閑話 精霊の御印
宿舎の廊下に光の粒が二粒。飛び回りながら、追いかけっこをして遊んでいた。
廊下でたまに人とすれ違うけれども、人は全く気付く様子がない。
それがまた面白く、光の粒達は人を障害物に見立てて遊び回った。
そんな中で、廊下に面してドアの前に立つ二人に気付く。
二粒のうち片方が宙空で足を止めて振り返った。
廊下に立つ二人は、やけに物々しい雰囲気をしている。
その周辺だけ緊張間でぴりつきそうだ。
足を止めた光の粒が、その内の一人に近付く。
そして、何を思ったか。突然その一人の髪を一束摘み上げ、引っ張り始めたではないか。
ぎょっとしたのは、一緒に遊び回っていたもう片方の光の粒だ。
やめなよ、と慌てて止めに入るも、相方はきゃらきゃらと楽しげでやめる様子はない。
そして、ついに人が片手を上げて払われてしまい、光の粒は二粒揃って追い払われて行く。
「……何をしているんだ、グラン」
「しょんないだろ、サシェ。なんか髪が引っ張れると思ってさ」
じとりと睨むサシェに、グランは肩をすくめて見せた。
「たぶん、二、三は居るな。イタズラ好きな奴らが」
「それって……精霊のことか?」
サシェがきょろりと周囲を軽く見渡してみるも、彼の目に精霊の姿は映らない。
本当はお調子者な光の粒こと下位精霊が、おちょくるようにサシェの目の前を飛び交っている。
もう一方ははらはらと様子を伺っている。
認識阻害の効果で人は精霊の姿を認識出来ないだけであり、ちょっとしたきっかけ一つで容易に認識されてしまうのだ。
精霊としては幼く未成熟の彼らが扱う認識阻害など、そのリスクはより高まるもの。
「僕には視えないな」
サシェは諦め、首を軽く横に振る。
「俺だって視えてるわけじゃねぇよ。なんとなく居るかなって気配を感ずる程度だ」
グランがサシェの目の前を手で払う。
すると、おちょくるように飛び回っていた光の粒が追い払われる。
「たぶん今、視えないのをいい事にからかわれてた」
「ふーん……。なんか馬鹿にされたみたいで不愉快だね」
目を据わらせたサシェに、グランに追い払われなかった方の光の粒が、ごめんなさいと想いを込めて明滅した。
彼にそれが視えなくとも、謝らずにはいられない。
相方がとんだご迷惑を。何度も明滅を繰り返した。
そんな相方を、追い払われた光の粒が面白くなさそうに見やり、相方に体当たりを決めて弾き飛ばす。
そして遂に、相方の堪忍袋っぽい緒が切れた。
片方は睨みあげ、片方は挑発的に笑う。
ここで取っ組み合いでも始まるのかと思われた瞬、その場に気配が降り立った。
精霊界の空気が廊下に広がり、光の粒らは動きを止めて振り返る。
姿を現したのはティアだった。
精霊界から直接転移してきたティアは、こちら側の風に迎え入れられ、緩く編まれた白の髪を揺らす。
光の粒らが驚きのあまり固まる傍ら、ドアの前に立つ二人が呆けたように立ち尽くしていた。
ティアの琥珀色の瞳が二人を見やると、はっとした二人は揃って背筋を正して職務にあたる。
「……今のはサシェにもわかった? 俺、気配しか伝わんなかったけどさ」
「さすがにわかる。僕でも感じる。上位精霊が降り立った気配がすんごいする」
こそこそと話す声がティアの耳にも届いた。
認識阻害をまとうティアの姿を認識するには、精霊の気配に敏いだけでは難しいだろう。
それでも、ここに上位精霊が姿を見せたと伝えることが大切なのだ。
表情を引き締める二人に小さく苦笑しながら、未だ固まったままの光の粒を二粒引っ掴み、ティアはドアの向こうへと転移した。
「ねえ、グラン?」
「なんだよ。今はちゃんと見張りの仕事してるだろ」
「それは見ればわかる。えらいね、グラン。――で、僕が訊きたいのは、廊下から部屋に移ったのかなってこと」
前半が小馬鹿にされたような言い方だったが、ひとまず気にしないことにし、グランはサシェに一つ頷く。
「……と、思うけど。これ、追い出した方がいいんか?」
「いや、いいんじゃないかな。僕らの役目は部外者を立ち入らせないことと、当人を部屋から出さないことだけだしね。あの気配は人じゃないし」
静かに首を横に振ったのち、サシェは肩越しにドアへ視線をやる。
グランも同じようにドアへ視線を投げ、軽く肩をすくめた。
「なるほどな。ダンストンさんが戻ったら報告すりゃいいか」
「そうだね」
サシェも小さく肩をすくめた。
◇ ◆ ◇
レースカーテンが橙を透かし、部屋をほんのりと染める。
男は部屋のベッドで眠っていた。
魔物に堕ちる手前だったというのに、思ったよりも穏やかな寝息で、ティアは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「……頑丈な人間も居たものね」
男を見下ろす眼差しは冷たい。
ティアに引っ掴まれてきた光の粒達は、その眼差しに震えて身を寄せ合った。
それに気付いたティアが、少しだけ苦笑を滲ませて光の粒達を見やる。
彼らを見やる瞳には温かな色が灯っていた。
「ごめんなさい。人への悪戯はほどほどになさいって言うだけであって、あれはあなた達に向けた気持ちじゃないわ」
怯える光の粒達を指先で優しく触れ、撫でる。
ほっとした彼らから身体の力が抜けた。
安堵から身体を明滅させる光の粒らへ、ティアはお行きと声をかける。
が、調子を取り戻した彼らは、ティアがここへ訪れた理由に興味があるようで、動こうとはしなかった。
ティアの瞳が呆れた色を滲ませ半目になる。
「楽しいことをするわけじゃないのよ?」
去ることを軽く促してみても動く気配のない光の粒らに、ティアは嘆息を落として諦めた。
「逃げたくなっても知らないから」
そう言うと、ティアはベッドで眠る男へと視線を落とす。
男を見下ろす琥珀色の瞳に感情の色はない。
ただ、淡々とした視線が落ちるのみ。
彼女の雰囲気の違いに気付いた光の粒が身を寄せ合った。
それらを視界の端に入れながらも、ティアは構うことなく片手を徐ろに持ち上げる。
彼らに忠告はした。それでもここに留まると決めたのは彼らだ。
手の平を上向けると、そこに顕現する。
濃密な何か。光を帯びるそれは、圧縮されてコンパクトに施されているはずなのに、苛烈な力はそれでも漏れ出てしまっている。
身を寄せ合う光の粒が、さらに身を寄せ合う。お互いに密着し過ぎて、もはや潰れている。
だから言ったのに、とティアは内申で呆れた。
そして、己の手の平に在る濃密なそれに、ティア自身も違った意味で震えそうだった。
圧縮し、コンパクトにしてみたと渡されたはずのそれは、圧縮した
精霊ならば誰でも気付くだろう。
ティアの手の平に在る濃密なそれは、誰の力を圧縮したものなのかを。
漏れ出る力の気配が、自分たち精霊を統べる存在の者だと告げている。
「あなたは禁を侵した。それを王はお許しにならない」
ティアが事実だけを口にする。
その声には何の感情もなかった。
「精霊と人は隣人。
上向けていた手の平を、ティアはゆっくりと下向かせる。
手の平に納まっていた濃密なそれが、水が滴るように男へと落ちていく。
「王に代わり、風のシルフがくだす――」
濃密なそれが男へと沁み、光がきえる。
だが、男は苦悶の表情一つ浮かべない。
穏やかな寝息を響かせて眠るのみ。
ティアの口の端が静かに持ち上がっていく。
琥珀色の瞳が、彼女の感情の起伏に呼応して光を帯びた。
橙に染まっていた部屋は、いつの間にか薄闇に包まれ始めている。
薄く笑うティアに、光の粒らは身を寄せ合い、互いに身を潰し合い、震えた。
精霊としては未成熟で幼き彼らだが、ティアが何を沁みらせたのかは知っている。
男から漏れ出る因子は精霊を統べる者――精霊王の持つ力のほんの一欠片。
それだけなのに、怖い。恐ろしい。
それが意味することを本能的に知り得てしまい、未成熟な彼らはただ震えることしか出来なかった。
「だから言ったのに」
今度は口にしたティアが光の粒らを見やる。
薄闇の中、琥珀色の瞳が薄ら光を帯びている。
それに射すくめられ、光の粒らは可哀想なほどに震え上がった。
ひゅっと息を詰めらせ、潰し合う身を今度は縮こませ合う。
と。そこでひりつく空気を壊すように、突としてドアが勢いよく開かれた。
「誰か居るのかっ!」
廊下に立っていたグランが飛び込む。
その隙に、光の粒らは開け放たれたドアから一目散に逃げ出していく。
気配でそれを察したのか、グランが目でその動きを追う。
が、すぐにその目は室内を見渡す。
けれども、彼の目にティアの姿は映らない。
「姿を見せてはくれねぇのか……?」
姿は映さない。けれども、グランの目は確かにティアを捉えていた。
グランの感覚は鋭い。
そんな彼の後ろから、もう一人が室内へと足を踏み入れる。
「僕らはそこの彼の見張りを頼まれています。その彼に何かあったのなら、報告する業務が僕らにはあります」
サシェの目も、グランの視線を通してティアを見据える。
だが、姿は映さない。
それでも、グランもサシェも気配は強く感じている。
そして、男から漏れ出る何かの因子も。
それはここに居る精霊よりも、遥かに強力で甚大な力の波。
ティアの視線が彼らの腰へ向けられた。
グランとサシェの腰に剣はない。
この場において、人の身である彼らを脅かす存在はない、ということか。
ティアが軽く息を落とした。
そこを起点にした風が小さく巻き起こる。
グランとサシェが軽く吹き付ける風に一瞬目をつむった。
そして、次に目を開いたとき。
「精、霊……」
呟きはどちらだろうか。
彼らの目にティアの姿が映った。
「これは精霊が示す線引きだ。この者には王の因子を沁みさせた。――隣人よ、この意味が解るか?」
ティアから発せらる言葉は、上に立つ者としてのそれ。
薄闇の中、薄ら光を帯びる琥珀色の瞳がグランとサシェを見る。
見ただけなのに、彼らは圧を感じた。これがプレッシャーか。
「……精霊王様へと通ずる、という解で合っているか」
緊張した面持ちのグランが硬い声で答える。
「それで構わない。王は禁を侵すことを許さない。それだけだ」
ティアが踵を返す。風が巻き起こる。
風が唸る中、サシェが咄嗟に声を上げた。
「貴女の名は――!」
精霊は真名を明かさない。
けれども、ここで意味することはそれではない。
ティアもそれを解って肩越しに振り向いた。
彼女の髪が風に踊る。
グランとサシェも腕を交差させて風を凌ぎながら、腕の隙間からティアを覗く。
ティアが名を落とす。
「風のシルフ――」
それだけを落とすと、風が膨れ上がる。
反射的にグランとサシェは踏ん張った。
けれども、風が膨れ上がったのは一瞬のことで、あっという間に風はティアと共に掻き消えてしまった。
残されたのは、呆然とするグランとサシェと、これだけの騒ぎでも穏やかに眠る男だけ。
あれだけ風が巻き上がったというのに、不思議と室内は散らかることなく整えられたままだった。
グランが男の側へと歩み寄り、険しい目付きで見下ろす。
「精霊の御印ってやつだな」
「精霊王様へと通ずるって……」
「まんまの意味さ。御印を通じて、精霊王様が見てるってことだろ。それがGPS機能が付いてんのか、盗聴機能が付いてんのかはわからねぇけど」
「……それはちょっと、いや、だいぶ困るよね」
サシェもグランの隣に立ち、厳しい顔付きで男を見下ろした。
「僕達の人側としての情報が筒抜けかもってことでしょ、それ」
「そーいうこと。あと、こんだけ精霊王様の濃ゆい力を漏らしてんだ。精霊は怖がって近寄んねぇよ。精霊の御印ってのは、簡単に言えば、王のお怒りマーク貼っつけられたみたいなもんだし。激おこぷんぷん丸ってわけだ」
「うわあ……。同情はしないけど、もう駄目じゃんそれ。あと、激おこぷんぷん丸は死語じゃない?」
「え、そう? ……まあ隣人だからこそ、精霊に知られたくねぇこともあんだし、それを知られる可能性があんなら、もうこいつ出世とかできねぇだろうな」
それに何より、ここで身を置く以上は精霊との関わりは必然になる。
姿が視える、視えない。気配を感じる、感じない。それらに関わらず、精霊が自ら逃げていってしまう存在は、厄介以外の何物でもない。
グランは頭を掻き、サシェは大きなため息を落とした。
「おい、二人してどした?」
軽い声に二人は振り向く。
「そんな難しい顔して、何かあったのか」
「……ダンストンさん」
サシェがほっと息を吐き出した。
グランがサシェの肩を軽く叩き、ダンストンの元へと歩いて行く。
サシェの横を通るとき、ちらりと彼を見やった。
口が、報告すんぞ、と動く。
はっとして、サシェも慌ててグランに続いた。
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