイズが混じっている。どうやら本のページをめくりながら電話をかけているようだ。

「リンガ・フランカ、かな?」

 私がそう言うと、清水は力なく笑った。

「やっぱりくーちゃんはもう知ってたんだね」

「ああ、てっきりあの紙は、清水くんがくれたもの、だと思っていたが」

 私はいまだに「くーちゃん」という呼び方に慣れず、時折笑ってしまうのをどうにかこらえながら話す。

「あの紙?」

「うちのドアポストに『リンガ・フランカ』とだけ書かれていた紙が入っていてね。怖いほどに整った文字だったよ。お互い複雑な事情でろくに電話もできないから、こういう形で伝えてくれたのかと思っていたのだが」

「いや——僕じゃないよ、それ」

 清水は少し怯えるような声色で答える。

 そうなると、あの紙は誰がどんな目的で入れたのだろうか。少なくとも千駄咲神社の幽霊に関する全てのことを規制しようとする篤司とは真反対の思想を持っていそうだ。

「そうか。いや、だったら別にいいんだ」

「それで、今日もあの神社に行ったの?」

「ああ。これといった成果は得られなかったが、幽霊と様々なことを話すことができたよ」

「幽霊と——」

 清水の声が慌てて口を塞いだかのようにこもる。

「少々君には難解かもしれないが」

 私はそう前置きを置いてから、今日の昼に交わした幽霊との会話をゆっくりと思い出しつつ、自分の所感も含めた話を始めた。私の話に合わせ清水は「うん」とか「えっと」と言ってリアクションを起こしてくれるので、ストレスなく話すことができた。清水はかなりの聞き上手なのだろう。あるいは、両親の機嫌を取るためにそういうスキルを身に付けたのだろうか。

「つまり、えっと」

 清水はぶつぶつと呟き、ゆっくりと自分の思考をまとめているようだった。私は少し笑みを浮かべながら彼の思考を邪魔しないよう、静かにその理解を待った。

 そして清水は「ああ、そういうことかな……? たぶん」と言った。

「分かったかい?」

「うん、完全には分かりま——ないけど。その人は何かを知ってそう、というのは確実に理解できたよ。くーちゃんの知らないことを」

「さすがだね。それで合っていると思うよ。ただ問題なのは、私たちはまだあの本殿を開ける方法を知らない、という点だ。それも含めて私はあの幽霊に交渉をしなくてはならないだろう」

「本殿の扉を開けることと、何を知っているのかっていう情報について交渉するんだね」

「そうだ。まあ、私は君に依頼された身さ。成し遂げてみせるよ。——さて、そろそろ篤司が戻る頃だ。また」

「ありがとう」

 私が電話を切ると同時に、ダイニングの扉が開く音がした。灰色の部屋着を着ている篤司がじっとこちらを見つめて立っていた。

 篤司は無表情のままベランダの窓を開け、「入りなさい」とだけ言った。悪い予感がしたが、かといって抗うこともできないので私は言われるがままベランダを出た。

「そこに座りなさい」

 私がリビングに足を踏み入れるや否や、篤司はそう言ってダイニングの椅子を指差した。仕方なく席につくと、彼も向かい合うように座り、両手を机の上に乗せ、指を組み合わせる。眼鏡がわずかに曇っていて、その瞳がどんな色を浮かべているのかすら分からない。

「暮葉。お前が何をしていたか、自分の口で言ってくれ」

 篤司はまるでロボットのように淡々と言葉を繋げる。怒りを微塵も感じられないのが、逆に恐怖を煽っている。こんなあらゆる感情を押し殺したような口調を聞くのは人生で初めてのことだった。

「電話を、してた」

「それは知ってる。お前の声が聞こえたからな。お前が誰に、何の話をしていたのか、だ。俺が聞きたいのは」

 私は思わず篤司から視線を外す。これは決して無断で千駄咲神社に行った罪悪感などではなく、どんな言い訳をするべきか考えるためだった。

「依頼主と、電話をしていたよ。お互い趣味が合うということで仲良くなったからね。私も砕けた口調で雑談してたわけで」

「……そうか」

 ぽつりとそう言い残し、篤司はすぐに席を立ち下へ降りていった。

 いくら篤司が普段から生真面目過ぎるとはいえ、こんな言葉で納得するとは思えない。かといって、彼が何を考えているのか推し量るのも難しい。いつも素直で分かりやすい性格だからこそ、こういう場面で何をするのか分からないのだ。

「明日からお前に監視を付けることにした」

 ふと顔を上げると、ダイニングの扉を開けながら篤司が開口一番にそう告げた。廊下の生ぬるい空気が足元を這うように流れてくる。

「監視って……随分と大げさだね」

 私は笑みを含みながら言ったが、篤司は絶えず鋭い目つきと無言の圧を容赦なく降り注いでくる。

 本気なのだ。そう感じた。同時に寒気がした。時計の針が進む音が鼓膜を打ち震わせる。

 あの千駄咲神社に篤司がどうしても隠したい何かがあるのは察しているが、いったい何が篤司をそこまでさせるのかまでは分からない。物言わぬまま、淡々と私を束縛しようとしている。人生において篤司をここまで不気味だと感じるのは初めてだった。

「明日の朝、真音まねが来る」

「真音が……?」

 私と真音が喧嘩しているのは篤司も知っているはずだ。なぜよりによって——。

 いや、だからこそだろう。私は今、真音の機嫌を損ねるような行動はできない。そして大人しく彼女に従わなくてはならない以上、無闇に外出はできない。

「そうだ。だから、今日はもう寝ろ」

「いやいや、納得がいかないね。どうして監視なんてものを付ける必要——あ、いや。監視を付けるのは千駄咲神社に行ってほしくないからだろうが、それにしても、少し常軌を逸しているとは思わないか?」

「思わない」

 まるで千駄咲神社の幽霊を相手にしているような、あの感触のない会話だった。

 篤司は感情が顔に出やすいタイプだというのは幼少期から知っている。それは私が小学生の頃から変わらない。

 それなのに、今の篤司の中身は空っぽのように感じてしまう。本当に何の感情も湧いていないのか、それともいくつもの感情が渦巻いているために互いが互いを打ち消し合って結果的に無感情のように見えるのか。

 最終的に、折れたのは私の方だった。ため息交じりに篤司の言葉に返事をして、そのまま一回のソファに寝転がった。

 しかし、私は眠らなかった。というより、寝たくなかった、というのが正解だろう。私の身の回りを囲むこの異常性はどこから来て、最後にはどのような形に変化を遂げるのか。明日のことすら不透明なまま眠るのはあまりにも気持ちが悪い。

 それに、あの悪夢をまた見てしまうのではないかという恐怖もあった。一度も体験したことのない情景のはずなのに、目が覚めるといつも心臓が狂ったように鼓動をしている。理性では理解できない、もっと根源的な恐怖があるのだろう。

 私は篤司が眠るまでの約二時間、ソファにぼうっと座り込んだり、意味もなくパソコンを開いたりしていた。そして、篤司が眠ったのを確認してからコートのポケットにタバコと携帯を乱雑に入れ、深夜の街に繰り出した。

 バスはとっくに走っていない。千駄咲神社に行くとしたら、徒歩になるだろう。そしてきっと、これからはずっとこういう夜中の調査を行うことになるのだろう。


 夜の町はしんと静まり返っていて、あのぎらぎらと輝く太陽もないから空気が冷えていて、そして全ての建物や山が見たことのない不気味な姿をさらしている。たぶん人間は見ていないからと本性を表しているのだろう。

 そういえば、私が夜中に一人で外出したのはいつが最後だっただろうか。両親が殺され、篤司と祖父母と一緒に生活していたとき、放課後でも夜でも外に出させてもらえなかったのは覚えている。二人暮らしを始めてから篤司が仕事で昼もいないことが多くなり、私自身も探偵業を開いたことで比較的自由に外出できるようになった。だが、夜中は外に出た記憶がない。両親が殺されたことが深く関わっているのだろう。心のどこかで暗闇を恐れているに違いない。

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