1-14.ミルキィとバロン(2)


   ◇   ◆   ◇




 追い詰められた男が逃げ込んだ先は、奥地――と通称で呼ばれる森の奥深くだった。

 やけくそで走り続け、咄嗟の思い付きで森の奥へと足を踏み入れた。

 咄嗟の思い付きだったけれども、それが功をなしたようだった。

 ある程度まで走ったところで、男の体力は尽きた。

 茂る下草に足を取られ、派手に転ぶ。

 拍子に引っ掴んでいた精霊を捕えた陣が転がっていく。

 だが、それを拾いに行く体力も気力もなく、そもそもが身体を起こす余力すらもうない。

 はあはあと肩で大きく息をし、喘鳴の隙間に後ろを振り返る。

 茂る木々の枝葉に遮られて月明かりは届かないが、それでも出来るだけ目を凝らして凝視する。

 しばらく睨むようにして窺っていたが、腰に剣を提げたあの二人の姿はなく、声もない。

 いくら彼らでも、奥地まで足を踏み入れるのは躊躇したようだ。

 大きく息を吐き、ごろりと寝転がる。

 仰向けになり、手足を投げ出して男は笑った。


「……ははっ、やったぜ」


 胸が大きく上下し、喘鳴が体内に響く。

 仰向けのまま、顔だけで転がる陣を見やってほくそ笑む。

 これで、今よりもっと大きな力を手に出来る。

 そのためにはまず、あの精霊の真名を暴かなければ。

 精霊が普段名乗る名は、精霊の“個”を示す。

 そして、真名とは精霊の“魂”を示す。魂は存在そのもの。

 つまりは真名さえ掌握してしまえば、縛りを与えることができ、精霊を意のままに扱うことも可能なのだ。


「……あと、ちょっと――」


 高揚した気持ちのまま、男は気怠い身体をゆっくりと起こす――起こそうと、した。

 なのに。


「――……っ」


 息が瞬的に詰まった――否、呼吸が出来なかった。

 なんだ、これ。

 疑問を抱くも、そこから焦燥や恐怖で身を焦がす前に、男は喘ぐように意識を手放した。




   ◇   ◆   ◇




「――で? バロン君が焦ってた理由がこの人ってこと?」


 そう言ったミルキィは、怪訝な顔でその男を見下ろす。

 苦しげに顔を歪め、身体はくの字に折り曲げて転がる男は、この魔力マナの濃さに耐えきれずに意識を失ったのだろう。

 やはり人は脆い。ミルキィは呆れたように息をもらした。

 脆くて弱いくせに、どうしてこんな場所まで入り込んだのか。

 馬鹿か阿呆かとしか言いようがない。

 肩をすくめ、ミルキィは背後を振り返る。

 先程の疑問にバロンからの返答はない。


「……ねえ、バロンく――」


「――そいつが使ったんだ」


 ミルキィに背を向けて佇むバロンが口を開く。

 その声音は淡々としており、感情の色は窺えない。

 バロンは何かを見下ろしているようだが、彼自身に隠れてしまい、ミルキィからはそれが見えなかった。


「使ったってなにを?」


 何かを精霊に対して仕出かしたのか。

 ミルキィが転がる男を再び見下ろす。

 バロンの様子から、どうせ碌でもないことなのは察せられた。

 見下ろすミルキィの紅の瞳に、冷たさが帯びていく。


「……精霊捕縛」


 ぽとりと落とされた言葉に、紅の瞳が見開かれた。

 次いで、弾かれたようにミルキィはバロンを振り返る。


「――は? 精霊捕縛って……精霊を……?」


「そう」


 短く応えの声。

 バロンが肩越しにミルキィを振り返り、身体をずらす。

 そうして、やっとミルキィもそれが何かを知る。

 円形に形成された文字の羅列。これは――。


「――陣、じゃん。それ……」


 浮かぶ陣は仄かに光を帯び、未だに発動中なのがわかる。

 それにバロンは先程何と言ったか。

 精霊捕縛、と。そう言った。

 浮かぶ陣にゆっくりと歩み寄り、ミルキィは並ぶ文字列に目を向ける。

 粗雑で荒い文字並び。けれども、効力は的確に働いている。

 結界魔法に重ねた捕縛魔法。それも、対精霊用に改築されたタイプのもの。


「……文字形式が古いね。どこの本から引っ張り出したんだか」


 ちらりと転がる男を振り返った。

 紅の瞳に嫌悪が滲む。


「精霊捕縛なんて、今はもう禁じられた魔法のはずだよ? それを……」


 精霊の捕縛など、人と精霊の関係に亀裂を入れる行為だ。

 陣の記された魔法書だって、かなり昔に絶版されたはず。

 それをこの男はわかっているのか。


「そう、これはやっちゃダメなことで、それで――っ」


 バロンの語気が荒くなり、握られた拳が小刻みに震えている。

 そして彼は、懇願するような眼差しでミルキィを見つめた。


「ミル姉なら、なんとか出来る……?」


 バロンの琥珀色の瞳が揺れる。

 そんな彼の瞳を、ミルキィはにかっと笑って受け留めた。


「もちろんだよ。このミル姉に任せなさいなっ!」


 バロンの表情が安堵で緩むも、すぐに琥珀色の瞳が伏せられ、唇を噛む。

 そして、頼りない声で付け加えた。


「……プリュイ、なんだ」


 その言葉にミルキィは瞠目し、捕縛の陣に視線を落とす。

 この中に、あの子が。脳裏に過ぎた懐っこい子狼の姿に、ミルキィは固く目をつむった。




   *




 気を抜けば、呼吸を持っていかれそうだった。

 浅くなりがちな呼吸にも意識を向けながら、ミルキィは目の前の陣の解読を急ぐ。

 珠のように噴き出す汗を服の二の腕部分で拭った。

 これ以上の長居も難しそうだ。思考の片隅でそんなことをぼんやりと思う。

 指先からオドを迸らせ、精霊捕縛の陣に上書きを行っていく。

 文字形式は古いが、読めない部類の文字ではない。

 古いタイプの陣は、組み込まれる文字列に装飾が混ざっていることも多々あるのだが、幸いと言っていいのか、件の陣は効力を求めたもののようで、文字並びは至って簡素だった。


「……昔っからね、お父さんの魔法書が面白くてよく読んでたんだ」


 汗が頬を伝う。息が苦しい。

 拙い魔力操作で余分な魔力オドが逃げていく。

 それがもとより濃かった周囲の魔力濃度をさらに上げていっているようで、さすがのミルキィでも既にきつい。

 彼女の顔に僅かながらな苦悶の色が滲む。

 けれども、陣を解する彼女の手は止まらない。


「……大丈夫。プリュちゃんはまだ生きてるよ」


 精霊捕縛の陣がまだ光を帯びている。

 光を帯びるのは未だ発動中ということ。

 それはつまり、陣の内部に対象が居るということだ。


「だから、そんな顔しないでバロン君」


 優しく紡がれた声に、ぱきんと亀裂の音が重なる。

 重ねられていた陣に亀裂が入り、ひとつ砕け散った。

 ミルキィの隣で座り込み、不安げな面持ちで手元を覗き込んでいたバロンが、はっとしたように顔を上げる。

 砕けた陣の欠片が、バロンの顔を淡く照らしては空へと還っていく。


「ミル姉……。うん、そーだな」


 琥珀色の瞳が淡い光を弾いて揺れた。


「……無理させて、ごめん」


「いいんだよ。これは私にしか出来ないことだもん。ううん。むしろ、私だから出来ることだもん」


 それが嬉しいんだ。

 視線は手元に落としたままにミルキィが嬉しそうに言うと、バロンが驚いたように目を軽く見張った。

 またひとつ、陣が砕ける。


「バロン君の言う通り、私逃げた。でも、私が私だからこそ、今こうやってこんなことが出来てる。これって、大事な気付きだと思うんだ」


 ミルキィが人ならざる者の血を継いでいるから、魔力が濃いこの場でも動けている。

 ミルキィが知識を持っていたから、この場で動けている。

 何も出来ないと思っていた。

 人の世において、出来ることは何も。

 でも、出来ることは確かにあった。

 結局は、ミルキィはミルキィ自身から逃げていたのだ。


「バロン君が煽ってくれたおかげだね」


 バロンを振り向き、ほわりとミルキィが笑う。

 最後の陣が砕け散り、空へと還る欠片が、そんな彼女の顔を淡く照らした。

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