第5話
「タバコはやめろと言いたいところだが、そんな要求をお前が聞くわけないな」
いつの間にか、麦茶の入ったコップを持った篤司が隣に立っていた。私は少し驚いたが、すぐに平静を取り繕って「よく分かってるじゃないか」と笑う。
「お前は、なんでこんな殺風景を見ながらタバコを吸ってるんだ? 田舎のさびれた街並みしかないっていうのに」
篤司は冷たく吐き捨てるように言う。
「そのさびれ具合が落ち着くんだよ。奇麗な景色に代表されるような、それこそ山際から昇る朝日だとか、海に沈んでいく夕日だとか、そんなものは私には眩しすぎる」
「そういうものなのか」
篤司は相変わらずの仏頂面を顔に貼りつけたまま、暗闇の中に浮かぶ雑居ビルやストリートアートが落書きされているシャッター、ずっと放置されているせいでかごをゴミ箱のように使われている錆びた自転車などをつまらなさそうな目で眺めている。
「おれにはよく分からない感性だな」
「分からなくてもいいものだよ。篤司は私と比べて精神が正常だっていう証拠さ」
私は煙を吐きながら小さく笑う。
「なんだか『お前は精神が未熟な子どもだ』と言われているような気分だが」
「そう言われているような気分になるってことは、もしかしたら篤司の精神は本当に未熟なのかもしれないな」
「……まあ、一理あるかもしれないな」
私はいつものような言い返しを期待したのだが、予想に反して篤司の表情がいやに曇ったので、私はそれ以上何も言うことができなかった。
「さて、そろそろ私もお風呂に入ってこようかな」
「ああ、そうしてくれると助かる。お前はいつも風呂に入りたがらないからな」
「すみませんね」
私はボトル缶の中にタバコの吸い殻を入れ、篤司に背を向けて手を振りながらベランダを後にした。
不便なことに、風呂場だけは一階にある。私は少しふらついた足取りで階段を下りて脱衣所に入り、夏にも関わらず羽織っていたやけに重いモスグリーンのロングコートを脱ぐ。その下は白の半袖のTシャツを着ており、病的に白い腕が鏡にも映る。そこには、何本もの赤い線が一直線に引かれ、いびつな横縞模様を作っている。
これが私がお風呂に入りたがらない理由の一つである。あまり見たくないし見せたくもないので、私は季節関係なく長袖で過ごしている。今日もロングコートを着ているのはそれが理由だ。少なくとも過去の私はそういう行為をしていた。一応、季節ごとに余分に服を買う必要がなくなるという利点もある。
私は少し盛り上がっているリストカットの跡を指の腹で触り、小さくため息をついた。痛みはないが、跡が残っているのを見ると、どこから来たのかも分からない
私の心には
卑怯者だと、つくづく実感することがある。今日だってそうだ。まるで何もかも問題がないかのように振る舞い、篤司に心配をかけないようにしている。空っぽな自分をどうにか、あたかも何かを抱えているかのようにふるまうことで虚栄を張っているだけだ。
私には何もない。記憶すらないのだ。過去の私がどう過ごしていたのかすら、上手く思い出せない。空っぽの体の中に、タバコの煙だけがもうもうと立ち込めているだけだ。
ふと鏡の中の自分に目を向けると、そこにはひどくやつれているように見えるやせ細った女が、腕を
——これは誰なんだ。本当に私なのか?
私は薄暗い部屋の中でノートパソコンを開き、難しい顔をして腕を組んだままじっとディスプレイに映し出されている電子版の地方紙を見つめていた。大見出しには「
清水が話していた使われてない神社とは、おそらくこの千駄咲神社だろう。場所は手上二丁目。今から六年ほど前に御神体を別の神社に移して本殿などを取り壊そうとしたものの、不自然な事故が多発したため工事が中止になり放置されているのだという。
「不自然な事故……か」
事故の内容について具体的にはあまり触れられていないが、近隣住民は口を揃えて「神の怒りを買った」と言っていたらしい。専門家の立ち会いのもと事故の原因の調査が行われたが、どれも明らかに人が故意にやったとしか思えない状況だったという。
これはあくまで私の推測だが、清水の友人が見たという幽霊——もしそんなものが本当にいるのであればの話だが——の仕業だろう。なんだったらその幽霊は、死んでしまった人間の地縛霊などではなく、その地に残ってしまった神様だったんじゃないだろうか。清水の言っていた黒いボールというのも、銅鏡であればどうだろう。
そんなことを考えている自分に気づき、思わず苦笑いをしてしまう。小学生の噂程度の話を信じるとは、私も随分と時間帯の影響で頭がうまく働かなくなっているようだ。
ノートパソコンをそっと閉じ、私は革張りのソファに寝転がって目をつむる。そして、寝転がってすぐ後からの記憶がないほどに、私はあっけなく意識を手放していた。
ふと気が付くと、私はシャーペンを握って学習机に向かっていた。さっきまで私はソファに寝転んでいたはずだ。
私の右手は机の上の原稿用紙に一心不乱に文字を書きつけている。普通の読書感想文や反省文などを書いている様子ではなく、何か狂気をはらんだ動きであった。殴り書きされたその文字は最初こそ正しい形を取っていたものの、徐々に水でインクが滲むように形を崩し、しまいには液体のようになって私の手を黒く汚し始める。そして、先ほどと同じように声が頭の中に響く。
「文字や言葉を媒介として、想いを
唐突に場面は変わり、私は机の前ではなく、道端に座り込んでいた。その不思議な出来事を目の当たりにして、ようやくこれが夢の中の出来事であることに気が付いた。
そして私の両手は、すでに鉛筆や原稿用紙を握っておらず——代わりに、赤い液体がべっとりと付いた石を握っていた。
血だ。私の手にも付いている。先ほどまで手についていた黒いインクが、血に変わっている。
地面に座り込む私の下には、頭から血を流している死体が転がっていた。
腹の底から粘り気のある恐怖がごぽごぽと音を立てながら溢れてきて、思わず石を手放し立ち上がると、既にその誰かは息絶えているようで、目を異常なほど見開いたままこちらをじっと見据えていた。怒りとも悲しみとも取れる
ふと、どこからともなく声がする。涙声とも怒りに打ち震えているともとれる、絞り出すような震えた声だった。
「もし、殺せたなら」
そこで私は目を覚ました。見慣れた天井と電灯が視界に入り、安堵のため息をつく。びっしょりと汗をかいていたので、まだ早鐘を打っている心臓を深呼吸でどうにか落ち着かせながら脱衣所へ向かった。
外はまだ暗く、名も知らない虫が木々のざわめきのように鳴き声を上げている。
「学習机、原稿用紙、石、血……殺せたなら……」
壁に手を当てながらシャワーを浴び、次第に薄れていく夢の内容を口にすることでどうにか記憶に押し留める。あれはいったい何だったのだろうかと
それでも、あの夢の内容だけは忘れてはならないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
フロイトは夢について、無意識に行われる欲望の充足だと言っていた。その理論にのみ基づけば、あの夢の内容は私が無意識に求めているものなのだろう。だが、意味が分からない。文字を書くことが、あるいは誰かを石で撲殺することが私の欲求だとでも言うのだろうか。
「事故で、私、何か大切なことを忘れて……」
——いや。大丈夫だ。頭部MRI検査でもこれといった異常は見られなかったし、最初こそ曖昧だったが篤司のことも自分の職業も、今でははっきりと分かる。前までの自分の行動はほとんど思い出せないが、いつか思い出すに決まっている。大切なことなど、忘れているわけがない。
きっと一週間ほど病室の柔らかいベッドの上で寝ていたこともあって、ソファに体が慣れず妙な悪夢でも見たのだろう。あの夢は、精神分析でよく言われるような無意識を反映したものなんかではない。
私の虚は心だけでいい。記憶に虚なんて要らない。
「おはよう——なんだ、またここで寝てたのか。何度も言ってるが、そんなとこで寝てたら
眩しい朝日がブラインドの隙間から差し込み始めた頃、篤司はソファに寝転んでじっと天井を見つめる私に対してあくび交じりに言う。
「やあ、篤司。あいにく、今日は最悪の目覚めと気分なんだ。放っておいてくれると助かる」
私はいつもの気取ったような口調を使いながら、篤司に手を振る。その様子を見て少し違和感を覚えたのか、篤司はそれ以上これといった小言を口に出すことはなく「そうか」とだけ言って脱衣所へ向かった。
私はそれを見届けた後、ゆっくりと上体を起こす。胸やけのような気持ち悪さが体の中をぐるぐるとめぐっていて、少し呼吸が荒くなる。
無理やり体を起こして事務所の電気を点けてから私はいつものようにノートパソコンの前に座った。検索エンジンに「夢 人を殺す」と打ち込もうとするが、震える指が何度も誤変換やタイプミスを起こしてしまう。
四苦八苦しながらどうにか検索をかけ、最初に出てきた内容は「夢の中で殺した相手に対してストレスを抱えている」というものだった。誰にでも当てはまりそうな夢占いだが、きっとそういう意味なのだろうと自身を納得させ、あれは誰だったのか思い出し始める。
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