ふたりの墟
涌井悠久
プロローグ
第1話
とある女が何かを重そうに背負い、とある山の遊歩道を登っていた。
八月の中旬のことだった。うだるような真夏日が続いていたここ数日だったが、幸いにも今日は憎いほどに眩しい太陽が雲を出たり入ったりを繰り返しており、直射日光を受ける時間が短かった。それでいて、この町にしては珍しくずいぶんと爽やかな夏風が吹いていた。
とはいえ日本の夏の湿度は高く、女の体温はみるみる上昇していった。しかし、我慢しなくてはならなかった。
——今日諦めたら、もう二度と君とは会えなくなる。
きっとそんなことはないのだが、そう思ってしまう。そんな思考が手を取り、足を取る。女の手元にもはや正しい理性と呼べるものは
そこはふたりだけの場所であった。誰にも邪魔されず、誰にも知られない。いつもなら太陽という一つ目がふたりを見下ろしていたが、今日は太陽すらその場所を見ることができない。今日は完璧な秘匿の日であった。誰かが追ってくる可能性も十分にあったが、やはりこの遊歩道に続く入り口だけは見つからなかったようだ。
女は少し立ち止まって息を整え、来た道を見下ろした。誰も来ていない。女はほっと胸を撫で下ろし、背中にぴったりと張り付くそれを背負い直してから再び歩みを進めた。ローファーでは上り辛いが、履き替える余裕すらなかった。濁流のような衝動に押し流されるがまま、女はここまで来た。
ようやく到着したそこは、この町を一望できる場所であった。わずかに木々の葉が邪魔だが、それでも申し分ない景色だった。
北を見れば、鉄塔や緑に染まった田んぼ、住宅街などが見える。
東を見れば、青々とした葉に包まれた山が連なっているのが見える。
西を見れば、雲間から差す夏の太陽光を受けて煌めく海が見える。
目をつむれば、しゃわしゃわ、と騒がしい蝉の鳴き声が聞こえる。
ここは名もなき「展望台」だ。遊歩道を抜けた先にあるこの場所には、申し訳程度の錆びた鉄柵と、木製の朽ちたベンチしか存在しない。ひと気がなく、手入れも全くされていない。もはや「展望台」と呼んでいいのかすら怪しい。
それでも女はここを「展望台」と呼んでいた。町を展望できる場所であればどこでもそう呼んでいいはずだ、と。「君」と呼ばれた人物もまた、ここを「展望台」と呼んでいた。
「着いたよ。君が来たがってた場所」
女はまるで独り言のように話を始める。女の話を聞いている人間は誰かいるのだろうか。いるとすれば、「君」と呼ばれた人物、ただ一人だ。ここはふたりだけの場所なのだから。あるいは、何か霊的な存在を認めるのだとしたら、この世ならざる者が女の声に耳を傾けているのかもしれない。
「君はさ、ずっとふさぎ込んでいたし『一人にしてください』なんて言ってたよね。——けどね、そんなの私の知ったことじゃないんだよ。私はずっと君と話したかったし、こうしてまた前みたいに町を見下ろしながら、『あの鉄塔、私たちよりも背が低く見えるね』なんてたわいのない会話をしたかった」
彼女の言葉に答える声はない。蝉時雨が騒々しくわめいている。
「ごめんなさい」
ふいに声がした。それは今にも消え入りそうな少女の声だった。
女は少し驚いた表情を見せた後、満足そうな笑みを浮かべ、「『ありがとう』なら使ってもいいよ」と言った。
すると、再び少女の声がした。
「ありがとう、ございます」
「『ございます』は付けないの」
「……ごめんなさい」
「どういたしまして」
女は背負っている何かをベンチに下ろした。それから、再び「展望台」からの景色に目をやった。
ここは太平洋に面した町——
人々が生まれ、育ち、幸せを見つけなくてはならない場所。
面積は約十七平方キロメートルであり、人が住める場所は少なく、規模としてはかなり小さい田舎町である。北に隣接する市との間には流域面積が日本で四番目に大きい一級河川の
「私、あなたに一つだけ嘘をついているんです」
「嘘?」
「はい」
「何?」
「それは――」
言葉はそこで途切れた。女は呆れたようにため息をついた。だが、口には笑みを浮かべている。
「いいよ。君のその慎重な性格は、今に始まったことじゃないから。その敬語も、いつか取れるまで——まだ慣れないけど、私はずっと待つよ。何年でも。だけど、いつか——いつか、その気になったらでいいよ。また前みたいに話そうよ。私たちには、時間だけはたっぷりあるんだから。それに、去年話したでしょ。私とあなたは同じタイプの人間なんだから、そのうち、混ざって一人になる時が来るかもしれない」
返事は聞こえなかった。
遠くの海に漁船が浮いているのが見える。細い道路をバスが走っているのが見える。この町は生きているのだ、と妙な実感を覚える。
女は大きく深呼吸をすると、再びベンチに乗せた何かを背負い、「展望台」を後にする。
「——こんなこと、話したくもないのですが」
その声の主はすり足歩行をするかのように、ゆっくりと言葉を選んで話を始めた。そして、話し終える頃には、女はローファーを履いた足を止めていた。その言葉を信じられなかったのだ。
だが、彼女の言い分が本当だとしたら、辻褄が合うところはあった。以前、彼女の父親を街中で見かけたことがあったのだ。あんなことがあったのに、彼は平気で街中を歩いていた。その違和感が、ようやくここで解消された。
だが、むしろ解消されない方が良かったのかもしれない。知らぬが仏だったのかもしれない。
「……話してくれてありがとう」
「あなたと私の両親しか知らない秘密、ですよ」
「言いふらしたりなんかしないよ。誰がするもんか」
口では比較的明るく振舞っているが、沼に沈んだような気分だった。それはどうあがいても取り返しのつかないことだった。全て過去なのだから。
しばらくそのショックに打ちのめされた後、女は再びゆっくりと山道を下り始めた。
ふと、木々の中からひと際大きなホオジロの鳴き声が聞こえた。本格的な夏の到来をことほいでいるかのような、軽やかな声だった。
そして、そんな小鳥の鳴き声に気を取られ、女は足を踏み外した。
ローファーの靴裏にある滑り止めなど、山では何の役にも立たない。
体勢を戻そうとするも、女の体は既に六十度近く傾いていた。
眼下に木はない。その代わりにえぐられたような荒々しい山肌が露出しており、女が落ちて来るのを今か今かと待ち構えているようだった。
——ああ、地すべりがあったんだった。
女はこんな時になって朝のニュースで見た出来事を思い出していた。不思議と死への恐怖はなかった。
そして。
体に衝撃が走るよりも先に、女は落下中に気を失った。
ここは朝撒町。
人々が
しかし、これは怪奇現象などではない。生まれた者は死ぬ。若者は田舎町から上京する。そういう世界の流れの中に朝撒町は組み込まれているだけであり、人々の死も
そして、この田舎町は少しばかり死者が多い。しかし、統計的な有意差は見られない。他の市町村に比べて異常に突出しているわけではないし、犯罪件数はむしろ少ない方だ。
本当に、ただ少しだけ死が身近にある場所なのだ。それを除けば、朝撒町はありふれた町の一つでしかない。
彼女もまた、流れの中にある一つの生命だった。
そんな生命が遭ってしまったのは、これまたありふれた一つの悲しい事故だった。
死へ向かう生命はその流れに逆らうことができない。それは不可逆の法則である。
それだけの話だ。
初めから、それだけだったのだ。
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