1-15.夜を吹き荒らす風
唐突に息が出来た――気がした。
肺が空気を求めて喘ぐ。けれども、久方にも感ずる空気に堪らず咳き込んだ。
激しく咳き込み、苦しさと胸の痛さに身体を丸めると、ぬくもりが己を抱き上げた。誰かが背を擦る。
己に触れるぬくもりがよく知るぬくもりのような気がして、プリュイはのろのろとまぶたを頑張って持ち上げた。
あやふやな視界。数度ゆっくりと瞬きを繰り返すと、馴染んだ瞳がその誰かを映し出す。
「……あに、うえ……?」
普段から少しばかり舌足らずな声が、さらに舌足らずなそれで言葉を転がす。
プリュイが碧の瞳で兄を認めると、見下ろす琥珀色の瞳が目に見えて安堵するのがわかった。
「……そう、兄上だ。もう大丈夫だからな」
息を微かに震わせながら、バロンはプリュイの身体を抱く。
「もう、大丈夫だから」
再度繰り返されるバロンの言葉に、プリュイは緩く息を吐き出す。
そっか、もうだいじょーぶなんだ。でも、なにかあったんだっけ――?
まだはっきりとしない頭に、薄ぼんやりとそんなことを思う。
思い出そうと少しだけ頑張ってみたが、疲労感がすごくてすぐに諦めた。
眠い。眠気に思考を絡め取られる。
バロンが――兄がもう大丈夫だと言うのだ。
何が大丈夫なのかはちょっと思い出せないけど、大丈夫なんだから大丈夫なのだ。
そんな安心感も手伝い、プリュイの意識は再び沈んでいった。
かくんとプリュイの頭が落ち、バロンが色を失って叫ぶ。
「プリュっ!」
が、ミルキィがすぐにそんな彼の頭を引き寄せて撫でた。
「大丈夫。プリュちゃん、眠っちゃっただけだから」
ミルキィの腕の中、バロンはゆっくりとプリュイへ視線を落とした。
自身の腕の中からは寝息が微かに聞こえ、上下するプリュイの腹に安堵の息をもらした。
「……ホントだ」
「お兄ちゃんに会えて安心したのかな」
ミルキィを見上げたバロンの表情から緊張が緩んでいく。
それに対してミルキィはほっと息をもらすと、バロンから身を離した。
「――でも、長居はよくないかも。プリュちゃん、辛そう」
バロンの腕の中ではプリュイが眠っている。
だが、その寝息、その寝顔は、けして穏やかなそれとは言えない。
上下する腹からも呼吸が浅いのがわかる。
きっとそれは、陣にて捕らわれていただけが要因ではないはずだ。
ミルキィの頬に幾度目かの汗が伝う。
それを二の腕部分で拭うと、同じくバロンも袖口で伝う汗を拭っていた。
互いに見やり、苦笑する。
自分達もそろそろやばいかもしれない。
とうに二人は肩で息をし、立つのも実はやっと。
早くここから脱しなければ――そこまで思い、ミルキィはふと転がる男に視線を向けた。
男を見下ろす紅の瞳が急速に冷えていく。
男が意識を取り戻す様子はない。
余計な荷物は持ちたくはない。
なら、この男はあとで誰かに回収に来てもらえばいいか――その己の感覚が、常人のそれと離れているのは自覚している。
「行こ、バロン君」
バロンを振り向いた刹那だった。
その彼が琥珀色の瞳に険を滲ませ、鋭さを宿した。
その瞳が見ているのは、ミルキィの背後。瞬、気配が膨れ上がった。
ミルキィが反射的に振り返ると、男がゆうらりと立ち上がった。
◇ ◆ ◇
「――っ、この先ってかっ」
駆けていた足を止め、ルカは吐き捨てるように呟いた。
森の奥とはいえ、この辺りはまだ人の手が入っており、比較的見通しも日中の日当たりもいい。
だが、ルカの睨む先。彼が思わず足を止めた先は、枝葉も下草も茂り、湿り淀んだ匂いが色濃く漂う。
ちっ、と舌打ちをひとつ落とした。
帰って早々、ルカは森のざわつきを覚えた。
何が、とは形容し難い感覚的なもの。
とりあえずは確認してみるかと、ルカは宿舎に戻るのも、師団長への報告も後回しに森へと踏み入った。
そして、感ずる常と違う森の空気。
違和が最も強く感じる方へと駆け出した直後、ルカはダンストンらとすれ違う。
彼らから精霊捕縛の話を聞き、報告は彼らに任せて分かれ、ルカは単身でさらに奥地へと踏み入った。
「サシェさん達が言ってた奥って、この先ってことかよ」
そして、ここで足止めされる。
これ以上踏み入れようとも、一歩踏み出すだけで肌にひりつきを覚える。
肌が粟立つ度、ルカの蒼の瞳に苛立ちが滲む。
「けど、俺はここで立ち止まってらんねぇのっ」
王都帰りだったため、帯剣はしていない。
剣の所持を許される立場にあるルカだが、魔物の出没する場へ出向くわけでもなかったために、帯剣の許可は下りていない。
それが少しばかり、この場においては心許ない。
瞑目し、息を整える。
本当は単身で出向く場面でないのはわかっている。
体制を立て直し、準備も万全にして踏み入れるべき場面である。
けれども、ルカは単身で出向くべきだと判断した。
一刻も早く。その訳はダンストンの言だった。
『……見間違いだと思いたいけどよ、おれのカンが
それが酷く、ルカの心をざわつかせる。
ダンストンは奥地へと向かう人影を見たという。
その面差しがミルキィにとても似ていたとも。
ざわつく気を鎮めるように、ルカは息をひとつ落とす。
まぶたが持ち上げられ、蒼の瞳が姿を現した。
「――ヒョオ」
厳かな声が名を紡ぐ。
刹那。ルカの肩に気配がひとつ降りた。
気配は襟巻きの如くルカの首に絡まり、顕現する。
「我はここに
ルカの肩に顕現した白蛇ヒョオが、ちろと舌を出して応えた。
それから間もなくだった。
ルカの背後に大きな二つの気配が降りる。
気配から漏れ出る存在感がヒョオよりも強大で、ルカは思わず身を強張らせ、反射で手元に陣を展開し始め――動きを止めた。
視界の端、朱色が揺らめく。
すいーと優雅に宙を泳ぐ、金魚――。
「は――?」
なんで、宙に金魚が。
困惑する頭に、肩口ではヒョオの嘆息が聞こえた気がした。
むんず。ルカは咄嗟に手を伸ばし、金魚を握る。
そして、まじまじと手の中の金魚を凝視してみるも、やはり金魚だった。
「……金魚だ」
と、手の中で金魚が暴れ始めた。
「は、離してくださいましっ! 金魚は握るものではなくってよっ!」
「あ、
ぱっとルカが手を開いてやると、金魚は慌てて抜け出し、逃げるように彼の後ろへと向かい泳いでいく。宙を。
やはり不可思議すぎて不可思議だ。
「……なん? あれ」
「……あれは眷属ゆえ」
ルカの呟きに、彼に巻き付くヒョオが応えた。
「眷属って、誰の……?」
「――僕の、かな」
ルカの問いに答えたのは、ヒョオとは別の声だった。
ルカが振り返る。泳ぎ逃げた金魚が、白の髪を襟足で短く髪を束ねた男性の肩に留まった。
金魚が、肩に留まった。
「……いや、金魚は肩に留まんねぇよ」
セルフツッコミ。ルカは気を取り直すべく、軽く頭を振った。
ルカの身体が揺れ、ヒョオは物言いたげに彼を見やる。
「アケは風の性質も帯びてるから、ちょっと風変わりな金魚に仕上がっちゃったのよ」
苦笑混じりに、男性の隣に並ぶ女性が言う。
「――さあ、和むのはここまで。あなたには目的があるんでしょ?」
女性の琥珀色の瞳がルカを真っ直ぐ据えた。
その琥珀色に見覚えがある気がして、ルカは無意識に呟いていた。
「バロン……?」
すると、女性の顔にほんのりと笑顔が浮かぶ。
「ええ、私はティア。バロンがいつもお世話になってるわね」
「うん。それで、僕はシシィ」
よろしくね、と。シシィもまた笑みを浮かべた。
それに反射的によろしくと返してから、ルカは呆然とした面持ちでティアを見やる。
「……てことは、シルフ」
「そうね。シルフの名を冠する精霊でもあるわ」
頷く彼女に、ルカは数歩後ずさる。
シルフの名は、ルカの立場上目にすることも耳にすることも多い。
でも、大精霊などそう滅多に会える存在でもないのだ。
そんな存在が目の前に居る。
なるほど。先程感じた大きな気配は大精霊ゆえだからか。
どうりでヒョオと比べ物にならないはずだ。
細い息がもれる。
「これ、しっかりせい。お主には目的があるゆえ、我を喚んだのであろう」
ヒョオの尾先がぺしりとルカの頬を叩いた。
「……ああ、そうだった。存在に呑まれてる場合じゃねぇな」
ぶるぶると激しく頭を振り、気を取り直す。
「よしっ。ヒョオ、ありがと」
「うむ」
「で。俺さ――」
「わかっておる。奥地に行きたいのであろう?」
なんだ、お見通しか。ルカが肩口にあるヒョオの顔を見やった。
ヒョオの舌がちろと動く。
「ゆえ、精霊の頭数は多くて損はなかろう」
「あ、それで一緒に来てもらった的な……?」
ちらりとルカがティアらを振り返ると、彼女達は静かに首肯した。
「私もシルフとして静観は出来ない事柄ってことと、私達の子が巻き込まれてるんだもの」
「親としても大人しく待ってられないってことだね。人は諸々と手続きとか準備とか……まあ、煩わしいことがたくさんあるから」
肩をすくめて見せるシシィに、ルカも同意の意で苦く笑う。
その煩わしさがあれで、単身飛び込もうとしているのはルカも同じだから。
「てことで、お喋りはおしまい。巻きで行くわよ」
巻き。その言葉の意図する事が掴めなく、ルカとヒョオは困惑げに顔を見合わせる。
ティアが一歩踏み出した。
途端、彼女の背に流れる緩く編まれた白の髪がふわりと浮き上がる。
不可視の力が迸った。瞬、周囲の空気が色を変えたのを、ルカもヒョオも敏感に感じ取る。
「……周囲の空気を支配下に置いたか」
ヒョオが呟く。
「それって、自然への干渉……」
甚大な力を有する精霊は、時に自然へ干渉して意に操ることも出来るという。
目の前のシルフの名を冠する彼女が、それだけの力を有した精霊だということだ。
けれども、自然への干渉はその分だけ機嫌を損ねさせる。
誰だって無理やり言う事を聞かされれるのは不快だ。
例えばこの場の空気を支配下に置いてしまえば、自然は気分を損ねて風が去って行く。そう、暫くの間この辺りは無風地帯になるだろう。
心配げなルカの肩を、シシィがとんっと優しく叩いた。
「大丈夫。自然は大きいからね、この辺りにちょっと干渉するくらい、自然にとっては些細なものだよ」
ルカが目を向ければ、シシィは真っ直ぐティアを見据えていて、彼の肩に留まる金魚の尾ひれが大きくなびいていた。
「――来るよ」
ルカが、何が、と問う前に、ごう、と後方で風が唸る。
そして。
「しっかり掴まってて」
ティアの声を合図に、唸り声を上げた風がその場の全員を飲み込んだ。
草木を吹き荒らしながら、皆を飲み込んだ風は奥地へと突き進んで行く。
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