1-10.子狼、わるいこになる


 さわさわ、と。森の木々を風が静かに揺らす。その風に夜気が深く絡み始めた。

 去って行く兄の背に向かって、プリュイがおたんこなすと叫んでから、それなりに時が経つだろうか。

 その間のプリュイは、祖父であるスイレンの寝床である木のうろで、身体を丸めて大人しく待っていた。

 このところの数日、兄であるバロンは、夜が訪れる度にプリュイをスイレンの元に残して、自分だけで精霊界の”外“へと赴いてしまう。

 最初は何をしに行っているのかはわからなかった。

 けれども、兄が夜明け前に戻ると、必ずと言っていいほどにミルキィの匂いをまとって戻って来る。

 その匂いに狼の姿を持つプリュイが気付かぬはずもなく、それから彼女とバロンの攻防戦が始まった。

 なのにその攻防戦は、全てプリュイの惨敗という結果で終わってしまった。

 なんとも悔しい。今思い出しても、悔しさで悔し過ぎて悔しい。

 そして、ついにプリュイは、ぷちん、と何とかの緖が切れてしまったわけだ。

 と。プリュイの片耳が音を拾って動く。

 丸めていた身を起こし、うろから顔を覗かせた。

 空には星が瞬き、吹き抜ける夜風が下草を揺らす。

 その夜風に身を撫でられながら、プリュイは碧の瞳にやる気の色を宿らせる。

 決行するのならば今宵が期だ。

 ふふふと悪い笑みがプリュイから漏れ、彼女は慌てて口を抑えた。


「……きづかれちゃったらだめだもんね。それまでは、ぷりゅはいいこちゃん」


 己に言い聞かせ、悪く笑っていた顔をいい子ちゃん仕様に切り替える。

 それから間もなくだった。

 夜闇に薄ぼんやりと白が浮かぶ。

 星明りの下、スイレンが姿を現した。


「じいじっ!」


 うろから飛び出したプリュイは、スイレンの元へと駆け寄っていく。

 身を擦り寄せ、きゅんと鼻を鳴らした。

 スイレンもそんなプリュイへ応えるように、頭をもたげて頬を彼女へと擦り寄せる。


「いい子で待っていて、えらいぞ」


「ぷりゅ、ひとりでもおるすばんできるもん」


「ずっとお留守番ばかりでごめんな。今、”外“はちょっと騒がしいから、遊びに付き合ってやれなくて」


 身を離して、プリュイの碧の瞳がスイレンを見上げる。

 空の瞳が申し訳なさそうに彼女を見下ろしていた。

 そんな瞳を見ると、プリュイのいい子ちゃん部分がつきんと痛む。

 でも、プリュイにだって我慢が出来ないことはあるのだ。

 連れて行ってと言っても、今はダメだよとしか言ってくれない。

 現にスイレンだって、ちょっと騒がしいから、としか口にしない。

 少し騒がしいくらいなら、プリュイはちっとも気にしない。

 なら、自分が“外”へ赴いても問題ないではないか。

 何がダメなのか、プリュイには全然わからない。

 誰も“外”に連れて行ってくれないのならば、自分から遊びに行くだけだ。


「ぷりゅはだいじょーぶだよ。だから、じいじもじいじがしたいことして」


 プリュイが笑顔を浮かべて見せれば、スイレンが一瞬困ったように笑った。

 けれども、すぐに自身の頬をプリュイへと擦り寄せて、ありがと、とだけ呟いた。

 くすぐったさに声をもらし、プリュイは暫くされるがままになっていた。




「じいじはヴィーのとこに居るからな。何かあれば――」


「すふればーばか、しまきじーじのとこにいくっ! それか、ばあばのいるたいじゅのとこっ!」


「そう。よく言えました」


 元気に答えたプリュイに、スイレンはほんのりと笑って彼女へ頬を寄せた。

 ヴィーとは、スイレンの番であり、プリュイ感覚では祖母にあたる精霊の愛称だ。

 ヴィヴィといい、精霊の中で大切な役割を担っている精霊らしい。

 ということしか、幼いプリュイは知らない。

 スフレとシマキというのは、プリュイの母の両親である。

 姿はプリュイと違って鳥の姿を持つ精霊であるが、彼女らもまた、同形であるバロンと同じように、異形であるプリュイも大切に想ってくれている祖父母である。


「じゃあ、じいじは行くな。眠たくなれば、先に寝ていろ」


 くるりと背を向けたスイレンに、プリュイは大きな声で、はあい、と返事をして見送った。





 やがてスイレンの後ろ姿が見えなくなった頃、プリュイはうろをあとにした。

 夜風が夜の森に吹き抜ける。

 さわさわと木々が控えめに揺れるのは、夜に眠る精霊達を起こさぬようにという気遣いか。

 自然とプリュイも、歩む足をなるだけ忍ばせる。

 かさりと触る下草に、静かに静かにとささやきながら進んだ。


 それからややして――。


「――きた」


 突としてプリュイの両の耳が立ち上がり、歩んでいた足を止めた。

 吹き抜ける風が、その気配を変じさせる。

 これは精霊界を吹き抜ける風でなく、”外“から吹き込んで来た風だ。

 その風がプリュイの青磁色の体毛を撫で、何処からか霧を運び込む。

 それは瞬く間に濃霧と化し、プリュイは自分の足元ですら視認するのが難しくなる。

 だが、プリュイに慌てた様子はない。

 彼女は知っている。これは精霊界と”外“の境界線だと。

 転移で”外“へと出られないのならば、自力で”外“へと出るだけだ。

 プリュイが一瞬だけ自分が歩んで来た方向を振り返る。

 スイレンの顔がちらりとだけ脳裏に過ぎった。

 それに、つきん、と胸に小さな痛みを感じながら、もう決めたことだもん、とかぶりを振って振り払う。


「……ぷりゅ、うそはいってないもん」


 そう、大人しく待っているとは、今夜は言っていない。

 ただ、黙って精霊界の”外“へと遊びに行くだけ。それだけだ。

 それがいけないことはわかっている。

 でも、みんなだけずるい。と、羨む気持ちが勝ってしまった。


「だからぷりゅ、わるいこになるの」


 悪い子になるのだから、あとから叱られる覚悟は出来ている。

 だから今だけは――。


「よし、いってきますっ……!」


 誰に向けるでもなく口にしてから、プリュイは元気に駆け出した。

 そんな彼女の姿を濃霧は包み、”外“へと誘っていく。




   ◇   ◆   ◇




 突として生じた濃霧。だが、それは次第に霧散していく。

 晴れていく濃霧から元気に飛び出して来たのは、青磁色の子狼。


「”そと“だっ!」


 弾む声音。

 鼻面を地に伏せてふんふんと匂いを嗅ぐ。

 精霊界の土とは似ているようで異なる匂い。

 少しぶりの”外“にはしゃがない方がおかしい。

 顔を上げたプリュイに喜色が広がった。

 ぶんぶんと尾を感情のままに振ってから暫く。ふと我に返る。

 喜色で緩む顔を慌てて引き締めた。


「ちがう。きづかれてみつかるまえに、みるをさがさなくちゃ」


 目的を思い出して、プリュイは夜の森を駆け出す。

 連れ戻される前にミルキィに出会えれば、すぐに連れ戻されることもないだろう。

 仕方ないなあ、とプリュイの気が済むまで好きにさせてくれる。

 なんだかんだと、プリュイの周りに居る精霊達が甘いことを、彼女はよぉく知っていた。




 がさがさと音を響かせながら、プリュイは夜の森を駆ける。

 木と木の合間を駆け、茂る草むらを抜け、とりあえず勘を頼りにひた走った。

 精霊界から”外“へ赴いたわけだが、プリュイが一体”外“の何処に出たのかはわからない。

 無計画な奴だなと呆れる兄が見えた気がして、プリュイは駆けながら無言でその幻想に噛み付いた。


「あにうえ、うざい」


 どこでそんな言葉を覚えたんだ。

 兄がそう言いそうだなと思いながら、突然プリュイの駆けていた足が止まった。

 足元から忍び寄る風が色を変える。

 先程まで吹き抜けていた夜風は、どちらかと言えばプリュイに友好的だった。

 風の精霊ではないため、風の気を読むことは出来なくとも、何となくは察することが出来る。

 なのに、今プリュイの足元に忍び寄る風は、ねっとりと絡みつくようで友好的なそれとは違う。

 次第にそれは怖気を呼び、プリュイの肌を粟立たせる。

 唐突に思い出した。

 そうだ。少し前、兄と共に”外“へと赴いた際に言っていた――森の奥地には行くな、と。

 この風が吹き込む方向は、その奥地というものではないか。

 ふるりとプリュイの身体が震えた。

 これ以上近付いてはダメだ。本能が警鐘を鳴らす。

 くるりと向きを変えて、プリュイは逃げるように駆け出した。

 駆けて駆けて、とにかく離れたかった。

 だから、気付かなかったのかもしれない。


「――え?」


 そこに足を踏み入れた時、プリュイの足を起点に光の線が地を走った。

 ぼおと夜に浮かぶ光がプリュイを照らす。

 言い知れない怖気がプリュイを突き抜ける。

 足を止め、身を縮こまらせた。

 これは何なのか。恐怖からかたかたと微かに震え始める。

 地に走った光の線は円形に展開し、何かの文字や図形が浮かび上がる。

 それが何かがわからず、プリュイはしばし呆然と足元を見回したが、やがてそれが何かを思い出す。

 下から己を照らすそれは――。


「じん……?」


 陣。人が魔法を扱う際に使用するそれ。

 でも、なんでそれが――疑問が頭に浮かぶ前に、展開された陣が立体を帯びる。

 危険を感じ、飛び退こうと姿勢を沈ませるも、行動に移すのが遅かった。

 そこから、立体帯びた陣がプリュイを捕らえるのはあっという間だった。

 それでも足掻こうと四肢を暴れさせるが、陣を成す文字や図形が網のような役目を果たし、足掻けば足掻くほどに絡みついて動きを封する。

 咄嗟に思い付きで転移術を発動させる。

 けれども、転移術の展開のために開放したマナが、瞬時に何かに阻害された。

 それどころか、開放したマナを辿って、何かがプリュイに流れ入って来る。

 本能的にその何かがオドだと察する。

 オドは精霊にとって毒成り得るもの。

 すぐにプリュイへ流れ入ったオドが、彼女の身体を侵していく。

 ひゅっと息苦しさを感じたのは、そのせいなのか。

 なんで、どうして、なんで。

 焦りをはらんだ熱が思考を焼く。

 プリュイを覆うように包み込んでいく陣が、彼女の視界を奪う。

 彼女の前足が伸びた。誰かに助けを求めるように。

 完全に覆われる寸前、最後に彼女の脳裏に過ぎった姿は――。


「――……」


 呟いたそれは声にならず、吐息がもれるだけ。

 その吐息すら、やがて陣は覆い隠す。


「おお、すげぇな。下位精霊が捕まればと思ったけど、中位精霊がまさか捕まえられるなんて」


 高揚した声が、代わりにその場に落とされた。

 精霊を包み終えた陣を見下ろしながら、彼は興奮気味な笑みを浮かべる。


「これで俺も、魔法剣みたいな魔法が使えるってもんよ」


 その姿を想像し、彼は満足げに息をもらした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る