Ⅰ.私の虚
第2話
一定のリズムを保つ電子音が耳に入る。深く息を吸うと同時に、外では嗅ぐことのない人工的な匂いが鼻の奥を突く。妙な場所に寝そべっていることが目を閉じた状態でも理解できる。
目を開けると、まず穴が等間隔に開いている天井が視界に入った。少なくとも私の住んでいる部屋の天井ではない。いや、もしかしたら私は部屋に薬品らしき匂いを発する液体をぶちまけ、天井に等間隔で穴を開けるような奇人である可能性もある。
そんなことを考え始めたところで、ようやく気が付いた。自分の記憶がかなり
「お、起きたか。これ、看護師さん呼ぶべきだよな……ちょっと、待っててくれ。今呼んでくる」
白のワイシャツに青のネクタイを巻き、黒縁の眼鏡をかけた固そうな男が、呆然としている私に声をかけるとすぐに、明らかに動揺した様子で病室を飛び出した。私は呆気にとられながらも、これといってかける言葉も見つからなかったので、とりあえずゆっくりと記憶の穴の中をがむしゃらにまさぐっていく。
そうだ。私は——
あの男は——兄だ。名前は
しばらくして、篤司と同じくらい慌てた様子で看護師が輸液バッグを片手にスライド式の扉を開けて入って来る。
「暮葉さん、ご気分はいかがですか」
「大丈夫、です。はい」
私は上体を起こしながら言う。自分の黒い長髪が視界の中でふわりと揺れる。
「そうですか。何か少しでも体の不調に気が付いたらすぐに言ってくださいね」看護師は笑顔で何度も頷きながら、輸液バッグの交換を始める。「意識が戻って本当に良かったです。一日近く眠っていましたが、長谷川さん、車に轢かれたっていうのにほとんど無傷だったんですよ。これといった外傷がなくて。精密検査もしたんですけどね」
そう言われて、慎重に腕や足を動かしてみる。確かに、体にこれといった強い痛みがない。わずかに首が痛むが、まるで寝違えたかのような、その程度の痛みだ。一日近く意識がなかったというのだから、ずっと同じ体勢で横になっていたために痛むのだろう。
「そうだったんですね」
「いや、本当に。かれこれ十年近く勤めてきたけれど、事故の規模に対して被害が少ないっていうケースは久々に見ました。不思議なこともあるんですね。あ、すぐに主治医の先生をお呼びしますから」
看護師は再び慌ただしく廊下へ出て行く。私は相変わらず不安げな表情を浮かべている篤司の方に目をやる。それから、小さく笑った。
「事故に遭った妹より不安そうな顔をする兄が、この世にいるかな?」
「——暮葉」
「うん?」
篤司はどこか神妙な面持ちで私を見つめる。
「ああ……いや、何でもない。とにかく、暮葉が無事で良かった。本当に長い間、お前は眠ってたんだ。しかも、事故に遭っただなんて聞いたから、いても立ってもいられなくなってな。会社の人に無理言って、今日は休みにしてもらったし」
篤司は中指の腹で眼鏡を押し上げながら、しきりに病室の扉の方へ視線をやる。
「それは野暮というものだと思うが」
「野暮でもいい。おれの家族はお前しかいないんだから」
篤司は反応に困った時、
今から十五年前、私たちは両親を失った。ちょうど私が小学校に入学した頃だった。日本海側で記録的な大雪が続いており、あの日も山沿いに位置するこの町はひどい大雪に見舞われていた。気が滅入りそうな鈍色の雲が空を覆う、物寂しい日だった。
いつまで経っても両親が帰ってこないので、私と篤司は電気ストーブの前でしゃがみ込みながらずっとその帰りを待っていた。だが、いつまで経っても二人は帰って来ず、玄関の扉を叩いたのは両親が行方不明になったというニュースだけだった。あの頃の絶望感を、今でも覚えている。何もない空中を漂っているような、あるいは何もない深海へ沈んでいるような、そこはかとない孤独感と不安があった。
私が高校を卒業するまで母方の祖父母の家に預けられ、それからは社会人になった篤司と二人で生活している。
しばらくの沈黙が場を包み込む。
「……なあ」
「うん?」
「なんであんなところにいた?」
「なんでって——」
そう言われてから私は事故に遭う瞬間を思い出そうとしたが、いまいち思い出せない。どこで遭ったのか——いや、そもそも、私は事故に遭ったのか? 本当に何も覚えていない。
「……まあ、いい。それより、だ。検査の結果にも異常がなければ、すぐに退院できるそうだ。おれとしてはあんまりお前を外に出したくはないんだが」
篤司はひどく恨めしそうな声色で言った。
「それはありがたい。おそらく今頃、長谷川探偵事務所の電話は鳴りっぱなしだろうからね」
「そう——だな。そうだといいが」
ここぞとばかりに篤司は、同情するように眉尻を下げつつ笑みを浮かべる。
「……まあ、特に依頼が来てなかったら来てなかったでいいことさ。私が暇だということは、この町は今日も平和だという証明になる。実質、私は存在しているだけで世界平和に貢献していると言ってもいい。そうだろう?」
私は再び柔らかいベッドに横たわり、無機質な天井をじっと見つめる。その瞬間、扉がガラガラと音を立てて開いた。
「長谷川さん?」
「あ、はい」
上体を起こすと、少し肥満体形の白衣を着た老人が驚いたような顔でこちらを見ていた。おそらく、先ほど看護師が言っていた私の主治医だろう。
「おお、良かった。えっと……体にこれといった異常は、今のところは感じないんだよね?」
「はい。今すぐにでも走れると思います」
主治医は苦笑いを浮かべ、カサカサの手をこすり合わせる。体形も相まって、ずんぐりむっくりのハエに見えた。
「走るのは駄目だけど、とにかく無事で良かった。意識もはっきりとしていそうだ。もし歩けそうなら、念のためもう一度いくつかの検査をしたいんだけど、いいかな?」
「ええ、構いません」
動きづらい患者衣を着ながらしぶしぶ看護師に案内されるがままに頭部MRI検査などを行ったが、主治医の推測通りこれといった異常は見られなかった。私はほっと胸を撫で下ろし、再び病室へと戻って来る。
篤司は全て正常であったという結果を受けてもなお、深刻そうな表情を浮かべていた。
「ということは——なあ、暮葉」
その時、ふと思い出したことがあった。私の職業だ。私は探偵業を営んでいたのだ。中学生の時に探偵になると言ったら、篤司からそれを止められたのをよく覚えている。お前がやるべきことじゃない、などとやけに上から目線の発言をされたことも。
「誰に何を言われようと、やめるつもりはないよ」
何か言われるよりも先に口を開いた。わざと嫌味ったらしく言うと、篤司は少し動揺した様子で言葉を紡いだ。
「だが、もう――」篤司は少しイラついたように頭を無造作に掻く。「気難しい奴だな」
「誰に似たんだろうね」
「おれじゃないことは確かだが」
「おや、自分を客観視することを知らないようで」
ぐっと言葉に詰まった篤司を見て少し笑ってから、ふと窓の外を見た。どうやらこの病室は西に面しているらしく、オレンジと赤の絵の具を混ぜたような夕日が太平洋に沈んでいくのが見えた。その手前に広がる家々の屋根が、夕日を受ける波間のように光っている。現在の時刻はだいたい六時半といったところだろう。
「検査、正常だったな。嬉しいような、嬉しくないような」
篤司は相変わらず自由にさせたくないようで、私の顔を見つめているのにどこか放心しているような目をしていた。
「篤司の唯一の家族が無事だったんだ。すぐに退院できることなんて、手放しで喜ぶべきことじゃないか?」
「それは」篤司はわざとらしく大きなため息をついた後、ふっと笑みを浮かべる。「まあ、そうだな。暮葉が無事で良かった。本当に」
あれから一週間が経った。いやいやベッドの上でじっとしていた甲斐もあって、無事に予定通り退院することができた私は、篤司のアクアに揺られながら家路を辿っている。
街路樹すらない、いつものさびれた街並みを窓越しに眺める。この町には夏の爽快感など一切なく、ただうだるような暑さと騒がしい蝉の声だけが響いている。
私の遭った事故は不幸にも轢き逃げだったようで、これといった目撃情報もないし私もその車についてよく覚えていないものだから、結局泣き寝入りに近い状態となった。政府保障事業として一応は手当が出ることには出るそうだ。篤司は「無事だったし、むしろ実況見分だとか診断書や諸々の書類の提出だとかがなくて良かった」と笑っていた。
「本当に
「どちらかと言えば不幸中の幸いと言う方が正しいと思うが。本当に運が良かったらそもそも轢かれないだろう。……にしても、骨にヒビすら入ってないなんてな。ある意味お前は凄い奴だよ」
「その言い方だと、まるで『お前は車に轢かれたんだから大怪我を負うのがセオリーだろう』という意味のように聞こえるが」
「いや、そうじゃないんだが」
「そうだろう? 単に運が強かった、というだけでいいんだよ。篤司はいちいち物事を複雑に捉えようとする癖があるからね」
しばらくしてアクアは、とある寂れた二階建ての建物の前で停車する。一階の窓には白のブラインドが下りており、中の様子は見えない。二階にはベランダが付いており、車の中にいるとその音色は聞こえないが、青い風鈴が小さく揺れ動いている。
「運転、ありがとう」
私はそう言うや否や助手席のドアを開け、その建物に向かって走り出す。背後から「なに走ってるんだ!」という声が聞こえるが、それを無視して「長谷川探偵事務所」というカードがぶら下がっている扉を開ける。
「うん、やっぱりこの事務所が一番だね。落ち着く」
私は入って正面にあるデスクへまっすぐ向かい、レザーチェアに座る。この椅子だけで三万円近くしたが、それ以外の備品は全て両親が昔から使っていた物なのでそれ以上の出費がかさむことはなかった。
「さて、留守電は」私が固定電話に視線をやると、「留守」という文字の上にあるライトが赤く点滅していることに気が付いた。
「おっと。まさか本当に来てるとは」
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