第3話

 後から不満そうな顔を浮かべながら、篤司が事務所へ入って来た。むすっとしたその表情は不動明王を思わせる。

「退院して早々、そんな元気に動くことあるか?」

「いや、もうその話題はどうでもいいんだ。それより、ほら。留守電が入ってる。実に一ヶ月と二週間ぶりの依頼だ」

 私はライトを赤く点滅させている固定電話を指差す。

「え、本当に?」篤司は到底信じられないと言った口ぶりで訊ね、私と同じように電話に目をやる。「……物好きもいるもんだな」

「失礼だね。さてさて、留守録を聞いてみようか」

 私が「留守」のボタンを押すと、ピッ、という電子音と共にディスプレイに日時が表示され、くぐもった音質の声が再生される。ピッチが高く、女性か、あるいは子どもの声のように聞こえる。

 上手く言葉がまとまらないようで、たどたどしい口調だった。

「あの、探偵事務所さん、ですか? 友だちが、その……幽霊を見たってずっと言ってて。あ、でも言ったんですよ。見間違いじゃないのって。でも、全然納得してくれなくて。それで、調べてほしいんです。昼くらいにまた電話します——」

 そこで録音は途切れ、事務所を静寂が包む。

「どうやら、小学生によるいたずら電話のようだな」

 篤司は失笑しながらそう一蹴し、事務所内にある階段を上って行く。

「いたずら、ねえ。私にはかなり必死そうな声色だったように思えたが」

 私はディスプレイに表示された日時を確認する。八月十日の午前八時半。今日だ。ふと壁にかけられた時計に目をやると、十一時を回ろうとしていた。

「昼ご飯、何がいい?」階上から篤司の声が響く。

「お兄ちゃんの作るご飯ならなんでも美味しいよー」

 お兄ちゃんなどと普段から呼んだことはないが、ここでは猫なで声もあわせて使っておこう。

「はいはい、つまり何でもいいってことだな。適当に作っとくからな」

「ありがとうね」

 篤司の機嫌を取りつつ、私はデスクの上に開きっぱなしのノートパソコンの電源を入れる。慣れた手つきでパスコードを打ち込み、仕事用のメールアドレスに依頼の連絡が来ていないか確認する。

「メールの方は——あ、浮気調査が一件。こんな田舎でも浮気って起こるものなんだねえ。とりあえず、先に依頼が入ってるから遅れるってこと、伝えておこうかな」

 探偵とは、もはや食傷気味に言われていることだが、これといった大事件を追ったりすることはなく、基本的には浮気調査で生計を立てている。もちろん、私はそれを承知のうえで探偵になることを決めたのだが、やはり興味が惹かれる依頼の方を優先してしまいたくなる。建築士だって、一軒家を設計するよりもアミューズメント施設の奇天烈な建物を設計する方が心躍るはずだ。

 浮気調査を依頼してきた顧客には、先に予約が入っているために遅れるという旨のメールを返信した。しばらくした後、ふいに固定電話が鳴った。ディスプレイには「公衆電話」と表示されている。私は小さく咳払いしてから、受話器を手に取る。

「お電話ありがとうございます。こちら、長谷川探偵事務所です」

「あ、あの——留守電、聞いてくれましたか?」

 電話相手の少年は、留守録にあった音声とまったく同じような声色でそう訊ねた。

「ああ、はい。なんでも、あなたのご友人が幽霊を見ただとかなんとかって話のようで」

「……やっぱり、ありえないですよね」

 私が少し笑みを含んだ声で言ってしまったからか、少年は困ったように言った。私はそれを慌てて否定する。

「いえ。頭ごなしに否定しよう、なんて気持ちはありませんよ。むしろ興味深い話です。お時間よろしければ、ぜひ長谷川探偵事務所にいらっしゃって詳しく聞かせていただきたいのですが」

「あ、今すぐでもいいですか……? そろそろお母さんに気づかれちゃいそうなんです」

「あ、親御さんにはまだお話していないのですね。そうなると、普通であれば依頼は受けられないのですが」

 電話越しに「え」と小さくつぶやく声が聞こえる。私は小さく笑った後、

「ですが、小学生の方であれば、特別に大幅な値下げをしてご依頼を承ることになっております」と告げる。

 ふと視線を上げると、両手にロスティとバターロールが乗っているトレイを持った篤司が、見るからに呆れたような表情で私を見下ろしていた。私が笑みをたたえたまま小首をかしげると、彼は大きくため息をついて片方のトレイを私の目の前に置いた。

「ほんとですか!」

 少年が喜びのあまりか少し声を荒げたので、音が割れる。私は受話器から少し耳を離しつつ話を続ける。

「ええ。ですから、お気軽にお越しください」

「分かりました。すぐに行きます!」

 そう言って少年はすぐに電話を切った。受話器を置くのと同時に、篤司が口を開く。

「またお前はそうやって意味の分からない案件も全部引き受けて……いいか? 探偵事務所はNPO法人じゃないんだ。きちんと営利目的で活動しなくちゃいけないんだぞ。それをお前は——」

「はいはい、分かってます。分かってますよ、お兄さま」

 私はわざわざ立ち上がってモスグリーン色のロングコートの裾を掴み、仰々ぎょうぎょうしくカーテシーをする。

「それで、その小学生はなんて言ってたんだ?」

「私が詳しく話を聞きたいって言ったら『すぐに行きます』って言ってたよ」

 ナイフでロスティを切り、左手のフォークでそれを口に運ぶ。ロスティは篤司が中学生の頃から作ってくれていた、いわば得意料理のようなもので、その味も時が経つにつれ洗練されていっているような気がする。塩味もブラックペッパーの量も私好みにカスタマイズされており、比較的マイナーな料理なので飲食店でも見かけないが、仮に外で食べることになったとしても私は篤司の作ったものでない限り満足できないだろう。

「相変わらず料理が上手だね、篤司は。感心するよ」

「おだててもロスティくらいしか出ないぞ」

「それで十分」

「そうか」

 そんな他愛もない会話を一時間ほどしながら昼食を食べていたところで、事務所の扉を二回ノックする音が響く。

「はいはい、入ってどうぞ」

 ゆっくりと扉を開けて入って来たのは、身長から判断して小学校高学年ほどの少年だった。「こんにちは」とささやくように言いながら事務所におずおずと足を踏み入れる。

「先ほどお電話いただいた方、でしょうか?」

「はい」

「わざわざご足労いただきありがとうございます。こちらに座っていただけると」

 私が入って右手側にある黒い革張りのソファに案内すると、少年はまだ警戒心を持っているのか、はたまた単に緊張しているからなのか、どこかぎこちない様子でソファに座る。私はそれを見届けてから、彼の斜め前に座った。

「ご依頼の内容は——幽霊の調査、だとか」

 少年は力強くうなずいたかと思えば、唐突に焦ったような表情でかぶりを振る。

「あ、でも、本当に幽霊かどうかは分かんないです。あそこに人がいるなんてありえないからってみんなが幽霊って呼んでるだけで」

「あそこ、というのが幽霊と会った場所かな?」

「はい。あの……手上てがみ一丁目のバス停が南の方にありますよね。そこから山の方にずっと歩くと、森っぽいところにトンネルみたいなのがあって、階段があるんです。そこをずっと進んだところにもう使われてない神社があって、そこで見かけたみたいです」

 彼は子どもにしてはしっかりとした説明をはじめた。

「神社?」

 その言葉に先に反応したのは私ではなく、なぜか篤司の方だった。反射的に篤司の方に視線をやると、私が事故で意識不明の状態から起きた時よりも動揺の色を隠せていないように見えた。

「何か知ってる?」

「いや、知ってるというか——すまない。話を続けてくれ」

 少年は少し不思議そうな表情を浮かべながらも、話を続ける。

「それでそこの神社の裏側に、小屋——なのかな。小屋みたいなのがあって。僕の友だちが何があるのか確認しようと格子窓みたいなところから中を覗いたらしいんです。そしたら——」

「中に幽霊がいたってことか。確かに、普通の人間であればそんなところには入らないはずだね」

 少年は再び力強くうなずく。私は腕を組んで背もたれに寄りかかり、天井をしばらく見つめて、神社という部分に篤司が驚いたその真意を考えてみる。少なくとも廃神社がそこにあるなんて話は聞いたことがないし、篤司がそこに行っただとか、そんな話も出たことがない。

 私は小さくため息をついた後、再び少年の方を向き直す。

「なるほど、ありがとう。ちなみに、その幽霊とやらはどんな見た目かな? 人探しとなる以上、見た目の情報は必要不可欠でね」

「あ……ちょっと待ってください」

 少年はそう言っておもむろに携帯を取り出し、どこかへ電話をかける。

瞭大りょうた? あのさ、神社の幽霊ってさ、どんな見た目だった? ……いや、違うよ。……うん、ごめん。今、幽霊を探してくれる人に相談してて——うん。……分かった。ありがとう、じゃあね」

 少年は表情をころころと変えながら「リョウタ」という名前の友人と電話をして、それが終わると少し神妙な顔をして私の方を見つめた。

「今電話したのが、幽霊を見たっていう子かな?」

「はい。幽霊の見た目なんですけど、女の人で、黒いセーラー服みたいな? あの、方戸かたど中学校の制服みたいなのを着てたらしくて。それで、なんか黒いボールっぽい物を持ってたらしいです。それが何なのかはよく分かんないんですけど」

 その目撃情報は、お世辞にも精緻せいちとは言えない曖昧なものだった。方戸中学校とは、ここから少し東に向かったところにあるこの町で唯一の中学校だ。男子は普通の学ランだが、女子の制服は黒いセーラー服に赤いスカーフが特徴的で、一学年につき八十名ほどの生徒が在籍している。もちろん、私も通学したことのある場所だ。

「方戸中学校の……なるほど、情報提供に感謝するよ。依頼は受けよう。正体が分かり次第連絡をさせてほしいんだが——そういえば、君は公衆電話からうちに電話をかけてきていたね。自分の携帯は持っていないのかな?」

「ああ、えっと……見られちゃうから」

「見られちゃう?」

「履歴、です」

 彼の表情がかげる。そこで私は、これ以上彼の家庭環境について詮索するのは良くないだろうと直感した。

「そうか。ということは、私が君の友人として電話をかければ、特にとがめられることはないね?」

「いや、それは——」

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