1-17.居たいと思う場所(1)


 築いた土壁がまた大きくたわんだ。

 既に土壁は、端から徐々に崩れ始めている。

 噴き出す汗を手の甲で拭いながら、ミルキィはちらりとバロンが走り去った方角を見やる。

 森によって湿った夜気が頬を撫で、汗をひんやりと冷やしていく。

 バロンは遠くまで逃げられているだろうか。

 獣の耳が立ち上がる。あれから時折、耳が音を拾うのだ。

 命の匂いに誘われ、魔物が近くまで集まって来ているらしい。

 たどり着かれるのも時間の問題な気もして、彼女の口元に薄ら笑みが浮かぶ。もはや諦めの色が濃い。


「……幸いなのは、目の前のあの人が、直進しか出来ない単純な人で良かったってとこかな」


 土壁の向こう側を据え、身構える端がまた脆くも崩れた。

 が、そこまでだった。ここから先の動く術がない。

 情けないが、バロンに任せなさいと言ったのは大半が見栄だ。

 ミルキィに取れる手段など、土壁を張って耐えるくらいなもの。

 彼女にマナをまとって攻撃に転じる手段はないし、魔物に堕ちかけている生き物を救う手立てもない。

 これは本当に詰んだ状況とも言えよう。


「ははっ……マジやばじゃん」


 乾いた笑いがもれるのも仕方がない気がする。


「これ本気マジで、喉掻っ切った物理的手段しかないんじゃないの?」


 たらり、緊張滲む汗が頬を伝った。

 けれどもそれは、のちに面倒事にしかならないことは容易に想像出来る。

 では、どうするか――と考えを巡らそうとした、その瞬。

 どくんっ。ミルキィの身体が強く脈打った。

 咄嗟に胸を抑える。身体の力が抜けていく。

 なんだ、これ。困惑に包まれながら、ミルキィはその場に膝を付いた。

 急激に汗が噴き出し始め、徐々に体制を保てなくなってうずくまる。

 どくん、どくん。鼓動が強く響く中、ミルキィはのろのろと夜空を見上げた。

 雲が動き、月が姿を現す。まんまるの月――満月。

 ミルキィの紅の瞳が大きく見開かれ、爛々とした光を宿し始める。

 彼女の口の端が、ゆっくりと持ち上がった。


「…………そーいう、こと」


 絞り出された声には、妙に納得した色がはらむ。

 爛々とした瞳を細め、ミルキィは笑みを深めた。


「私の境界って、曖昧だからなあ……」


 深められた笑みは、獣じみた野生のそれを垣間見せながらも、どこか迷子のような色もはらませる。

 しかし、次の瞬間にはその笑みも歪む。

 息を詰まらせ、身体が傾いだ。

 くの字に身体を曲げたミルキィの口から、苦しげな息がもれる。

 何かを堪えるような、耐えるような熱を持った息。

 身体が熱かった。血が力を表立てようとして滾っている。

 己の腕を抱いた手。爪が鋭く伸び、自ら腕に突き立てた。


「――う、ぁ……っ」


 痛みが自身を貫く。

 そうでもしないと、意識が呑まれそうだった。


「……私の、人じゃない、これ……ここまで、大きくなっ、てたん、だ……驚き……。てゆーか、魔力マナが……濃ゆい、せいだったり……してね……」


 冗談を口にしながら、突き立てた爪で己の腕を引き裂く。


「――っ」


 悲鳴は声にならなかった。鉄の匂いが周囲に広がる。

 のそりと身を起こす。

 己の足で立ち上がると、熱を持った赤が腕を伝い、指先から滴った。

 自ら引き裂いた傷が脈打つ度、傷の形を体感する。

 と、ぼこんっと音が轟く。

 のろのろと支線を持ち上げれば、時を同じくして土壁が崩れた。

 爛々とした紅の瞳が夜に笑う。


「わあ、予感通り――」


 頬に嫌な汗を伝わらせながら、ミルキィの顔に冷めた笑みが浮かんだ。

 己の心が、夜をまとったように冷めていくのを自覚する。


「なんかもう、めんどうだ」


 急激に、全てが面倒に感じた。

 痛みを感ずるのも嫌だし、こんな魔力が濃い場に居続けるのも嫌だった。

 バロンを逃がすという目的は達したのだから、もうさっさと終わらせてしまおう。

 爛々とした瞳に、苛烈な光が宿る。

 もとより、己の中でその境界は曖昧だったのだ。

 何に拘っていたのか、何にたたらを踏んでいたのか。それも忘れた。

 魔物に堕ちかけの男が、地を蹴った。

 対し、ミルキィは腕を振り上げる。

 爪先を月光が鈍く弾いた。

 が。


 ――つまりは、逃げることにしたわけだ


 バロンの声が内で響き、振り下ろそうとしていた腕が止まる。

 唐突に気づいてしまった。

 逃げるということは、それをやめるということで――つまりは、そこに居られなくということで。

 そこに居たいと願うのならば、居続けるための努力も、時には必要なのではないのだろうか。

 脳裏に過ぎた姿。彼だけが特別で、彼だけが唯一の――。


「――る、か」


 名を呟いたのは無意識だった。

 けれども、それがいけなかった。

 隙が出来る。迫る男の姿が、視界いっぱいに入った。

 紅の瞳が見開き、懐に入り込もうとする男を見つめる。

 その動きがやけにゆっくりと見えるのはどうしてか。

 男の口が、人にしてはありえぬ程に裂けて笑った。

 くわりと口が開けば、ミルキィなど飲み込まれそうだ。

 呑気にそう思った。

 男の口がくわりと大きく開かれ、ミルキィに影が落ちる。

 唾液が滴り、じゅっ、とミルキィの肌を溶かした。

 じゅっ、じゅっ。唾液が幾つも滴る。

 溶けた肌は熱と痛みを伴っているはずなのに、ミルキィは呆けたように見上げたままで、痛みは知覚しなかった。

 一飲みか――案外、呆気ない最期だったな。

 なんて、思った時だった。

 荒風あらかぜが吹き抜ける。

 その風は今にもミルキィを飲み込まんとしていた男を突き飛ばすと、渦を巻いて周囲の枝葉や土を巻き上げた。

 風の勢いに負けて、ミルキィも軽く吹き飛ばされる。

 地を転がる中、突として静まった。

 訪れた静寂。息を殺したのか、枝葉のざわめきすらしない。

 そんな広がる静寂の中に、二つの気配が舞い降りた。

 倒れ込んでしまったミルキィは、舞い降りた人物の背をのろのろと見上げる。

 ひとつは見知らぬ背。けれども、もうひとつの背は――紅色の瞳が金を帯びる。

 ミルキィの瞳が、彼女の常の色である金に変じた。


「――る、か……?」


 小さく呟いた声に、その背が慌てた様子で振り返り、ミルキィの前に膝を付く。


「ミルちゃんっ! 大丈夫か!?」


 ひどく慌てた顔をしたルカが、心配の色を滲ませた蒼の瞳でミルキィを見下ろす。

 膝を付いたルカは、怪我はないかとミルキィの身体を細かく確認していく。

 肌にただれた様子をみつけるも、もう既に治りかけなのに気付いた。


「……治りがはやい」


 ルカが僅かに眉をひそめる。

 次に腕に引き裂かれた傷に気付いた。そして、赤が滲むミルキィの爪に今度こそ顔をしかめる。

 けれどもそれも血は止まっており、治るのもすぐなのだろう。

 物言いたげに一瞬だけミルキィを見やったが、言いたい言葉は飲み込んだ。


「――ミルちゃん、立てる?」


「え、あ、うん……」


 ミルキィが反応に困っていると、ルカは彼女の脇腹に手を差し込み、よいしょと彼女を立ち上がらせる。

 補助を受けながらミルキィが立ち上がると、今度は土埃などで汚れた彼女の服を軽くはたいていく。

 それはまるで、転んでしまった幼子を立ち上がらせるかのような、そんな慣れた動きだった。


「なんで、ルカがここに……?」


 それまでされるがままだったミルキィから、ようやく言葉が漏れ出る。

 けれども、突として現れたルカに思考が追いつかない。

 丸くなった金の瞳が、立ち上がったルカを見上げてぱちくりと瞬いた。


「ミルちゃんが奥地に入ったって、ダンストンさんから聞いた」


「あ、なるほど……」


 ダンストン。ルカの口からその名を聞き、ミルキィは何となく目を逸らす。

 ルカがこの場に現れた理由も、心境も何となく察せられた。

 そして、ダンストンに姿を見られていたんだった、と唐突に思い出す。

 訳ありのミルキィにも、優しく接してくれるダンストン。それに、サシェにグランにオリヴィア。

 次々と彼らの顔が脳裏を過ぎていく。

 優しい彼らも、これでミルキィに対する態度を変えてしまうのだろうか。

 怯えた瞳を向けられてしまうのだろうか。

 そこまで考え、急激に心が冷えた。

 ダンストンを垣間見たあの時は、もういいやと投げやりの気持ちが大きく、何とも思わなかったし、それで別に構わないと思っていたのに、今はなんだか胸が不安で疼く。

 怯えた瞳を向けられるのはちょっと嫌だ。

 そして、同時に気付いてしまった。

 逸していた金の瞳が、もう一度ルカを見上げる。

 その瞳が揺らぎ、ミルキィは口を引き結ぶ。

 獣の耳がしおと倒れ、尾も垂れ下がった。

 ダンストンに見られた――ミルキィのこの姿は、人には畏怖されるもの。

 怯えに染まった瞳を彼らに向けられる。

 そうなってしまったら、もうここにも居られなくなって、そして――。


「……もう、ルカの隣に居られない――?」


 引き結んだ唇を噛み、金の瞳がじわりと滲む。

 優しくしてくれた人達から、怯えの瞳を向けられるのは辛い。

 だけれども、それよりも強く怖いと思うのは、何よりも強く思うのは、ルカの隣に居られなくなること――それに気付いてしまった。


「大丈夫。ミルちゃんが踏み留まってくれたから、まだ間に合うよ」


 が、否定するようにルカが首を左右に振った。

 泣き出す寸前のミルキィへ腕を伸ばし、優しく引き寄せる。

 ミルキィはルカの肩口に顔を埋めた。

 その頭をルカの温かな手がそっと撫でる。

 そして、幼子に言い聞かせる柔らかな声音で呟いた。


「彼に爪を振り下ろさないでいてくれて、ありがとな」


 その声にミルキィは、ん、と小さく応えた。

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