閑話 月夜に訪れる者
予感めいた何かを感じたヒョオが足を止めたのは、ちょうど自室に戻ろうと宿舎の廊下を歩いている時だった。
廊下の窓から差し込む橙の光。空は夕暮れに染まっていた。
予感。誰かに呼ばれている感覚。
足を止めたのは、宿舎の共用給湯室前。
舎に部屋を持つ者が使う場ではあるが、この舎にはルカとヒョオしか居ないゆえに、ほぼ専用給湯室となっている。
ヒョオが静かに足を踏み出し、シンク前に立ったところで足を止めた。
「我を呼ぶのは、もしや……」
手を伸ばして蛇口をひねれば――どゅるんっ、と。水と共に流れ出た、それ。
朱色をしたそれは、受け止める間もなくシンクに打ち付けられた。そして、衝撃で伸びたようで目を回す。
だらりと尾ひれを広げ、透き通るその尾ひれが、シンクの銀色を透かしていた。
打ち付けられて伸びていたそれは、やがて息を吹き返すと、途端にびたんびたんとシンク上で跳ね始める。
「ヒ、ヒョオ殿。せめて、コップか何かで受け止めてくれてもよいではありませんかっ」
びたんっびたんっ。活き良く跳ねるそれが不満を口にする。
ヒョオは無言でシンク横の水切りに伏せられていたコップを持ち、もう一度蛇口をひねって水を少しばかり溜めると、今度は雑な手付きでそれを掴んだ。だが。
「――なっ!
びちびちびちびち。今度は掴んだそれ――朱色の金魚が、ヒョオに掴まれたままの状態で暴れる始める。
それに不機嫌そうに眉を寄せ、ヒョオが小さく嘆息する。
「暴れるでない、アケよ。そもそも、蛇口から流れ出てくるのはある種のホラーぞ」
水を溜めたコップに雑に離してやると、アケと呼ばれた金魚は、ほっとした様子で自身の尾ひれを確かめていた。
そして、アケは水面から顔を出すと、仕方ないではないかと息をもらす。
「この辺りの水場はここにしかないのですから、仕方がないではありませんか。……あっ、まさかっ! この
末恐ろしいとばかりに、朱色の金魚が青ざめて見えた。
それに口の端を僅かに上げて笑ったヒョオは、意地悪げに言葉を紡ぐ。
「食堂や洗濯機という選択肢もあるゆえ?」
「
衝撃を受けたアケは、両の胸びれをえらにあて、ぱくぱくと口を動かしている。
その様が可笑しく、ヒョオはくつくつと喉奥で小さく笑った。
「冗談ゆえ――」
「
ヒョオの声に、アケの絶叫が重なった。
*
空の色が、暮れの色から夜の藍の色へと移り変わり始める。
自室へアケ入りコップを手にして戻ったヒョオは、机上にそれを置いた。
部屋は薄暗くなり始めたままだ。
精霊ゆえなのかは知らないが、ヒョオは現代に浸透する人工的な光はあまり好まなかった。
だから、表向きはアンティーク好きだからと言って、ヒョオは自室に昔ながらの証明を置いている。
油を差して灯す壁付ランプだ。だが、火の精霊である彼には、宙空に含まれる火の気を繰るだけで十分だった。
手を微かに動かすだけで微細なマナが震え、ランプに火を灯す。
揺れる光源が部屋を照らした。
アケが水面から顔を出す。
「――して、アケよ。お主、何用で参った?」
ヒョオが彼女を振り返った。
すると彼女は、目を丸くし、ややしてから胸びれをぽんっと合わせた。
あっ、と声がこぼれ、誤魔化すように笑う。
その顔は、今の今まで忘れていたと言わんばかり。
ヒョオは大仰にため息をついて見せる。
「……アケよ」
「し、仕方ないではありませんかっ! ヒョオ殿が
抗議の意でアケがコップの中で跳ねた。
水音が暮れと夜の狭間に染まる室内に響く。
そして彼女は気を取り直すと、今度は大きくコップから跳び上がる。
コップよりも高く跳び、そのまま自然の法則に則って落ちるはずが――。
「そのような芸当が出来るのならば、蛇口から流れ出なくとも――」
「これはひどく疲れるのです。長距離の移動には向いておりません」
アケは宙空にその身を留めていた。
彼女のひれは長く伸び、景色を透かす。
胸びれを動かせば、水の中を泳ぐが如くの感触が伝わる。
すいっと宙空を泳ぐ。水流の代わりに風が小さく起こり、彼女の尾ひれをたなびかせた。
きらめく何かがひれから漏れ出て見えるのは、彼女が繰るマナのきらめきか。
アケを見つめながら、ヒョオが不思議そうに呟く。
「お主は、水の性質を持つ自然霊ではなかったか?」
「ええ。
ヒョオの目線まで泳ぎ、アケは恭しく頭を垂れる。
「そこへ名を賜り、この姿を得ました」
「では、
ヒョオはそこが解せなかった。
精霊も自然霊も、司れる性質はひとつだけ。なのに、アケは水の自然霊でありながら、風を僅かながらにも扱ってみせた。
宙空を泳ぐなど、周辺の空気を支配下に置いていなければ出来ぬ芸当。
「それは……」
アケの目が泳ぐ。
何か口にしにくい事情があるのか。
ヒョオの眼差しが鋭くなる。
「――アケよ。もしや理に触れることゆえか?」
「い、いいえっ! 違いますっ!」
「では、なにゆえ言いよどむ?」
「そ、それは……」
「それは――?」
ヒョオの視線が鋭くアケに突き刺さる。
金魚なのに、アケからは止め処無い汗がしたたるよう。
しばらく視線をあちらこちらへ泳がせていたアケも、やがて観念したように息をついた。
「
「……シルフ様から?」
「はい。その……シシィ様は、
「なるほどな。その名付けの影響で、風の性質を帯びるに至ったか」
ようやく得心したと頷くヒョオに、アケは申し訳なさそうに顔を伏せる。
「……にしても、金魚でキンか。シシィ殿らしいといえば、らしいセンスなのだがな」
名付けなのだ。もう少し慎重にすべきではないか。
しばらく会っていないシシィの姿を思い描きながら、ヒョオは静かに苦笑した。
「む。待て、アケよ。まさかお主、先触れで参ったのか?」
部屋はすっかり夜の気配に塗り替わり、カーテンの隙間からは月が覗く。
その月は丸く、今宵は満月だった。
窓から差し込む月明かりにひれを透かしながら、アケは優雅に泳ぐ。
「はい。長話が過ぎましたこと、お詫びいたします」
アケから漏れ出るきらめきが軌跡となり、宙空に円を描く。
ややして、その中心から風が巻き起こった。
部屋のカーテンが大きく煽られ、ヒョオは顔を反らして目を細める。
けれども、視線はその中心を見据えたままだ。
「――おいでになられます」
アケの声に呼応したように、かつ、と。ひとつの靴音が部屋に響いた。
ヒョオが瞬きをしたその瞬で、緩く編まれた白の髪を揺らしながら、一人の女性が降り立つ。
髪を束ねる碧色の髪紐が、その髪に映えていた。
背に流された髪がふわりと弾み、顔を上げた際に、左側に流された前髪で隠された目がちらりと覗く。
その左目には縦一文字の傷痕。けれども、すぐに前髪で隠れる。
彼女の琥珀色の瞳がヒョオを据えた。
「ヒョオ殿、お久しぶりです」
ふわりと笑みを浮かべる女性に、ヒョオもまた笑い返す。
「ええ、シルフ様もお元気そうで」
シルフと呼ばれたその女性は笑みを深めた。
そして彼女は後方を振り返る。
宙へ向かって手を差し伸べると、アケがそこへ向かって泳ぐ。
アケが何かを示し合わせるように、軌跡のきらめきで円を描く。
すると、シルフが差し伸べた手を取るながら、気配が舞い降りる。
顕現したのは男性。肩あたりの長さで束ねられた白の髪が、琥珀色の髪紐と共に揺れた。
アケが疲労の色を滲ませながら、コップへと戻って行く。
その後ろから追いかける二人のありがとうの声に、アケは尾ひれを揺らして応えた。
「ティアもありがとう」
「べつに大したことないわ。導く手間より、迷子になったシシィを探す方が手間よ」
仲睦まじげに手を取り合う様は微笑ましげだ。そう、微笑ましい。
だが、と。ヒョオはわざとらしく咳払いをした。
二人は慌てて手を離し、居住まいを正す。
「お主らも変わらぬ仲のようだが、シシィ殿の転移迷子も変わらずのようだな」
苦笑するヒョオに、シルフは曖昧に笑って見せる。
彼が転移先を導いてやらないと迷子になるのは事実だ。
対してシシィと呼ばれた男性は、ちょっと決まりが悪そうに複雑な顔をする。
「僕はもう、とっくの昔に諦めました」
はあ、と。息が落ちる勢いで失速する。
「……今の悩みは、僕の転移迷子が娘にも似ちゃったことだよね」
それには、ヒョオもシルフも苦笑いするしかなかった。
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