第7話

「君は、篤司という男を知っているかな?」

 返答はない。蝉時雨がまるで耳鳴りのように絶えず渦巻いている。私はしばらく待ったが、それ以上何の声も聞こえなくなったので、小さくため息をつく。

「もしかしたら、また私はここへ来るかもしれない。その時になったら、今度こそ君と話がしたい」

 私はそれだけ言ってきびすを返し、幽霊の住む神社を後にしようとする。

「『りんが』とは」

 ふいに、帰ろうとする私の背に小さな声がかかった。相変わらず今にも泣きだしそうな声だ。——そういえば、あの夢の中の声も涙声だったような気がする。そんなことをつとに思い出しながら、本殿の方を振り向く。

「私にとって大切な言葉で、ある人にとっては呪いの言葉です」

 扉越しの幽霊は一拍の間を置いてから、再び言葉を紡ぎ始める。

「だから誰にも教えられない。教えてはならない。それが約束です。誰にも……私ですらも、それは捻じ曲げられないのです」

 こちらが悲しくなってしまいそうなほどに悲哀ひあいに満ちた声だった。私はほとんど反射的にボールペンを取り出し、その言葉を手帳に留める。そして「大切」「呪い」という部分に下線を引く。

「なるほど。ありが——」

「そして」彼女は食い気味に声を発する。

「あなたは私と会わない方がいい。そのために私はここの門番をしているのですから」

「いったい、なぜ?」

「どうか、海辺を歩くことすらできない私を、せめて、思い出の中だけでも」

 その言葉は祈るような口調で、まるで返答になっていなかった。彼女はそう呟いたっきりそれ以上は何も声を発さず、再びその場を静寂が包み込む。

「……また来るよ。彼から貰った二百円分の働きを、きっちりしなくちゃいけないからね」

 数分待ったが、これ以上はなんの成果も得られないだろうと判断した私はそう言い残し、千駄咲神社を後にした。背後に妙な視線を感じたような気もしたが、振り返ることはなかった。


「そういえば」夕飯時になり、よだれ鶏に箸を伸ばしながら篤司が訊ねてくる。

「お前、まだ小説は書いてるのか?」

 その言葉に私は思わずハッとした。そうだ。何かを忘れていると思ったら、小説を書き忘れているのだ。どうして忘れていたのだろうか。

「あ、いや……書いてないね。そろそろ書き始めるべきかな」

「いや、無理に書けなんて言う気はないんだが、ただ、珍しいなと思って。食事とか睡眠みたいな習慣になってたのに。いや、なんだったらそれよりも優先してた時期もあったな」

 篤司はとてもじゃないが信じられないといった様子で私の方を見る。私もまた、そんな大事な習慣を忘れている自分に驚いていた。

「いつも言ってたよな。えっと……文字を——」

「『文字や言葉を媒介として、想いを形而下に引きずり出さなくてはならない』……かな?」

 篤司は小刻みに首を縦に振る。

「そう、それだ」

 思わず背筋がゾッとした。これといって恐ろしい呪いの言葉などではないが、ちょうど昨日見た夢で聞いた言葉とリンクしているのが、妙におぞましかった。

「まあ、要は想ってるだけじゃ意味はない、みたいな意味だろう?」

「……分からない」

 実際のところ、私は確かにこの言葉を何度か言っていたが、その真意は自分でもよく分かっていない。確か、どこかで聞いたか、あるいは教えてもらったような言葉だった気もする。とにかくその出自はかなり曖昧なものだ。

「分からないって……まあ、お前はいつもそんな調子だから別に変でもないか」

「篤司は褒めるのが上手だね」

「褒めてるように聞こえたか?」篤司がせせら笑う。

「『周りに流されず自分のペースをきっちり守れてて偉い』って」

 篤司は大げさにため息をつき、それからうっすらと笑みを浮かべる。

「お前だけは良くも悪くも変わらないよ。……暮葉」

「うん?」

「明後日は、予定を開けといてくれ」

「どうして?」

だ」

 篤司はカレンダーに視線を向ける。明日は八月十三日——。

「ああ、なるほど」

「明日と明後日に有休を貰ったから、今年は車で行く予定だ。ただ、かなりの長旅になる見込みだから酔い止めを飲んでおけよ」

「嫌だなあ。私はもう二十一歳だよ? さすがに車酔いは治ってるさ」

「三時間はかかるぞ?」

「それは——」私は少し言葉を濁す。「まあ、大丈夫だって」

「いや、飲んでおけ」

 篤司は使い終わった食器を重ね、テーブルの上に青いパッケージの小箱を置く。私は「はいはい」と明らかに不満そうな声を出しつつ、それを手に取った。


 長野県松本市まつもとし浅間温泉あさまおんせんの、北に向かってずっと坂を上ったところに臨済宗りんざいしゅう神宮寺じんぐうじという寺がある。薬師堂に安置されている木造薬師如来坐像もくぞうやくしにょらいざぞうが文化財として登録されていたり、本堂前の石庭が荘厳な雰囲気を作り出している寺だ。春になれば入り口辺りで奇麗なしだれ桜も見られるので、私はここをいたく気に入っていた。

 そんな神宮寺に繋がる道の途中にある東屋のような小屋の下に、地蔵尊が建っている。そのすぐ裏にある階段を上った先には墓地があり、そこに私たちの両親が眠っている。

「久しぶりだね。母さん、父さん」

 近所のフラワーショップ水木みずきで買ったユリとマーガレット、三色のブーゲンビリアを花瓶に飾りながら、私は優しく話しかける。

「篤司、またお供えの花のお金だけ出して手を合わせには来ないんだよ。いや、まあ……去年は私も来てないからあまり人のことは言えないかもしれないんだけどね」

 私は宙に立ち上っていく線香の煙を眺めながら、小さくため息をつく。

 どうしてか分からないが、篤司はずっと墓参りに来ようとしない。車を運転してくれるし、大方の金も出してくれるのだが、墓石の前で手を合わせることはないのだ。私がどれだけ訊ねても、篤司はこれといって要領を得た回答をせず、はぐらかされた記憶しかない。篤司がかなりナイーブな性格をしていることは知っているので、妹の前で泣くのが恥ずかしいのだろうという仮説を立てることで納得させている。

 私はふと、自分が無意識にタバコを取り出していることに気づき、少し顔をしかめる。それから苦笑いを浮かべつつ、墓石に話しかけた。

「すまないね、二人とも。どうやら線香の煙を目にしただけで私の体はタバコを欲してしまうらしい」

 そう呟きつつ周囲の様子をうかがい、誰も来ていないことを確認してからタバコに火を点けた。あまりにもマナー違反であることは分かっていたが、どうにもこのタバコを吸いたいという衝動を抑えたかった。すっかりニコチンの奴隷だった。

 一口吸ってから、吐いた白い息が立ち昇っていくのを眺める。今日はどんよりとした曇天が広がっていて、遠くの北アルプス山脈の先端も厚ぼったい雲にすっぽり収まっている。煙が、今にも空と同化してしまいそうだった。これから雨が降るのだろうと推測するのは容易たやすかった。

 私はここに来るまでにコンビニで買った携帯灰皿を取り出し、灰を落とす。

 その瞬間、ポケットの中の携帯が振動する。篤司からの電話だった。

「どうしたんだい、篤司。私が恋しくでもなったかな?」

「なに馬鹿なこと言ってるんだ。お供えは終わったのか?」

「もちろん」

「じゃあ早く帰って来てくれ」

「ああ、でも」私は白い煙を吐く。「火が消えるまでいようかなって」

「嘘だろ? 線香は三十分くらい燃え続けるぞ」

「私たちが買ったのは十分もかからずに消えるらしいから」

「ああ、そうなのか。まあ、早めに帰って来いよ」

 篤司の声色は、完全に私の話を信じているようだった。

「分かってるよ。また後で」

 私は電話を切り、タバコを一口だけ吸った後、少し悩んでから火を消して墓地を後にした。


「ということで、明日までは少なくとも何も調べられなさそうなんだ。すまないね、清水くん」

 お墓参りから探偵事務所に戻って来た私は、篤司がお風呂に入っている間に声のトーンをいくぶんか落として清水に電話をかけた。

「そう……ですか」清水の表情は分からないが、明らかに落胆しているのが声色から分かる。

「急かされてたりでもするのかな?」

「いや、違うんです! ただ、その……」清水はおもむろに言葉を濁す。「僕が、勝手に焦ってるっていうか」

「焦っている?」

「幽霊を見たって言ってた友だち……あ、前に電話してた人です。瞭大って名前の。その……いじめられちゃってて」

「ふむ、いじめか」

「そうなんです。噂が本当かどうか確かめようとして誰かがあの神社に行ったみたいで、でも何も見つけられなかったから、瞭大は嘘ついたんだって言われて。だから僕、早く幽霊を見つけないと——」

 清水の声が明らかに熱を帯びはじめていた。

「まあ、落ち着いて。……逆に訊ねるが、君はその瞭大という友人が見たと言っていた幽霊の存在を信じているか?」

「当たり前です!」清水がいくらか語気を強めて言い切ったのを聞くに、かなり仲がいいようだ。

「そうか。……実はね、私も幽霊に会ったんだ」

「え、本当ですか」

「ああ。だが、姿を見たわけじゃない。もちろん、写真のような証拠も取れていない」

 私はベランダに吊り下げられた青い風鈴を見つめながら、彼女の声を思い出していた。いつ思い出しても、脳が揺さぶられるような心地良い感覚に包まれる。

「でも、良かったです。瞭大の夢とか見間違いじゃなかったんですね。……本当だったら、長谷川さんの方からそのいじめっ子に言ってくれると嬉しいんですけど」

「いや、私の言葉など信じてくれないだろう。録音データ……いや、それだと不十分か。映像データや写真が、一番の証拠になるだろうね」

「……分かりました」清水は苦しそうに呟く。

「それと、少し気になることがあるんだ」

「はい。何でも訊いてください」

「『りんが』とは、どういう意味だと思う?」

「りんが?」

「ああ。千駄咲神社で幽霊がいるって言ってた場所——あそこは神社の本殿だということが分かったのだが、扉越しに話しかけたら『りんが』と言われてね」

「ええと……聞いたこともない言葉ですね」

「私もだよ。それで気になって、調べたらいくつか見つけたんだ。リンガ崇拝。インドでシバ神の象徴とされている、リンガと呼ばれる男根像。それ以外にも臨画りんがといって、手本の絵を模写することを指す言葉もある。……いずれにせよ、どちらも宝物や呪いという言葉には結びつかないんだけどね」

「呪いって……なんですか? それ」

 清水は口に出したくもないといった具合で訊ねる。

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