Ⅱ.君の嘘

第12話

 どれもこれも、全て太陽のせいなのだろう。真夏の太陽がこうも自己主張するように私を照らすから、きっと頭がおかしくなってしまっているのだ。

 植物は日の光を受けて成長する。真っすぐ、自分のなりたい姿へと形を変化させる。

 成長という言葉は良い言葉のように聞こえるが、実際のところは老化となんら変わりない。老いるから知識や経験が増えて、あたかも正しく良い大人になったような心地がするだけだ。日光を受けてその金属質な体躯を輝かせるエリンジウムも、太陽に顔を向けるヒマワリも、時が経てばいつかは枯れてしまう。太陽は生命を朽ちさせるための装置だ。死の象徴だ。

 私は絶対に老衰なんかで死にたくはない。あれほどみじめな死があるだろうか。

 何より恐ろしいのは、死んでしまえば何も隠すことができなくなるという点だ。傷だらけの上肢じょうしも、私が残したわずかな生活の残滓ざんしも、全て外にさらされてしまう。そしていつしか霊媒師が来て、私の魂とやらを代弁して心のうろすらも——。

 ああ。日の光というのはどうしてこうもうざったいのだろう。人や植物の老化を促すからだろうか。おかげで私の頭は今にもおかしくなりそうだ。


 私はうだうだと夏の日差しに対する屁理屈をこねながら、千駄咲ちださき神社に続く階段を上っていた。相変わらず蝉の鳴き声が騒々しい。肌も鼓膜も何か熱いものに覆われたような心地がする。

 ここに来たのは、あの紙に書かれていたリンガ・フランカとは何のことなのか確かめるためだった。一昨日、昨日と篤司が休みでずっと家にいたので悶々もんもんとしたまま事務所のデスクに座り、パソコンとにらめっこをしていた。その反動もあってか私はこの酷暑の中ここまで歩いて来れたのだが、なぜよりによって今日外に出てしまったのだろうとなかば後悔し始めていた。ネットニュースによれば、静岡県浜松市にいたっては四十一度という最高気温を叩き出しているらしい。コンクリートも溶解を始めてしまうのではないだろうか。

 幸いにも千駄咲神社へ続く道は全て木陰の中にすっぽりと収まっているので、私の頭は徐々に冴えてきた。暑さのことはいったん忘れて、今から幽霊と会うために心の準備をしなくては。

 ネットで調べた限り、リンガ・フランカとはイタリア語で「共通語」を意味する単語だ。幽霊は口数こそ少ないものの、会話ができないことではない。何かヒントになることでも聞くことができれば、「りんが」と口にした意味と幽霊の正体についても知ることができるのではないかと、我ながら浅はかだと思えるほどに小さな希望を抱いてここまで来たのだ。どんなに心もとない藁でも掴まざるを得ないのが今の私なので仕方がないのだが。

 階段を上り切ると、人生で三度目の光景が視界いっぱいに広がる。最初に目に入るのは半壊の拝殿はいでんだ。屋根の瓦はほとんど剥がれ落ち、その下の木材が痛々しい傷跡を外にさらけ出している。何も知らない人がこれを見れば、ここが元は神がいた場所だったなどという話は到底信じられないだろう。

 拝殿に続く道もかなりお粗末なものになっている。石畳のあらゆる隙間から名も知らぬ植物が生えている。両脇の灯篭や狛犬の像にも、ここがずっと日陰なので湿気が多いせいか苔が生えており、それらがこの地は人の手から完全に離れた場所なのだということを主張している。

 視線を上げれば、背の高いブナやナラの木が丸の内のビル群のごとくそびえ立っており、わずかな葉の隙間から日光が漏れ出ている。あの幽霊がずっとここにいるのも少し分かるような気がした。ここは本当に奇麗で、しかも過ごしやすいのだ。私がここを自室にしろと言われても文句は言わないだろう。唯一の懸念点はあまりにも蝉の鳴き声がうるさ過ぎることだ。

 私はボロボロの石畳の上を歩き、拝殿を横切る。そこに今回の目的があるのだ。

 千駄咲神社の本殿。幣殿へいでんはないので、まるで小さな小屋がぽつんと置かれているように見えて、それが尚のこと不気味に見える。

 本殿は拝殿とは異なり取り壊されておらず、ただ苔が生えたままずっと放置されているようだ。いつだか旅行へ行ったときに見た出雲大社の本殿——こんな片田舎の神社と比べるのは酷だが——と比べて幾分いくぶんも小さい。横幅は四メートル、奥行きは三メートル、高さは約五メートルといったところか。

 側面には格子窓が左右に一つずつある。依頼主の清水しみずの友人である瞭大りょうたはここから中の様子を見たところ、幽霊がいるのを見たのだという。

 しかし、今は中の様子は思ったよりも暗く確認できない。幽霊が瞭大に見られたことに気づき、全て黒い布で塞いでしまったのだろうか。

「やあ、私だ。そういえば、ずっと自己紹介をしていなかったね。長谷川はせがわ暮葉くれは。この町で探偵事務所を開業している、しがない探偵だ。聞こえだけはいいだろう?」

 私がそう話しかけても、まるで返答はない。留守にしているのだろうか。単に無視されているのだとしたらかなりショックだ。


「——りんが」


 快感すら覚えてしまいそうな、風鈴の音色のような澄み切った声が聞こえる。幽霊の声だ。彼女はどうやら本当に私の自己紹介を無視していたようだった。

「やあ。君も変わらないね。……なあ、私の家に『リンガ・フランカ』と書かれた紙を入れたのは君かい?」

 その時、ひゅっ、という息が喉を掠めたような音が聞こえた気がした。一陣の風の音のようにも聞こえた。しかしそれだけで、幽霊はまるで何も答えなかった。

「何か知っているようだね」

「何も話すことはありません」

 幽霊は平静を取りつくろうように声の抑揚を消して言う。

「いや——正直に言って、私は何か当てがあって今日ここに来たわけじゃないんだ。調べたところ、リンガ・フランカは共通語を意味する言葉らしいのだが、それが君にとってどう大切な言葉なのか、誰にとっての呪いの言葉になるのか、まるで見当がついていない」

「だったらどうして来たのですか」

「情けない話だが、君に訊こうと思ってね。そう勿体ぶらずに教えてくれると助かるんだが」

 幽霊は黙り、なんの言葉も返さなかった。また何も答えなくなるだろうということは分かっていたが、この暑い中わざわざ来たのだという事実がむりやり私の根気を保たせ、話しかけ続けることにした。

「そもそもの話、だ。君は本当に幽霊なのかい? いつも私が来るときは本殿の中にいるから異常に見えるが、そう見えるだけの人間であるという可能性もあるだろう。例えば、ホームレスのような人間はまさにこういうひと気のない場所を好んで住処にするはずだ。ホームレスでなくとも、世の中には常識にとらわれない奇人だって山ほどいる。君もその一人というだけかもしれないね」

 返答はなく、ただ私の声だけが境内に響く。なんだか虚しくなってきてしまう。俯瞰してみれば、二十一歳の女が夏だというのにロングコートを羽織って、もう使われていない本殿の扉に向かってずっと話しかけているのだ。暑さで精神がおかしくなってしまった人のようにしか見えないではないか。

 それにしても、どうして幽霊はここまでかたくなに話そうとしないのだろう。何か幽霊としての矜持きょうじがあるのか、それとも何か隠さなくてはならない理由があるのか。

「君はこの話をしたくないようだから、話題を変えようか。軽い雑談でもしよう。どうせ暇だろうからね。あれは、私がまだ小学生だった頃、だったかな? 確かそれぐらいの時の話だ。私は浮き輪を使って海を泳いでいたんだ。自慢じゃないが、私は昔から運動全般が苦手でね。その頃には同級生のほとんどが一人でも泳げるようになっていたんだ。だから当時の私は心のどこかで若干の焦りを覚えていたんだろう。誰もいないところまで行き、泳ぎの練習をしようと浮き輪を外して一人で泳ごうとしたんだ。だが、失敗した。私はまんまと波にさらわれておぼれてしまったんだ。幸いにも助かったんだが、それから私は海が大嫌いになってね。今も嫌いだよ」

「どうして助かったんですか?」

「それは、周りの大人が——」

「『誰もいないところ』と言ってませんでしたか?」

 私は言葉に詰まった。確かにそうだ。私はどうして助かったのだろうか。溺れてからの記憶はなくて、気づけば病院の天井を見上げていた。脇には篤司が心配そうに心電図を見つめながら座っていた。

「——あれ」

 その流れを、私はつい最近も経験している。あの自動車事故だ。記憶がなくて気が付けば病院にいたのも、その後の生活にこれといった支障がなかったのも。

 思わず身震いした。水分を多く含んだ熱い空気に包まれているにも関わらず、まるで体の芯から冷えるような心地がして肌が粟立あわだつ。

 いや、どちらも衝撃的な事故だ。記憶がないのも当然と言えば当然だろう。

「記憶とは恐ろしくも便利なものですね。従順に働いてくれるが、従順そうに見えるだけ」

 扉越しの幽霊は、悟ったような口調で話しを始める。

「あなたは胸を張って言えますか?」

「……何が、なの?」

 思わず普段の口調を忘れてしまうほどに、私は動揺していた。素の自分はこんな話し方をするのか、という新たな気づきがあった。

「自分の脳は従順か否か、です。あらゆる記憶は全て脳という部屋に詰め込まれています。その部屋の扉越しにあの時の記憶はあるかと訊ね、そんなものはないと言われればそれまでなのです。脳はあなたに嘘をつきます。錯覚も健忘も脳の嘘です」

「いや、その、何を言ってるのか——」

 私の言葉もお構いなしに、幽霊は話を続ける。

「あなたは自分の目で記憶を確認することができない。記憶を取り出すことくらいならできますが、部屋には決して入れないのです。記憶喪失とは、利己的な部屋が記憶を出し渋るから起こるのです。『脳がショックを受けてしまうから』とのたまって、吝嗇家りんしょくかを気取るのです。あなたは扉越しに記憶の通商を行うことしかできない」

 嘘。部屋。扉越し。吝嗇家。通商。

 幽霊の言葉が鐘が鳴ったように脳の中に絶えず響き、する。目の前にそびえ立つ本殿がまるで伏魔殿ふくまでんのように見える。

 千駄咲神社の本殿には、吝嗇家が住んでいる。

「君も、嘘をついているの? 私の頭の中にある部屋と同じように」

 いや、違う。そうではないに決まってる。これらは全て幽霊の比喩表現だ。決して現実のことだとか長谷川暮葉という人間自身のことだとかを話しているわけではない。

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