1-9.夜の逢瀬
夜が深まり、森が静かに深く眠る頃。
さわさわと控えめに吹き抜ける夜風が、太枝に座るミルキィの頬を撫でた。
星が瞬く中、月が頂に登る。今宵は満月だ。
月を見上げながら、ミルキィは目を細めた。
その瞳が、金の色から
薄ら笑みが口の端にのり、彼女は静かに笑う。
どうしてなのか。昔から満月の夜はいつも心地良さを覚える。
己が有する
口から覗く歯は人のそれよりも鋭く、爪に至ってはもはや獣のそれだ。
太枝から垂れる栗毛の尾は、月明かりを艷やかに弾く。
栗色の髪が夜風に揺れ、隠すものもなく顕になっている獣の耳が、突としてぴんと立ち上がった。
変じた紅の瞳が、まるで睥睨するように背後を見やる。
「……今夜も来たんだ、バロン君」
ミルキィからこぼれる吐息に呆れが交じる。
月明かりに照らされる中、森の夜風に迎い入れられながら、バロンが太枝に静かに降り立った。
肩をすくめて姿を現した彼は、ミルキィの横に並び立つ。
「今夜もって、なんか迷惑がられてるんの? オレ」
「べつに」
ミルキィの素っ気ない返答を気にするでもなく、バロンもそこへ腰かけた。
眠る森に虫の子守唄が響く。
「ただ、もの好きだなって思って」
「オレだって、なんでこんなことしてんのかなって思ってるよ」
ささやきが夜にこぼれた。
バロンがちらりとミルキィの横顔を見やる。
彼女はバロンを振り向くでもなく、ただ真っ直ぐに月を見上げていた。
ただ、それだけなのに――時折、ミルキィの姿が陽炎のように揺らいで見えるのは、単なるバロンの気のせいなのだろうか。
「なんかミル姉、気配濃くない?」
「そうかもしんない。私の
「へぇ――」
それ以上の感情も興味もなく、バロンもミルキィと同じように月を見上げた。
そんな彼をミルキィがちらりと見やり、そしてまた月を見る。
その口の端に笑みをのせた。
「やっぱり、バロン君の隣は心地が良いかも」
「なんで?」
「私を知っても、へぇ以上の感情はなさそうだし。それに、最近はよく一緒に夜の月を見上げてるけど、それだけじゃん?」
「まあ、ホントに見てるだけだし」
バロンが片膝を立て、そこに顎を乗せる。
その興味がなさげな、だらけたような空気感が、ミルキィには程よい距離感だった。
己の中に踏み入れようとしてこない。
いつかの夜に思った、夜に灯すキャンドルのような、そっと寄り添うだけ。
「それが私には楽なんだ。人らしく在ろうとか、考えなくていいからさ」
月を見上げていたミルキィの紅の瞳が隣のバロンを見ると、彼の琥珀色の瞳もその瞳を見返した。
夜風が吹き抜け、ぐずるように森の木々がざわめく。
先に口を開いたのはバロンだった。
「……人、やめんの?」
「まだ決めてない。でも、それもありかも、とは思ってる」
ミルキィは投げ出した足をぶらぶらとさせる。
彼女の視線が足元に落ちた。
「……何に拘ってんのか、わかんなくなっちゃった」
「人って括りに?」
「そ」
頷いて顔を上げたミルキィは、バロンににしっと笑顔を向ける。
「だから、深く考えるのがめんどくさくなった感じ」
ミルキィは国の監視下に置かれた存在。
それは人に危害を加えた過去を持つがゆえ。
過去の一件以降、そういった事態にはなってはいないが、それでも、国の監視が続いているということは、つまりそういうことだ。
そんな人物が、人並みの働き口などみつかるはずもなくて。
この先、自分がどうしたいのか。その立ち位置、場所。
それも不透明で不明瞭で――縋るものも、縋りたいものもわからなくて。
端的に言ってしまえば、疲れてしまった。
ミルキィは細く息を吐く。
が。静かな声が、彼女に冷水を浴びせる。
「――つまりは、逃げることにしたわけだ」
ひゅっ、と。気管が狭まった気がした。
のろのろとバロンの顔を見る。
ミルキィの顔から笑顔が消えた。
紅の瞳に光が帯び、夜闇にぼおと不穏な色をまとった瞳が浮かび上がる。
「……逃げるって、私が――?」
低い声は、まるで唸っているようだった。
「だってそうだろ。めんどーだって言って、そんで、こうでいいやって、そんな投げやりみたいなの、考えるのを放棄したってことじゃん。逃げてんじゃん」
バロンは軽く肩をすくめた。
その姿を視界に認めたミルキィの紅の瞳が鋭くなる。
風が怯えたように鋭く鳴く。
「――……」
落ちる吐息。琥珀色の瞳を細め、バロンは立ち上がると同時に飛び退った。
そこに半瞬遅れて爪が一線、振り下ろされる。
斬り裂かれた枝葉がはらはらと下へ落ちていく。
開けた視界。隣の太枝へ跳び移ったバロンが、うわあ、と顔をしかめていた。
「かっかとしすぎだろ。沸点低っ」
煽るようなバロンの言。かっとミルキィの中で熱が弾けた。
ミルキィがバロンを鋭く睨む。
ぐるると聞こえる微かな唸りは獣のそれ。
口元からは伸びた犬歯が覗く。
「なんにも知らないくせに、勝手なこと言わないでよっ!」
「そりゃあ、オレなんも知らないし、勝手なこと言うよ」
ふーふーと息を荒くするミルキィに、バロンはどこまでも冷静な目で彼女を見やる。
「けど、それに突っかかるってことは図星なわけなんでしょ。癇癪起こして喚く
ぴりっと、周囲の空気が痺れた。
眠る森に響いていた虫の子守唄が遠くなる。
ミルキィが牙を剥いて唸り、身を低くして構える姿勢は、まるで獲物を定めた獣のようだ。
バロンがぽつりと言葉をこぼす。
ああ、そうか。と。
「――オレ、ミル姉が掴むその先に興味があるのかも」
放っておけばよかったのに。
それなのに、なにかと目の前の少女に構っていた理由が、なんとなくわかった気がした。
人と精霊。人と人。人と――人ならざるものを継ぐ者。
それぞれの繋がりがあり、その道先も様々で、そのカタチはきっと一つ一つ違う。
突けば揺らぎを見せた彼女も、この先に何かを掴むのだろうか。
笑みを浮かべ、太枝を蹴り上げたミルキィを見つめる。
やはり見ていて飽きないな、と。
バロンが思ったその刹那――突として、森が大きくざわめいた。
バロンは瞬時に小鳥の姿へと転じ、飛びかかって来るミルキィの隙を掻い潜る。
そして、森がざわついた方向を直ぐ様振り返って息を呑んだ。
一方のミルキィも異変は感じ取っていた。
毛穴が逆立つような感覚。すぐに振り返って、同じく息を呑んだ。
「……なに、あれ」
呆然とした呟きがミルキィの口からこぼれる。
視線の先に、森から飛び立つ光の粒の姿が幾つもあった。
まるで何かから逃げるように飛び立ち、逃げ惑っている。
怒の色で染まっていた思考が急速に冷え、常の調子を取り戻し始める。
ミルキィはバロンを振り向いた。
「……ねえ、バロン君。あの森から飛び立ってる光って――」
「そうだよっ! 精霊、下位精霊っ!」
余裕を失った声。
先程まで人に挑発まがいなことをしていたとは思えないくらいに、その声は焦りを滲ませていた。
風が強く吹き付け――その風が落とした声に、バロンの琥珀色の瞳が見開かれる。
「くそっ!」
吐き捨てると、彼は下位精霊らが飛び立つ方へと飛び去って行ってしまう。
「あっ、ちょっと! バロン君っ!」
咄嗟に静止の声をかけるも、バロンはそれを振り払う。
焦りに染まった彼の横顔がちらりと見えた。
何が起こったのか。何が起こっているのか。
そんなことを考えている間にも、バロンの後ろ姿が遠ざかっていく。
「考えるのはあとだ」
ミルキィは太枝を勢いよく蹴りつけると、枝から枝へと跳び移りながら夜の森を駆け始めた。
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