第9話

「珍しいね。そんな思い詰めたような顔をするなんて」

「……ああ、いや。何でもないの。とにかく、あまり篤司さんを困らせちゃ駄目よ」

「分かってますよ」

 私は不服そうに口をとがらせ、抹茶ラテを飲む。最後に飲んだのはいつだったかも覚えていないが、久しぶりに飲むそれはまだ熱の取れていない体に心地良く染み渡った。

「お仕事の方は上手くいってるの?」

「え……その話、したい?」

「ええ。あなたの話は楽しいもの」

 真音は先ほどと同じように目を細める。

「良く言えば気ままに仕事できてる、悪く言えば依頼が来なさ過ぎるって感じだね」

「やっぱりこの町に探偵は要らないのかもね……まあ、平和でいいことだけども」

 私はその言葉にうなずいた。平和なのはいいことだ。探偵として依頼は欲しいが、もう二度と私の両親が遭ったような悲劇が起こってほしくはない。

「ねえ。この町を捨てて、私の大学があるこっちの市に来たらどう? 少なくとも依頼は多くなるわよ」

「引っ越しなんて面倒な手続きは勘弁してほしいものだね」

 私はそう小言を言いつつも、頭の中で長谷川探偵事務所を移動させることを考えていた。もしそうなったら篤司の負担も減るだろうし、何よりも、

 ——『ただ、何の成果も生み出せずにずっとこの町で生きていかなくてはならないのかと思うと、いても立ってもいられないのだ』。

 私のこの永遠に解決しなさそうな悩みが、解決とまではいかなくとも良い方向へかじが切られるのではないか、という希望的観測をせざるを得ない。

「どうして? あそこは色んな人がいるわ。いつも以上に忙しくはなるだろうけど、いつも以上に充実した生活を送れるはずよ」

「充実した生活、ねえ……真音ならどんなタスクも全てこなせそうだが。私には難しい話だよ」

「だったら人を雇えばいいじゃない。私でも誰でもいいから。この先、あなた一人でやっていくのもいつか限界が来るはずよ。『探偵業、疲れちゃったな』って」真音は小さく笑う。

「私がそんな弱い人間に見えるかな?」

「ええ」

「失礼だね」

 私も笑みを浮かべると、なぜか真音は再び不思議そうな表情を浮かべる。

「……うん。やっぱり変ね」

「ん、何が?」

「なんか、前までのあなたとなんか違うのよね。篤司さんも言ってたけど」

 そもそも、真音と篤司が連絡を取っていたことの方が驚きだ。二人は一時期付き合っていた時期があったのだが、価値観の相違というあまりにもありきたりな理由で別れたのだ。てっきり連絡すら取っていないと思っていたが。

「まあ、事故で性格が変わるというケースも全くないわけではないからね。えっと……高次——」

「高次脳機能障害、ね」

「そう、それ」

 検査では何の異常もなかったことは伏せておこう。話が余計に複雑な方へ進んでいきそうだ。

「それにしては性格はあまり変わってないのよね。でも、なんかこう、底抜けに明るくなっただけというか。上手く言えないけど、毒を抜いたみたいな」

「いいことじゃないか」

「まあ、そうなんだけど」

 真音は相変わらず不思議そうな顔で頭をひねっている。彼女の顔を見て、なんだか篤司を相手にしているような気分になった。特に、このずっと悩まし気にしている表情は篤司そっくりだ。ひょっとして二人はまだ付き合っていて、表情や仕草が徐々に似ていってるのではないだろうか。

その時だった。


「りんが」


 思わず耳を疑った。真音は相変わらず思いつめたような表情を浮かべたまま、しかし口からは異様な言葉を発していた。千駄咲神社での出来事が一瞬にしてフラッシュバックする。あの風鈴のような美声と真音の声が重なり、脳内で反響する。

「え、あ……」

 何かを言わなければならないと頭では分かっているのだが、考えが上手くまとまらない。風鈴の音色と千駄咲神社で聞いた声が、まるでハウリングのように異音を響かせて思考を乱す。同時にひどい耳鳴りが襲う。

 そして、しばらくの沈黙が続く。真音は私と目を合わせようとせず、ストローで抹茶ラテをかき混ぜ続けている。

 ふと、店内に音楽が流れていることに気が付いた。今流行りのJ-POPなどではない、しかし聞き覚えのある音楽だった。『グリーンスリーブス』だ。

「それ、どうして」

 自分でも驚くほどにかすれた声だった。私の声に真音は顔を上げた。

 そこには、なんの感情の色も見られなかった。彼女の肌の色が白いこともあって、目の前の光景だけまるで白黒映画かのように錯覚してしまう。

?」

 先ほどまでの真音とはまるで違う、冷ややかな口調だった。私は彼女の言葉の真意を推し量ろうとしたが、どうにも分からずかぶりを振った。

「私は、ずっとその『りんが』という言葉を知りたがっているんだ。もし真音が知っているのなら、教えてほしい」

「これを初めて聞いたのは、いつだった? どこで? 誰に言われた?」

 私の申し出はいとも簡単に無視され、ただ警察の事情聴取のように矢継ぎ早に質問が飛んでくる。私は急いで記憶をたぐりながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「初めて聞いたのは、確か二日前だったね。千駄咲神社って——まあ、『りんが』を知ってるなら千駄咲神社も知ってると仮定して話を進めるよ。そこの本殿から声が聞こえたんだ。あくまで扉越しに聞いただけだから、姿は見れてないが」

 私がそう言うと、ほんの一瞬だけ、真音の表情に変化があった。

 それは怒りのようにも、悲しみのようにも見えた。夢の中で聞いた震え声と似た雰囲気を感じた。

 そういえば、あの声は本当に私の声だっただろうか。

「……いや、分かってたの。私、分かってた。でも、信じたくなかったのよ。あなたが——

 真音はたったそれだけ言い残してすぐに席を立ち、伝票を持って早々に会計を済ませ、そのまま喫茶店を後にした。取り残された私はひどい喉の渇きを感じ、真音の後を急いで追うこともなく抹茶ラテを飲み干し、それからふと窓の外に視線を向けた。

 街路を早足で行く真音が目に入った。彼女の頬には、怒りとも悲しみとも取れる感情が滲んでいた。


 私は憔悴しょうすいしたまま帰路に就いた。真音と喧嘩したことがないわけではないのだが、今回のは喧嘩とも違う、異質な気まずさがあった。

 篤司は二階のキッチンでナスとベーコンのパスタソースを作っているところだった。私の想像以上に早い帰宅に少しばかり驚いていたが、少なくとも神社には行ってないだろうと思ったのか安堵の表情を見せていた。

「早いご帰宅だな」

「まあ、ね」

「何か、あったのか?」

 篤司はテーブルの上にパスタを置きながら椅子に座り、話を聞く態勢に入る。私も篤司に向かい合うように座り、手を組んでテーブルに視線を落としたまま話を切り出す。

「いや、別に取り立てて異常事態があったわけじゃないんだけど……真音と少し喧嘩をしてしまってね」

「お前ら、喧嘩なんかするのか。中学の時はいつも二人揃っておれをからかうようなことばっか言ってたのに」

 篤司は口の端をわずかに上げて笑う。

「今困ってるのは、そもそもどうして真音を怒らせたのかよく分からないことなんだ」

「そうか」

 篤司は苦い顔をしながらも、どこか納得したように小さくうなずいていた。

「真音も篤司も、最近、なんだか変じゃない?」

「変って、何がだ?」

「……いや、なんでもないよ」

 これを言ったらまた昨日のように話がこじれてしまうような気がして、私はすぐに口をつぐんだ。結局、この日はどこか悶々もんもんとしたまま無為な一日を過ごさざるを得なかった。

 私の周りの人々が、千駄咲神社の幽霊を中心に少しずつ狂っていくのを肌で感じる。私の見えないところで何が起こっているのだろう。


 私は”手上”と印字されたバス停で降り、以前と同じように千駄咲神社の方へ歩みを進める。正直に言えば「りんが」に関する情報も手がかりも全く得られていないが、行かなくてはならないという義務感と焦燥感に迫られていた。

 今日は土曜日だが、篤司は「二日連続で有給貰ったからさすがに行かないといけない」とよく分からないことを言って朝早く出勤した。社会人ともなると、やはり自分の意思はいったん無視して行動することが多くなるのだろうか。篤司はやはり少し真面目過ぎるきらいがあるような気もしてくる。

 その点で言えば私はまともな社会人ではないが、正しく自分の意思を持って仕事をできている。この町で個人事業主としての探偵業を営むことは私に合っているのかもしれない。

 この町で——そういえば。真音が提案していた隣の市に探偵事務所を移動させるという話。あれはいったいどうしようか。あの提案は確かに魅力的だ。だが——本当にそこに幸せがあるのだろうか。私は少なくとも今より無為な時間を過ごすことはなくなるだろう。篤司の負担だって減る。だが、そこに幸せがあるようには思えない。

 私の幸せとはなんだろうか。そして、こんなことを自問自答しては結局答えが出ず苦しむのは何度目だろうか。

 私は苔むした階段を上る。わずかに湿り気があり思わず足を踏み外しそうになっては自分の体幹のなさと運動不足を恨んだ。中学の頃の自分はもう少し運動ができていたはずだが、あれから数年経ったというだけでここまで衰えるものか。

 その時、蝉時雨に混じって誰かの声が聞こえた。心臓が急速に動き始め、その鼓動音が耳の奥で響く。私は思わず階段を上る足を止め、耳を澄ました。

 二人が会話しているようだった。一人は女、もう一人は男。どうやら女の方が立場は上のようで、男の方だけが敬語を使っている。私の心臓の音も相まって詳しい内容までは聞き取れないが、何やら相談事のような会話をしているようだった。

「随分とひどい臭い——それで——くん——」

「僕は——思います。確かに——ですが——」

「分かった——最後——しよう」

 少なくとも千駄咲神社を解体したり管理しようとしている人間ではないと直感した私は、見つかっても特に問題はないだろうと考え再び階段を上り始める。

 上り切った時、その二人はこちらをじっと見つめていた。どうやら足音を聞かれていたようだった。

 どちらも制服を着た高校生だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る