1-8.曖昧な境界


 ミルキィはルカの部屋に戻るべく、廊下を歩いていた。

 時折すれ違うのは食堂へと向かう団員ら。

 ダンストン達との話が長引いていたようだ。

 なるべくなら、あまり人とは会いたくはない。

 また団員らとすれ違う。

 互いに軽く会釈してすれ違う。たったそれだけだが、ミルキィの耳は律儀にも囁やき声を拾う。


「今月もあの子が来る時期になったんだね」


「あの子って、小さい頃から居るって話だよね?」


「そうそう。でも、もうすっかり大きくなってるよね」


「いつまでここに来るんだろう」


「それより、ただ居るだけなのかな。好きに過ごしてるって噂だよ。でも、ご飯はお世話になってるみたい」


「もう、大人になるのにね」


「タダ飯食らいって感じ――」


 そこで、ミルキィは耳を閉ざした。

 金の瞳が仄暗くあかの色を帯び始め、翳が落ちる。

 己がただ恩恵にあずかっているだけなのは知っている。

 知っているからこそ――気に入らない。

 ぎりっと噛み締めた歯から、伸びた犬歯が覗いた。

 歩き進む廊下の窓からは、夜の気配が空に伸び始めている。

 ミルキィが強く惹かれる時間帯の始まりだ。


「私がタダ飯食らい――?」


 そんなのは知っている。


「大人だ?」


 そんなのも知っている。

 けれども、事情も知らないままに囁き合う。それも、ミルキィの見える範囲で囁く。

 それが何もかも――。


「――気に入らない」


 ちらりと振り返る。

 先程すれ違った団員らが、楽しそうにくすくすと笑い合っている。

 ミルキィの話で盛りあがっているのか、それとも既に別の話題に移っているのか。

 だが、そんなのは些事だ。

 気に入らない――それだけわかっていればいい。

 ミルキィの指の爪が、鋭く伸びる。それは獣の如く。

 ルカの部屋に向かっていた足が止まり、踵を返す。

 一歩、二歩――足がもと来た道を戻っていく。

 なのに。何歩目かの足を踏み出したとき、唐突に脳裏を駆け抜けた。

 横に走った赤の軌跡。爪に残る肉を裂いた感触。恐怖に染まった己に向けられる瞳。

 紅の瞳が急速に熱を失い、常の色である金の色に戻る。

 手にした布包からずっしりと重さを感じた。

 それはまるで、存在を主張しているかのようで。

 ダンストンやオリヴィアらの顔を思い出した。


「……あのぬくもりは失いたくないでしょ、ミルキィ」


 己に言い聞かせるように呟き、ミルキィは身体の向きを変える。

 もう、あの団員らの姿は廊下の向こうへと消えていた。

 そして、今度こそ彼女の足はルカの部屋へと向かった。




   *




 ルカの部屋に入るなり、手にしていた布包はソファ前のデーブルに置き、ミルキィはそのままルカのベッドへ顔から倒れ込んだ。

 ルカの匂いを吸い込み、自身を鎮める。

 己の中で牙を剥こうとしていた何かが、すうと引いていくのを自覚した。

 ごろりと寝返り、天井を向く。

 暮れの橙がカーテンの間から差し込む。

 覗く空は、橙を押しやる藍の空。

 そこから見えた夕月は既に夜の顔をまとっていた。

 形は満月に近い。あと数日で満月だ。

 ミルキィの口が嬉しそうに笑い、しかし、瞬きのひとつの間で引き締まる。

 目元を腕で覆い、細い息を吐出した。


「……人としての常識が、あやふやになってる」


 参ったなとばかりに息をつく。

 ミルキィの中を占めた先程の感情は――気に入らない、それただ一つ。

 気に入らないから、感情のままに片付けようと思った。

 そしてまた、それを踏み止まらせたのは、あのぬくもりを失いたくなかったから。

 ミルキィの口が皮肉げに歪む。

 そこに、人を害しては駄目だからとか、人としての道理に外れるから、なんて考えはなかった。


「――とくに今は、その境界が曖昧になりやすい時期だ」


 だが、そこでふとミルキィの中で疑問が生じた。

 目元を覆うっていた腕を退かし、天井を見やる。


「私って、何にそんなに拘ってるんだっけ――?」


 人でありながら、人ならざる血を継いだ者――それがミルキィだ。

 ミルキィはミルキィでしかない。それが己で解っていればいい。

 あとは自分が大切にしたいと思うものが、自分で抱えられる分だけあればいい――ならそこに、“人”という括りに拘る理由があるのだろうか。


「いや、ない気がする」


 ごろりと横に転がる。

 ベッドに染み付いたルカの匂いがふわりと広がった。

 この匂いは好きだ。けれども、彼はこの場にいない。身体を丸める。

 視界の端。テーブルに置いた包みが目についた。


「ダンストンさん達は、“私”を知ったら離れてくのかな。……それはちょっと寂しいとは思うけど――」


 夜が空に伸び、部屋にも夜の気配が忍び寄る。


「それでも、手放せるものかもって思っちゃった」


 淡々とした口調。そこに感情の揺れはない。

 忍び寄る夜の気配に触され、ミルキィの金の瞳に紅が混ざり始める。

 薄暗くなり始めた部屋に、不気味に光をまとう。


「……だって、私ってさ。人でありながら、人を傷つける危険性をはらんだ生物って感じの認定、昔受けちゃってるから、たぶん、人並みな就職口ないと思うし」


 そんな認定を国からくだされているから、こうしてこんな時期になると、監視下に置くためにここに居ることになっているのだ。

 別に、憐れに思われてここに置いてもらっているわけではない。


「……私は大人。たぶん、普通は何かと働いてる年代ではあるのかな」


 焦りがないわけでもない。

 けれども、その普通にはなれない。

 紅の瞳が細められる。そこに感情の色はない。


「人の世って、息苦しいだけだ――」


 ミルキィは喘ぐようにして息をつく。

 空は夜に染まり、星が瞬き始めていた。

 なんとなく、枕元に放り投げていたスマートフォンを手に取る。

 何かを期待していたのか、画面を表示させた。

 けれども、そこに何かを報せる通知はなかった。

 静かに息をつき、画面を消したスマートフォンを枕元に投げる。


「……ほら、お母さんからの連絡もないし」


 迷惑かけてない――?

 そんな連絡一つすらない。

 やっぱり居場所なんかない。隣に居てくれる人なんて、ない。




   ◇   ◆   ◇




「んじゃ、オレは行くな」


 そう言って、バロンはプリュイに背を向ける。

 空に星が瞬く夜。“外”へ行こうとするバロンを見送るかのように、夜風が精霊界に吹き抜けた。

 そんな兄の背に向かって、今夜もしっかりと置いて行かれるプリュイは叫んだ。


「――あにうえの、おたんこなすぅーっ!!」


 プリュイが知る限りの相手を罵る言葉。

 でも、たぶん、この場面で口にするには意味合いが違っている気がする。

 そしてまた、バロンが気にした様子もなく、軽く片手を上げてひらめかすだけだったのが腹立たしかった。




 一度目は、子狼の可愛さを全面に発揮した、うるうる瞳の上目遣いで兄に訴えてみた――ふんっと、興味なさげに鼻を小さく鳴らされただけだった。

 二度目は駄々っ子を演出してその場で泣き喚いてみた――冷めた目で見下みおろされ、無言で首根っこを掴まれてスイレンの方へ投げられた。

 三度目は兄の服を咥えて実力行使に出てみた――圧倒的な力量差に敗北した。

 そして、四度目がおたんこなす。

 可愛い妹からいきなり罵られれば、さすがの兄も動じずにはいられず、ショックを受けて崩折れるだろうと思った。

 なのに、動じるどころかノーダメージだ。腹立たしいったらない。

 あまりの悔しさに飛び出た爪が地に線を引いた。


「ぷりゅ、しってるもんね。あにうえがなんにちもずっと、よるにみるとおはなししてるの。それもたくさんっ!」


 自分だって、ミルキィとたくさんお話したいのに。

 それなのに兄は、プリュイは留守番だと言って、スイレンの元に残していくのだ。

 兄だけずるい。ずるいずるい。

 だが、兄がそのつもりならば、プリュイだって――。


「――ぷりゅだって、かんがえあるもんっ」


 転移して既にいなくなった兄を思い浮かべながら、プリュイはほくそ笑んだ。

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