第4話
「大丈夫さ。固定電話の方からじゃなくて、私の携帯からかける。君は私の電話番号を同じ年代ほどの友人らしい名前で登録しておくといい。そうだな……くーちゃんとか、どうかな?」
自分で言っていて少し恥ずかしくなってきたが、ここは少年のためだと自分を押し殺す。大人は子どもを目の前にした時、演じる力までもが求められるのだ。サンタクロースを信じ込ませるのと同じように。
「友人、ですか」
心なしか彼の声にわずかに活気が戻ったように聞こえた。
「嫌だったかな?」
「いや……ありがとうございます」
少年の顔がパッと明るくなり、嬉々として電話番号を暗唱する。その屈託のない笑みを見て、少し心が痛んだ。彼の境遇を何となく察してしまったからだ。
「あと、これはお金の話になるんだが——」
「駄目だ。その依頼は受けられない」
唐突に篤司が、とうとう
「それは言えない。言えないが、受けるべきじゃない。そもそも、さっきおれも確認したが、浮気調査の依頼メールが届いていただろ。どう考えてもそっちを優先すべきだ。そして、君」
篤司の鋭い目つきが少年の方に向けられる。少年の目に怯えの色が浮かぶ。
「そういう噂程度の話は探偵に頼むものではないぞ。そもそも、親にはきちんとした説明をした方がいい」
「いや、納得はできないよ篤司。浮気調査を優先するべきという言い分はもっともだが、子どもが困っているというのに手を差し伸べることすらしないのは私の道理に反する。あと『そもそも』って言葉を使い過ぎだ。どれだけ否定したいんだい?」
「前も言ったが、そんな慈善活動みたいな道理は今すぐ捨てた方がいいぞ」
「いや、それは」何か反論しようとしたが、思わず言葉に詰まってしまう。
篤司は、その仏頂面を少年の方へ向ける。
「とにかく、君は早く帰りなさい。許可もなしに探偵に依頼しようとしているのを親御さんが知ったら、きっと怒るだろう」
少年は少し泣きそうな表情を浮かべ、への字に曲がった口で返事をする。
「分かり、ました……」
「篤司、その言い方はきついぞ。すまないね、少年。私の兄はいつもこう、意固地で頑固で頭が固い。『固』という漢字は篤司のためにあるのではないかとすら思えてくるくらいにだ」
「余計なことを言うな」
篤司は私の方をキッと睨む。
「はいはい。ただ、篤司。責任を持って少年を家まで車で送ってあげてほしいね」
「責任って」篤司は少年と私の顔を交互に見て、大きくため息をつく。「——分かった。送るよ。君の家は?」
「
篤司は大きく目を開いた。私もその言葉に唖然とした。ここから朱浦三丁目までは、正確な時間は分からないが、少なくとも徒歩だと四十分はかかる。子どもの足で、となると更に時間は上乗せされるだろう。
「朱浦って、割と遠いじゃないか。こんな猛暑日だっていうのに、わざわざ歩いて来たのか」
少年がうなずいたのを見た篤司の顔に、わずかに後悔の色が浮いて見えた。
「そうか。小学生のバイタリティは凄いな。……さっきの発言については謝罪する。すまない。そういえば、依頼に来たってのに君の名前を知らなかったな。名前は?」
「あ、えっと……
「よし、清水くん。今から車内に冷房を効かせてくるから、少し待っててくれ」
清水がうなずいたのを見て篤司はぎこちない笑みを浮かべ、急ぎ足で事務所を後にする。私はそんな篤司の背中を見つめながら、ため息交じりに笑う。
「根は優しい人間なんだ。ただ不器用で、相手を想っての行動はできるのに、相手を想うような言動はとれない」独りごちるようにそう言い、不安げに私を見上げる清水と目を合わせる。
「まあ、私は天才探偵だ。自称ではあるけどね。浮気調査と君の幽霊調査の依頼、同時にこなして見せよう」
これはまったくのでまかせであった。ただ、こう言っておけば清水も安心して依頼できるだろう、という善意から出た嘘だった。
「でも、お金が……」
「そうだな——清水くんは今、何円ほど持ってるかな?」
清水は少し慌てたようにポケットに手を入れ、黒いマジックテープの財布を取り出す。その中身をのぞいた後、彼は少し苦い顔をした。
「あの、七百円だけ——あ、でも家にはもう少しあります!」
「いや、十分だよ。二百円だけ貰おうかな」
手のひらを差し出すと、清水はそこにおぼつかない手つきで百円玉を二枚置き、私の目をじっと見る。
「ほ、本当にこれでいいんですか?」
「ああ、これで契約成立だよ。君が現金で対価を支払い、私がそれに見合ったサービスを提供する。また一つ賢くなれたね、少年」
清水の顔から先ほどまでの緊張や不安の色が消え失せ、少し口角が上がっている。
「よし、清水くん。冷房も十分に効いたから行こう」
事務所の扉越しにかけられる篤司の声を聞いた清水は、駆け足で事務所を後にする。
「廃神社と幽霊、ねえ……」
事務所に一人残った私は呪文のようにそう呟きながら、篤司と自分の食器を手に階段をゆっくりと上って行く。
二階に上がると、奥まで廊下が真っすぐ続いている。右手側には私の部屋があり、左手側には篤司の部屋がある。また、廊下の突き当たりにある扉はダイニングとキッチンへ続いている。
ダイニングへ足を踏み入れた後、とりあえず食器をすべてシンクに置いて水につけ、そのままベランダへと向かう。ベランダには青い風鈴が一つだけ吊り下げられており、生ぬるいそよ風に当てられてさやかな音色を奏でている。これは私が「夏の風の暖かさが嫌だから、風を少しでも楽しめるように」と取り付けたものだ。
ベランダからの景色は、正直に言ってあまり良い景色ではない。南に面したこのベランダからは、道を挟んで向かい側にある三階建ての、何に使われているのか見当のつかない建物があるために山並みも見えず、眼下には
それでも、私はこの少し退廃的な街並みが大好きで、いつしかこのベランダに立ちタバコを吸うことが習慣となっていた。そういうことだけはよく覚えている。
室外機の上に灰皿代わりとしてコーヒーのボトル缶を置き、コートの内ポケットからキャメルのボックスを取り出してタバコを一本口にくわえ、火を点けて吸う。煙が、夏の気だるげな生ぬるい空気と共に気管支を通っていくのを感じる。記憶は曖昧なはずなのに、まるで体が覚えているかのようにこなれた手つきだ。
「……はあ」
ため息とともに煙を吐き、手すりに腕を乗せてぼうっと目の前の建物を眺める。
この先、どうやって生きていくべきなのか分からない。ずっと暗闇の中を手探りのままで歩いているような、あるいは宇宙空間に放り出されたような、そんな無力感とやるせなさを感じる。両親がいなくなった時と一緒だ。頼りがない。篤司との共同生活が苦になっているわけではない。ただ、何の成果も生み出せずに、何も思い出せずにずっとこの町で生きていかなくてはならないのかと思うと、いても立ってもいられないのだ。
私もまた、目の前にそびえ立つこの雑居ビルのように何の用途も分からないまま作られた存在のようにしか思えない。長谷川暮葉という役名とわずかなプロファイルを渡されたような気分だ。
一度、記憶を整理してみよう。せめて思い出せることを精一杯思い出すのだ。まず私は高校を卒業して探偵学校に入り、今こうして探偵をやっている。私はまだ二十一歳で、口調はさっきのような感じだ。ベランダでタバコを吸うのが趣味で、普段の料理は篤司に任せている。寝る時は二階の自室ではなく一階のソファで寝ている。
……ほとんど思い出せない。なんだこれは。ほとんど空っぽではないか。
私はタバコを深く吸い、ゆっくりと吐いた煙が空中で霧散するのを見届けてから、ボトル缶の口部分に押し当てて火を消す。火花がわずかに飛び散る。
「車に
私は微笑みながら呟き、風鈴を指で揺らす。
風鈴が、コン、という鈍い音を立てて揺れる。
夕食の時間になり、きのこのバターソテーに箸を伸ばしながら、私は篤司の顔色をうかがいつつ、おもむろに口を開く。
「篤司」
その言葉だけで篤司の体は硬直し、私と目を合わせようとせず、怯えるような目つきをじっと机の上に向けていた。
「ずっと気になってることがあるんだ。結局、どうしてあんなにも廃神社に反応してたのか、その理由を教えてほしいんだが」
「……訊いて何になるんだ」
篤司はそんな話はするべきじゃないとばかりに、極めて冷淡に言葉を返した。
「篤司の唯一の家族である私の機嫌が直る、なんて報酬はどうかな」
「そんな軽口を叩ける時点でお前は不機嫌じゃないだろ」
「だが気になるものは気になるさ。それに、隠しごとはいつか確実にバレる。探偵をやってる妹を持つ篤司ならそれも痛いほど理解できるだろう? 私の目は、さながらお天道様だ」
私が箸の先端を篤司の方に向けながらそう言うと、行儀が悪いとでも言わんばかりにそれを左手で払い、何も喋らないまま黙々と食事を続ける。
これ以上なにか言っても無駄だろうと察した私は、怒るわけでもなくそのまま食事を続けた。
「ごちそうさま」
食事が終わり、篤司がお風呂に入っている間に洗い物を済ませ、私は昼間と同じようにベランダに出てタバコをくわえた。蝉の鳴き声はとうに収まり、もったりとした暗闇の中へ白い煙が悠々と漂っていくのを見つめながら、私はずっと廃神社のことを考えていた。なんだか妙に心に引っかかっているのだ。
廃神社にいる幽霊。なんとも俗なホラー漫画にありそうな話だ。小学生が友達の気を引きたいがためについた嘘だという可能性だって全然あり得るし、あるいは、この酷暑だ。暑さのせいで幻覚でも見たのかもしれない。
だが、いずれにせよあの篤司の反応からして何かがあるのは確かだ。少なくとも私と篤司は互いに隠しごとをするほど仲の悪い兄妹ではないというのに、あの態度を取るということはよほどやましいことがあるのだろう。
例えば、そう——誰かを殺してしまったとか。
そんな何の根拠もない馬鹿げたことを考えてしまい、私は思わず苦笑いをしてしまった。篤司に限ってそんなことはしないだろう。
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