第8話

「ああ。友人の瞭大くんは、そもそも話しかけられていないんだったね」

「たぶん、話しかけられてないで——いや、聞き逃したのかもしれないんですけど」

 少し不思議だ。この差は何から来るものだろうか。

 違うことと言えば、私は幽霊に話しかけたが、清水の話からしておそらく瞭大は話しかけていない。「りんが」についての言及の差は、接触方法の違いによるものなのだろうか。

「そうか。いや、その幽霊に会ったのは昨日だったのだが、『りんが』は大切な言葉で、ある人にとっては呪いの言葉だと言っていたんだ」

「ある人って……千駄咲神社に関連のある人、とかかな」清水は電話をしていることも忘れたように独りごちる。

「それは分からないが、いずれにせよ、まずは幽霊の正体が大切になってくるだろう。そのためには本殿の扉を開けなくてはね。というより、『開けてもらう』と言った方が正しいのかな」

「そうですね。僕の方でも、少し『りんが』について調べてみます。父が大学で先生をやってるので、家にある本に載ってるかもしれません」

「へえ、父が大学教授か。どおりで君も聡明そうめいな話し方をするわけだ」

「ソウメイ?」

 ふいに遠くからバイクのエンジン音がけたたましく響いてきたので、私は携帯のマイク部分を手で押さえつつ、ベランダから部屋の中へ戻る。

「頭がいい、という意味さ。君は小学生だというのに、両親の目をかいくぐって私に依頼をしに来ることができただろう?」

「それは」清水はしばらく押し黙ってしまう。「パパもママも、僕にあんまり興味ないから……」

「どちらにせよ、だよ。普通の小学生であれば、そもそも誰かの正体を突き止めるために探偵に依頼しようなんて考えつかない。だいたい自分で確かめたがって、失敗して、最終的には怒られてしまう。その点で言えば清水くんは賢いよ。もっと自信を持つといい」

 その時、廊下の奥から階段を上る音を耳にした私は「すまない、篤司だ。また明日かけ直す」と小さな声で言い残し、すぐさま電話を切る。

「どうした? 暮葉」

 ダイニングの入口に、灰色の寝間着を着て麦茶が入ったコップを持った篤司が立っていた。少し困惑した表情を見せている。

「どうしたって?」私は平静を装うように訊ね返す。

「いや、なんでいつもみたいに一階にいないんだろうって。おれに用でもあるのか?」

「まあまあ。これといった用事がなくてもいいじゃないか。篤司も一人で麦茶を飲むの、もう飽きただろう?」

「……まあ」

 篤司は曖昧な返事をしながらテーブルの上に置きっぱなしにしてあった食器を片付ける。私はいつものように「ああ、すまないね」と笑みを浮かべる。

「……それで、なんで二階にいたんだ?」

 篤司は椅子に座ったまま、いつにも増して険しい表情で私をなかばにらむように見つめる。

「そんなに気になる?」

「気になるから訊いてるんだ。最初はベランダでタバコを吸ってたのかと思ったが、匂いがしない。それに、お前がずっと携帯を握ってるのも気になる」

 篤司の視線が私の手元にいっているのに気づき、私はすぐに携帯をコートのポケットに入れる。

「そういうところだけ、篤司はいやに慧眼けいがんだね。いつもは鈍感の擬人化みたいな感じなのに」

「変にごまかせばごまかすほど苦しくなるぞ」

「言ったところで、私に何の得があるのかな?」

「あのな……お前が苦しまずに済むんだ」

「どうして?」

「それは」篤司は苦しそうに顔をしかめ、何かを言おうとするが上手く言葉がまとまらないのか、ただ口をパクパクと動かしている。「いや、分かってくれ。これはお前のためを思って言ってるんだ。絶対に、あの神社には近づくな。……頼むから、近づかないでくれ」

 どうにか絞り出したような、そんなか細い声。外から聞こえる虫の鳴き声に今にもかき消されてしまいそうだった。ここまで弱った篤司を見るのは初めてのことだったので、思わず私は少し戸惑ってしまう。

「……分かったよ。私だって、篤司にあまり心配をかけたくないからね。でも、だからこそ。なぜ私が神社に行くと駄目なのか、教えてほしいんだ」

「暮葉が、知ってしまうから」

「何を?」

「知ってしまうのが駄目なんだ。だから、それだけはどうしても教えられない」

「知ったらどうなる?」

 篤司はその質問を受けて視線を床に落とし、ひどく思い詰めた様子を見せる。

「言いたくない」

「どうして?」

「それを口にしたら、本当にその通りになってしまう気がしてならない。お前の『文字や言葉を媒介として、想いを形而下に引きずり出さなくてはならない』——だったか。あの言葉。おれはあれを正しいと思わない。想いは、想ったまま胸の内に秘めておくのがいいことの方が多いからだ」

 それから、篤司は口を利くことも目を合わせることもしなかった。そこまで隠したい「想い」とは何なのかよく分からなかったが、今は穏便に済ますべきだと私の直感がそうささやいていた。お風呂上がりに吸うタバコも、いやに不味く感じた。


 次の日の朝。私が「今日、昼頃になったら出かけるから、昼食の準備はしなくていいよ」と口にすると、昨晩の寡黙さはどこかへ飛んでいき、篤司はひどくうろたえながら私に同じ質問を何度も投げかけてきた。どこへ行くんだ、一人か、神社には行かないだろうな。その全ての質問に私は「大丈夫だから」と言い、どうにか彼の気をなだめた。それでも彼は食い下がったので、出かけた先の写真を撮って送るということでどうにか外出許可を得た。今からようやく出かけるというのに、既にかなり疲弊していた。

 そして、ひとたび外に出れば、先ほどの篤司の質問攻めが軽く思えるほどの日差しと蝉の鳴き声が容赦なく降りかかって来た。私は日陰を何度も経由して休みつつ、どうにか約束の喫茶店へ到着した。

 私は思わず入店するのをためらってしまった。そこは、何度か店の前を通ったことがあるが一度も入ったことはない、私には明らかに無縁そうな喫茶店だったからだ。広い道路に面した店先には奇麗に整えられた低木や花壇があり、まるでショーウィンドウのようになっている大きめの窓から店内の様子をうかがうと、平日に暇な時間を持つことができる生活に余裕のありそうな客が談笑している。だが、昨晩に旧知の仲の友人から約束を取り付けられたため断ることもできず、私は勇気を振り絞るように重い扉を開けた。

 シンプルながらも気品を漂わせるダークウッドで統一された調度品が奇麗にまとまった店内に足を踏み入れると、席に座っている一人の女がこちらへ小さく手を振っている。茶色に染めた長髪に真珠のピアスを付け、窓際に座っているからなのか、その肌は雪よりもきめ細かで白く見えた。うだるような真夏だというのに、その人だけまるで雪国から来たようだ。

「篤司さんから聞いたわよ。事故っちゃったんだって? 相変わらずあなたは、ちゃんとしてるようでどこか抜けてるわよね」

 私が席に座ると、彼女は大人びた雰囲気を漂わせながらもどこか人懐っこい笑みを見せる。彼女こそが旧知の仲の友人、古橋ふるはし真音まねだ。私よりも歳は二つ上だが、幼い頃から一緒に遊んでいたこともあって気の置けない間柄になっている。

「失礼だね。私だってそれなりにちゃんとしてるさ。あの時は偶然にも注意散漫だったってだけで」

「どうだか。あなたって良くも悪くも昔から変わらないから」

「真音まで篤司と同じこと言うのかい」

 呆れるように言い返した時、柔和な笑みを浮かべた店員が注文を取りに来た。真音が抹茶ラテを頼んだので、勝手がよく分からなかった私も同じ物を頼んだ。

「それで、どうして急に呼び出したりしたのかな?」

 私が訊ねると、真音は「ああ」と思い出したように言い、それからにっこりと笑った。

「いや、単に久しぶりに話したくなったから。ほら、最後に会ったのってあんたが高校を卒業する少し前くらいでしょ?」

「そう……だったね。あれは、もう三年以上前になるのかな」

「そうよ。確かに私も院試の勉強やら研究やらで忙しかったけど、まさかあなたが急に『探偵になる』なんて言い出すとは思ってもみなかったんだから」

 真音は隣の市に一人暮らしをしており、近代文学の大学院に通っている。最初は行く気もなかったが、学部生として勉強しているうちに文学の世界に惚れこんでしまったらしい。だから一応は女子大生なのに彼氏の一人もできないのだと取り留めもない揶揄やゆをしておきたかったが、彼女はもう今年で二十三歳だということを思い出し、その言葉を飲み込んだ。

「ああ、そうだ」私はおもむろに携帯を取り出し、目の前の手を付けていない抹茶ラテを写真に撮る。

「え、こういうの写真に撮るタイプだったっけ」

 真音が信じられないといった口ぶりで訊ねてくる。

「あ、いや……昨日、篤司と喧嘩したって言ったね。それで写真が要るのさ」

「もしかして、出かける先の写真を送るの?」

 私は力強くうなずいた。

 私と篤司はよく喧嘩をする。喧嘩するほど仲がいいというくらいだから、きっと私たち兄妹は仲がいいのだろうと勝手に思っているが、それでも次第に多少はフラストレーションが溜まるもので、私は時折真音に愚痴を言ってしまう。昨晩も愚痴を言ったところ、久しぶりに会おうという話になり、私はこの明らかに不釣り合いな喫茶店へわざわざやって来たのだ。

「篤司が常軌じょうきいっした過保護なんだ。私ももう二十一だっていうのに、言った通りの場所に本当に行ってるかどうか証拠を見せなきゃいけないなんて」

 真音がわずかに映り込んでいる抹茶ラテの写真を篤司に送って、私は思わずため息をついてしまう。

「まあ、篤司さんの気持ちも分からなくはないわよ。過保護だとは思うけど」

「どうして?」

「だってあなたって、放っておくにはあまりにも危なっかしいもの」

「え、そんなにかな?」

「普通に生活してたら十字路で車なんかにかれないわよ」

「今の私には強運がついてるから大丈夫だ、と言っても?」

「なに、強運って」

 私は真音に、車に轢かれたもののこれといった大怪我がなかったことを伝える。てっきり怪訝な顔をされるかと思ったが、彼女はなにやら不思議そうな顔をしてじっと私の方を見つめ始めた。こういう風な反応をされたのは、篤司に続いて二度目だ。

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