1-16.お兄ちゃんでしょ


「へ、まだ立ち上がれる元気あったわけ?」


 戸惑いに揺れる声をもらしながら、ミルキィは額に滲む汗を手の甲で拭う。

 突として膨らんだ気配。そして、ゆうらりと立ち上がった男。

 その立ち上がる様は、まるで吊り糸で操られた人形のようで、ある種の怖さと不気味さを引き寄せる。


「違う、ミル姉。あれ、魔力マナに侵されてる」


「……てことは、つまり魔物に墜ちた――?」


「まだそこまでじゃない。でも、その手前って感じ」


 隣に立ち並んだバロンに意識を向けながらも、ミルキィは目の前の男を見据えたまま腰を落とし、警戒する。

 じりじりと男がミルキィ達との距離を詰め始める。

 魔物の素は生き物。生き物の保有する魔力はオド。ならば、マナで対抗するのが定石だ。

 オドとマナは同じ魔力だが、互いに反するもの。

 オドにはマナが毒になり、マナにはオドが毒となる。

 けれども、ミルキィにマナで対抗できる手段はない。

 ならばいっそのこと、物理的に首を掻っ切った方が手っ取り早いか。

 だが、相手は魔物に堕ちかけているとはいえ、まだ人だ。

 物騒な考えが一瞬過ぎったが、後々のことを考えると、面倒事に発展する予感しかない。

 なら、それは取らない方がいい手だろう。

 そう思って、ミルキィは自分に苦笑した。

 面倒事になるだろうからやらない――そんなことを考える時点で、やはり己は人の常識から外れている。

 そしてまた、そこに悲嘆することもない。

 人としての何かが抜け落ちていることはとうに知っている。

 だから、べつにミルキィ自身はそれで構わないのだ。

 今、気にすべきことは――ミルキィは地に手を付くと、そこを起点にオドを練る。

 オドで地面に円を描き、文字列を編み上げ、陣を織り成した。

 そして、次の瞬。陣が地面を盛り上げ、ミルキィ達と男の間に土壁を築く。

 ミルキィがバロンを振り返った。


「転移は?」


 端的な彼女の問いだったが、バロンはそれだけで意図を察する。


「ミル姉だけであれの対処出来るわけ? 無理だよな」


 問い返して、すぐに答えを口にする。

 バロンが視線を据えた土壁は、築かれたばかりだというのに既にたわみ始めている。

 反対側から男が壊そうとしているのかもしれない。

 魔物は桁違いな破壊力を発揮する個体もある。それは、人と比べ物にならないくらいに。

 ゆえに人が魔物に堕ちれば、まず助からない。身体に強いられる負担は大きい。

 だが、男はまだその手前。精霊の対処が間に合えば、助かる見込みはある。

 けれども。


「バロン君、魔物に堕ちかけた人への対処法なんて知らないでしょ。だったら、さっさと逃げてくれた方が私も楽なんだけど」


 地面に展開した陣へミルキィがさらに魔力オドを流すと、陣の放つ光が強くなった。

 たわみを見せる土壁に、さらに保持のための魔力オドを注ぎ足したのだ。

 ミルキィの横顔に疲労の色が濃く滲む。


「それに、プリュちゃんはもう限界のはずだよ。ここは私なんかより、その子を優先すべき――バロン君はプリュちゃんのお兄ちゃんでしょ」


 肩越しに自分を見やる紅色の瞳を見、バロンははっとする。

 腕に抱える子狼。上下する身体が、辛うじてプリュイが生きていることを告げるが、彼女自身の存在気配が薄いことに気付く。

 浅い呼吸。辛そうな身体。表情だって穏やかではない。けれども、その表情はどこか安堵していて。


「オレは、お兄ちゃん――」


「そう、お兄ちゃん」


 自分を見やるミルキィの瞳に、バロンは口を引き結んで頷いた。


「……先に行ってる」


「おーけー。時間稼ぎはミル姉に任せなさいな」


 転移前にバロンが見たミルキィの顔は、疲労が滲む顔ながらに笑っていた。




   *




 落ちた――それが自覚した感覚だった。

 気が付けばバロンは森の中で立っていた。

 慌てて辺りを見渡してみても、景色に先程との変化はない。

 違いがあるとすれば、バロンの近くにミルキィと男の姿がないことくらいか。

 ということは、バロンは確かにあの場から転移したということだ。

 つまりは、転移途中で落ちてここに降り立ったということ。


「……魔力マナが練れない」


 愕然とした呟きは、夜の森に呑まれた。

 もう一度魔力を練ろうとし、目眩を感じて軽くふらつく。

 バロンの顔に苛立ちが浮かぶ。


「っんだよ。許容量超えたってか」


 舌打ちひとつ。琥珀色の瞳に焦りが滲んだ。

 精霊は人らと違い、自然界に溢れるマナを扱う。

 だから、人らと違ってオドのように保有量はない。しかし、代わりにあるのがマナを扱える許容量だ。

 それは精霊により違うが、許容量を超えてマナを扱おうとすれば、精霊自身の身体を壊すことに繋がる。

 精霊の身体は己の魂の器であり、その器はマナで構成されている。

 器が壊れれば、護りを失った魂もまた失われることになり、還ることなく精霊は死を迎える。

 精霊の死――それは輪廻から外れること。その魂は、二度と世に生まれることはない。

 これ以上は無理か。

 バロンはぐっと手を握り込んだ。

 無自覚だったが、周辺に漂う濃い魔力で疲弊していたらしい。

 その状態では転移が成功するはずもないか。

 腕の中のプリュイへ視線を落とす。

 薄らぐ存在気配に焦りだけが降り積もる。

 転移が駄目ならば、もう自らの足で進むしかない。

 少しでも早く奥地を脱する。それだけだ――と。


「――……?」


 不意に空気が揺らいだ。

 濃い魔に晒され、風の精霊であるバロンでさえも、周辺の空気に対する感知は鈍い。

 なのに、揺らぎに気付いた。

 それが意味することに気付いて、バロンは戦慄した。


「魔物……っ」


 愕然と呟き、途方に暮れたように立ち尽くす。

 その視線は一点を見つめていた。夜闇が蠢く。

 月明かりも届かぬ夜の森深く。それでも、辛うじて届く薄い月明かりに、ようやっとバロンは視認出来た――うねる蔓。

 本体は――たぶん、夜闇に紛れている。

 魔を取り込み過ぎた生き物の成れの果て。それが魔物。そして、魔物は命を好む。

 食すことで力を得るのか。理由は知らない。

 けれども、それが事実。理由などこの場では瑣末事だ。

 バロンは身を翻し、一気に駆け出した。

 方角は――たぶん、違う。このまま走り続けても、奥地を脱する方角ではない。

 でも、逃げなければ自分らが危ない。

 考えを巡らす余裕などなかった。


「くそっ」


 けれども、口をついて出た言葉は罵るそれ。

 バロンの視界が滲む。

 あの罵りは自分に向けたものだ。

 ミルキィが身を挺して逃げる機を与えてくれたというのに、自分は情けなく逃げている。

 こんなの、敗走もいいとこだ。

 ミルキィだって、万全な体調ではないはずなのに。今だって彼女が無事かどうかもわからない。

 バロンにそれを知る術も、疲弊している今では身を守ることも出来ない。

 悔しい。その一言に行き着き、知らず涙が溢れた。

 それでも、走る足を止めるわけにはいかなかった。


「くっそぉぉっ!!」


 半ばやけくそで叫び、悔しさをばねに走る足に力を入れる。

 けれども、後方から空を切る音を耳にした気がして、肩越しに振り返った。

 それがたぶん、いけなかった。

 迫る蔓先が見えて、瞬的な恐怖で足が止まった。

 あ、ダメなやつだこれ。

 そう思うと、頭は真っ白になった。

 そうなってしまえば、バロンに出来るのは迫る蔓先を見つめるだけ。

 それがやけにゆっくりと見えた。


「……ごめん、ミル姉」


 せっかく機を見て逃してくれたのに。無駄にしてしまった。

 謝の言葉が口からこぼれた。

 刹那。風が吹き荒れる。

 夜の森を掻き回し、木々を煩い程にざわめかせた。

 突然のことなのに、不思議とその風に恐怖は抱かなかった。

 腕の中のプリュイを庇うように身を小さくしたのは、咄嗟の判断だ。

 この風が持つ気配に親しみがある。

 これは――母の気配。

 茂る下草に伏せると、目を強くつむって風をやり過ごす。

 風は唸り声を上げながら木々を掻き回し、木の葉を巻き上げる。

 ひとしきり周囲を荒らしたのち、風は巻き上げた木の葉を撒き散らしながら、過ぎ去っていく。

 肌で風が通り過ぎたのを感じ取り、バロンが恐る恐る顔を上げたとき、とさっ、と下草に気配が降りた。

 バロンの眼前に降り立った気配が、風によって折られた枝葉から落ちる月明かりに照らされる。


「あ――」


 思わずこぼれた吐息は、安堵からか。

 月明かりを弾く白の髪は白銀にも見え、肩口の長さの髪を束ねる髪紐は、バロンの瞳と同じ琥珀色。

 否、それはバロンではなく、彼の母が持つ色を表したもの。


「父さん……」


 バロンが震える声で小さく呟くと、碧の瞳が振り返った。


「良かった。間に合ったね」


 バロンの前に降り立ったシシィは、安堵で顔を緩ませる。

 そして、振り向きざまに手を一閃。

 水の気配が軌跡のように宙に一線を描いた。

 ぼとっと重さのあるものが落ちる音が響く。

 バロンがシシィの後ろからそっと覗くと、落ちていたのは蔓先だった。

 視線を動かせば、先がなくなった蔓が怯んだようにうねっていた。


「さて」


 バロン達を護るように立つシシィが、手に水の気配をまとわせながらうねる蔓を見やる。


「君たちには退いてもらおうかな」


 シシィが薄く笑い、碧の瞳に冷ややかな色が宿った。

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