第6話

 しかし、しばらく考えてもなお、それが誰だったのか思い出すことはなかった。夢の中の私は確かにその人と目が合っていたので顔も覚えているはずなのだが、今や記憶の中にあるのはその光のない目だけだった。木の虚のような、黒い瞳だった。

 うんうんとうなっているところに、いつもの白いワイシャツを着た篤司が脱衣所から出てくる。

「動いても大丈夫なのか?」

 篤司が心配そうに声をかける。

「まあ、最悪の目覚めと気分ってだけだから。それに、ほら」私は急いでディスプレイにメールの受信トレイを表示させ、それを篤司の方へ向ける。「篤司の言う通り、仕事しなきゃいけないしね」

「まあ、そっちを優先しろとは言ったが——けどな、さすがに仕事よりも体調の方が大事だぞ。特にお前はまだ退院したばっかりだ。体調をさらに崩してお盆の墓参りに行けなくなっても困る。幸いにも長谷川探偵事務所は、えっと……ほら、業務も落ち着いてるんだからな」

 きっと篤司なりに言葉を選んだのだろう。彼は嘘をついたり言葉を選ぶ際に毎回少しだけ耳が赤らむのだ。言葉を選んだ割には相変わらず下手な元気のつけ方だが、今だけは少し救われるような心地がする。

 私は笑顔でありがとうとだけ言い、ノートパソコンを閉じて再びソファに横たわる。結局、この日はこれといって何もできずに無為むいな一日を過ごしてしまった。また夜になったらあの悪夢を見るのではないだろうかと不安を覚えていたが、心配は無用だった。今夜は比較的気温が低く、心地よい鈴虫の声も相まって過ごしやすい夜だった。


 ちょうど昼時の時分に、私はバスに乗って千駄咲神社のあった手上へと向かっていた。太陽がちょうど真上にあるので直射日光を受けることはなく、しかもバスの車内には冷房がしっかりと効いているのもあって随分と快適だった。少し眠ってしまいそうだったが、背を少しピンと伸ばして小さな黒い手帳を開き、その中の文字を読み直す。

 ここには千駄咲神社についての情報をまとめたものと、先ほど清水に電話して訊いたことが殴り書きでメモされている。

 まず、千駄咲神社の御神体の移動や本殿などの取り壊しが決められた理由は、梅雨の時期のたび重なる大雨によって千駄咲神社のある日慕ひぼ山が想定以上の規模の地すべりを起こしてしまい、砂防事務所が神社の移動を提案したからだという。町はそれを受け、御神体を山から少し離れた場所に新しく建てられた方戸かたど神社に移した。これがネットで調べたうえで得た情報だ。

 ここからは清水から聞いた話である。千駄咲神社は例の不可解な事故に加えて地すべりによる危険性を考慮に入れ、入り口に立ち入り禁止の看板と有刺鉄線が張られていたのだが、誰も気付かないうちに破られていたそうだ。だが、今では誰も寄り付かなくなっているし、そもそも近寄ることを教師や親に禁じられているため、誰が入れるようにしたのかは分からない。とはいえ、せっかく入れるようになっているのなら行ってみようと清水の友人——瞭大は千駄咲神社に向かうこととなったのだが、そこで幽霊のような存在を見てしまったばかりに、いよいよ子どもすらも近寄らなくなってしまった。

 清水の通う小学校では「廃神社で幽霊を見た」という話が徐々に広まり、今では「大人があの神社に近寄らないように言った理由は、地すべりなどではなくあの幽霊を隠すためではないか」「あの幽霊は神社で行われた儀式のではないか」などという根も葉もない噂が広がっている。かなりその噂で話が持ち切りのようなので、いずれ大人たちの耳に入り、いよいよ本格的に封鎖されてしまうだろうから早めに調査してほしい、というのが清水の言い分だった。

「次は手上、手上です」

 そのアナウンスを耳にした私は顔を上げ、「とまります」のボタンを押す。

「ここで降りる人、珍しいんですよね」

 ふいに運転手の、穏やかな笑みを浮かべた老人が私に声をかける。唐突に話しかけられたので戸惑ったが、すぐに返答した。

「ええ。少し、用事がありまして」

「友人と約束をしているとか?」

「いや……というより、なんて言うんでしょう。しいて言うのであれば、仕事ですかね」

「へえ。あなたのようなお若い方が、こんなな場所で仕事ですか」

 運転手は少し驚いた様子でしわの深く刻まれた顔をバックミラー越しにこちらへ向ける。

「この辺りで働くって言ったって、もう介護くらいしか需要がなさそうなものですけどね」

 喉から枯れた木の葉が擦れ合うような音を出して笑う。

「どんな職業にもわずかながらに需要がありますから。本当にわずかですが」

 私は自嘲気味に言い、運転手に釣られて頬をほころばせる。

「いやいや、働いているだけで素晴らしいですよ。……なるほど、仕事でしたか。通りで元気のない表情を浮かべているなあと思いましたよ」

「あなたの目にはそう映りましたかね? いやあ、お恥ずかしい」

「仕事を楽しみにしている人間なんてごくわずかですから——さて、そろそろ手上に着きます。忘れ物には、くれぐれも気を付けてくださいね」

 忘れ物、という単語がわずかに心臓をぎゅっと握る。前の夢も相まって、私は「忘れる」という単語になかば過敏になっていた。ここまで悪夢の内容を引きずって落ち込んでいるのは初めてのことだった。

「……ええ、ご忠告ありがとうございます」

 私はぎこちない笑みを浮かべながら黒い革のリュックを背負い、二百円を払って下車する。その際に、ふと車内名刺に目をやった。そこには「古橋ふるはしおさむ」と印字されていた。

「またこのバスを使うかもしれません。その時になったら少し訊きたいことがあるので、お話ししましょう。古橋さん」

 運転手の古橋修は少し驚いた表情を見せた後、にっこりと笑って、「私でよければ」と朗らかに言った。


 蝉の鳴き声が、先ほどから痛いほど耳をつんざいている。日差しが私の黒髪や手の甲を痛いほど照りつける。日焼け止めクリームが本当に機能するのか不安になるレベルだ。携帯で確認したが、今日の最高気温は三十三度のようで、私はすっかり動く気力を失いながら、なかば惰性だせいのようにして歩いていた。

 田んぼに囲まれた、あまり整備も行き届いていない道路をかれこれ十分は歩いている。千駄咲神社は既に廃神社となっているので地図アプリにも載っておらず、そもそも本当にこの町に存在するのだろうかとさえ思えてくる。

 ふと顔を上げると——自分が歩いている道の突き当たりに山があるのだが——木々の中にぽっかりと暗い穴が開いているのが見えた。清水の話を思い出す。おそらくあれが千駄咲神社に続く入り口だろうと察した私は、最後の力を振り絞るように歩みを早める。

 幸いにもこの町は比較的に湿度が低く、日陰にいるだけでかなり涼しかった。私は幾本ものブナやナラの根元にしゃがみ込み、体の火照りを少しでも落ち着かせるために呼吸を整えつつ休憩する。夏場にここまでの運動をしたのは数年ぶりだった。

 それから、まるで恐ろしいものでも見るかのように、おずおずと苔の生えた石段を見上げる。段数は約百段ほどで、その先には同じく苔の生えた石造りのシンプルな神明鳥居が見える。また、石段の脇に均等に並べられた灯篭も妙に緑がかっていて、手入れが全くされていないのが見て取れる。

 木々の間にいるのにもかかわらず、心なしか蝉の鳴き声が先ほどよりも小さく感じる。鳴き声が全て葉に吸収されているのだろうか。それとも、この場の雰囲気や光景に呑まれてしまって単にそう感じるだけなのだろうか。

 私はゆっくりと立ち上がり、ため息をついてからコートの裾についた土を手で払い、歩みを進める。人の気配は一切感じないというのに、妙な緊張感に急かされながら私は石段を上っていた。

 息を切らしながらもどうにか上り切ると、そこに広がる光景に私は思わず息を呑んだ。私の体が更にこわばっていく。これが神の住んでいた場所の終焉しゅうえんなのだろう。その場には不気味な神聖さとでも形容すべき空気が漂っていた。誰かの写実的な油彩画を見ているような、そんな現実感の欠如を感じる。

 最初に目に飛び込んでくるのは、木々に囲まれ、右半分だけ取り壊された木製の拝殿だった。それは痛々しい傷口を見せており、なおのこと気味の悪さを目立たせている。

 頭上の木々の隙間からは細い日の光が何本も降り注いでおり、木々や土の匂いに混じって、鼻を突くような酷い臭いも漂っている。これは長らく放置された建物に生えたカビから漂ってくるものだろう。私はしばらくその景色を眺めた後、おもむろに右足から踏み出して境内の中へ入った。

 くだんの幽霊とやらは、この拝殿の裏にある小屋の中にいるという話だった。今もなおそこにいるとは到底考えられないが、とりあえず探してみるべきだろう。

 拝殿脇の地面にはまだ木片や何かしらの装飾だったであろう金属の破片が転がっている。工事を中断してそのまま、といった様子だ。私はそれらを避けつつ歩き、裏をのぞくと、そこには話通り小さな小屋のようなものがあった。というよりも、この神社の構造的には小屋ではなく本殿なのだろう。一般的な神社であれば幣殿へいでんが間にあるはずなのだが、この神社にはないためにただの小屋が建っているように見える。

 ということは、幽霊は元々御神体が安置されていた場所に潜んでいる、ということになる。なんとも罰当たりなものだ。

 私は本殿の扉の前に立った。一見すると普通の建物で、人の気配も感じない。清水の話通り、本当にただの廃墟のようだ。扉をノックすると、無機質で軽い音が無人の境内に響く。

 木が風にそよぐ音がする。アブラゼミとツクツクボウシの鳴き声が入り混じる。

 そして、そこに。


「——りんが」


 蝉の鳴き声と風に吹かれた木々の葉が擦れ合う音に混じり、それは確かに言葉としてはっきり私の耳に入った。それを聞いたとき、最初に私の脳裏に浮かんだイメージは、自宅のベランダに吊るされたさやかな音色を鳴らす風鈴だった。風鈴を思わせる女の声だった。

「……君は、誰かな」

 私は姿も見えぬ声の主に声をかける。しかし返答はなく、再び「りんが」という声だけが聞こえる。先ほどよりもどこか震えた声のように思えた。「りんが」という言葉の意味を考えながら、私は質問を投げかける。

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