1-7.感ずるぬくもり
ミルキィが目を覚ましたとき、室内は窓から透ける薄い橙の色に染まっていた。
日は暮れ始め、時刻は夕刻。
今のミルキィにとってはそろそろ起き始める頃。起床時だ。
ふわあ、あくびをもらして伸びをする。
夜明け前に微睡み始めたまま、ソファで寝入ってしまっていたらしい。
まだとろつく目で部屋を眺める。
机には昨夜のシチュー皿が残っていた。
あ、お皿を返しに行かなきゃ。
軽く皿洗いは済ませてあるが、皿は食堂のもの。
ミルキィにとっては朝食感覚になる夕食も取りに行かなければ。
部屋にはもう、プリュイもバロンの姿もなかった。
「……行ってこよ」
なんとなく寂しさをまといながら、ミルキィはソファから立ち上がってもう一度伸びをした。
部屋を出る支度をしよう。
丈のあるアウターを羽織って尾を隠す。
けれども、フードは被らなかった。
髪は後頭部で結ってまとめ、バンダナをカチューシャのように結んだ。これで耳を隠した。
このスタイルは、ヒョオの昔の知り合いの女の子がしていたスタイルだとか。
彼女もまた、ミルキィと同じ体質だったと聞いた。
フードを深く被るよりも視界が広くなる。以来、ミルキィの気に入りのスタイルの一つになった。
皿を盆に乗せ、部屋を出る。
宿舎の廊下を歩き、渡り廊下を抜ける。
ミルキィが向かう先は生活舎。
シャワールームやランドリースペースも過ぎた頃、廊下にもわいわいとした声が聞こえてきた。声は食堂の方からだ。
廊下から窺うように覗き込むと、早めの夕食にありつこうと集まって来たらしい数人がちらほら。
その数人が見知った顔だと確認すると、ミルキィは食堂へと足を踏み入れる。
そのまま返却口に盆と皿を返し、返却口の向こうにある厨房へ声をかけた。
「おばさん、ありがと。美味しかった」
そう言うと厨房の奥から、あいよ、と人好きなおばさんの声がした。
「今日はタッパーに詰めてあげるからね。そっちの方で待ってな」
厨房のおばさんらしく三角巾を頭に巻いた彼女は、気のいい笑顔を浮かべ、顎をしゃくってミルキィの後方を示す。
ミルキィが促されるように振り向くと、食堂の長机に陣取るお兄さんらが笑って手を振っていた。
彼女が近寄れば、ここに座れと席を譲ってくれる。
「嬢ちゃん、ここに座んな」
ミルキィが少しだけ迷っていると、ばんばんと席を叩いて促す。主張が強い。
こっそりと諦めの嘆息をもらし、ミルキィはちょんっと席の端に座った。
なのに。
「いつも言ってるがな、遠慮するこたぁないさ」
席を譲ってくれたお兄さん――と、本人は言うが、ミルキィからすれば昔からおじさんにしか見えない――が、徐ろに立ち上がる。
なんだとなんだとミルキィが身構えていると、彼女の後ろに立ったお兄さんが、あろうことか彼女の脇に手を差し入れた。
そして、そのまま持ち上げられる。
突としての腰が浮いた感覚に、ミルキィは驚きで金の瞳を丸くした。
持ち上げられ、すとんと降ろされる。否、座り直された。
席にはまだ、先程まで座っていたお兄さんの生温かいぬくもりが残っている。
自分のものではぬくもりに言い知れぬ妙な心地を覚え、言葉に出来ぬミルキィの気持ちを代弁するかのように、アウターの中では尾が垂れてゆっくりと振れた。
ミルキィの顔では表情が凪いでいる。
立ち消えた彼女の表情に、周囲のお兄さんらが苦笑を浮かべた。
彼らはミルキィを持ち上げた自称お兄さんより若い。
「ダンストンさん、それ、セクハラとか言われるやつっすよ」
「そうですよ。女の子に触れるときは断りをいれてからじゃないと」
「おれは嬢ちゃんが小さい頃からの知り合いだ。構わねぇさ。な? 嬢ちゃん」
ダンストンと呼ばれた彼は、がははと豪快に笑ったあと、ミルキィの頭を撫でようと手を伸ば――したが、それは遠慮ない勢いで彼女自身に弾かれた。
周囲のお兄さんらが、それ見たことかとダンストンを見やる。
それでもダンストンは、がははと豪快に笑う。
「照れるこたぁないだろ、嬢ちゃん」
「照れてないし、頭は撫でないでって前から言ってるし」
ミルキィは仏頂面で答えた。
彼女にとって、頭を撫でられるという行為は堪ったものではない。
頭に結んだバンダナが解けてしまったら、ずれてしまったら。もしそうならなくとも、触れた感触で気付かれてしまったら。
そう思うだけで、どくん、と鼓動が嫌な感じに跳ねた気がした。
確かにダンストンは、小さい頃から何かと気にかけてくれている人だ。
周囲にいるお兄さん達だって、ミルキィの姿を見かけると声をかけてくれる。
それはミルキィだって嬉しいと感じるし、実際に彼らは優しい人達なのだと思う。
それでも、彼らはミルキィの“事情”を知らない。
表向きの事情――周期的に夜に眠れなくなってしまう体質、そう思っているのだ。
それは間違っていないし、嘘でもない。ただ、本質を伏せているだけ。
ミルキィの人ならざる血筋に起因し、さらに発現してしまった血ゆえに訪れる周期的な活性期。
それが、ミルキィの見目の変化。人ならざる耳だったり、尾だったり、瞳の変化だったり。
そして、ミルキィは知ってしまった。
無条件に信じていた相手から向けらた、あの瞳の衝撃を。
あの瞳に宿っていたのは、戸惑いと怯えと――少しばかりの忌避。
膝上に置いた手をぐっと握り込んだ。
「ほらぁ、ダンストンさん。ミルちゃん、俯いちゃったじゃないっすか」
周囲の声に意識が現実に引き戻され、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
が。
「なんだよ、嬢ちゃん。そんなに嫌だったか? そんなんじゃ、ダンさん傷ついちゃう」
続くダンストンの言葉に、ミルキィは反射的に冷めた目を向けた。
ある意味、蔑むともいう。
顎に無精髭のあるおっさん――ミルキィ主観で――が、目を潤ませて伏し目がちにミルキィを見やっている。
思わず出かかった、キモい、の言葉は飲み込んだ。
人を傷つける言葉は軽々しく口にしてはいけない。
ミルキィは自分で自分自身を褒めた。
けれども。
「――あんた、何してんだい。いい歳してやめな、キモいったらありゃしない」
後ろからした声が、遠慮なくその言葉を言ってしまう。
この声はおばさんのものだ。
ミルキィは驚くことなく振り返る。
足音は布越しでもきちんと耳が拾っていた。
「なんだと、オリヴィア。それはさすがのおれも傷つくぜ」
ダンストンの顔が一気に面白くなさそうにむくれる。
彼はその顔のまま、テーブルに肘を付いて手に頬を乗せた。
その崩れた態度が、オリヴィアと呼ばれた彼女に対して親しげでいて、そこに子供っぽさをはらんだ甘えもある気がした。
「そんなことは、あたしの知ったこっちゃないよ。それに、ホントのことじゃないかい。ねぇ、みんな?」
「……そっすね。あれはさすがにと言うべき……」
「正直、引きますね」
オリヴィアが周囲に目を向けると、お兄さんらもそれぞれ苦笑をもらす。
中には物理的に距離を離す者もいた。
「……うわぁ、お前ら」
それを見たダンストンが手の甲で目元を拭い始める。
流れてもいない涙を拭っているようだ。
そして、おいおいと泣き真似をしながら呻く。
「こうなったらお前ら、飯の後の森巡回付き合えよ」
ちらっとダンストンが目の前に座るお兄さんに目を向ける。
ちなみに、その目元にやはり光る涙はなかった。
ダンストンに視線を向けられたお兄さんは、顔をしかめて不機嫌さを隠す様子もない。
「今夜の巡回、ダンストンさんが割り振られたやつっすよね。てか、なんで巡回増えてんっすかー? 今夜の巡回は、そもそも俺らの班は組まれてなかったすよね」
テーブルに肘を付いて顎を乗せ、仏頂面で口を尖らす。
そんな彼を落ち着かせたのは、隣に座るお兄さんだった。
「聞いてなかったの? ルカ君が今は王都へ出張してる関係で、シフトが少し変動してたじゃないか」
「へ? でも、ルカのとこってヒョオさんも居るじゃんか。なんで……」
「ヒョオさんはもういい歳だし、今は一線引いて補助業務が主だしね」
だから、巡回業務からは外れているのだと彼は言う。
「ヒョオさんってさ、結構ここの勤続年数長いよなぁ」
「そういえば、そうだね。ねえ、ダンストンさん、実際どうなんです?」
「うん?」
話を向けられたダンストンは、ぐすっとわざとらしく鼻を鳴らし、彼らを見やる。
横で聞くミルキィとオリヴィアは、呆れた目でダンストンを見つめていた。
「ヒョオ爺なぁ……」
ダンストンが顎をさする。
「あの人はおれが若い頃から居たけど、その頃から一線はもう引いてたぞ?」
なあ、とオリヴィアを見やる。
彼女もまた記憶を手繰るような仕草をしてから、ダンストンの言葉に頷いた。
「そうだねぇ……そう言われると、あの人って
――ねぇ?
と。その場にいる皆が首を傾げる。
だが、ミルキィはその場に合わせながら、胸中で感心していた。
ヒョオは精霊である。しかし彼は、自身が精霊である、と言って回っているわけではない。
けれども、隠しているわけでもない。
彼はただ、自身の周囲の魔を
認識阻害。
時に姿を隠し、時に存在を曖昧に薄くさせる。
ヒョオはそれの扱いが巧いのだ。
自身としてはその場に存在しつつも、けれども印象を薄くする。
だから、彼がいつからここに勤めているのか、誰も知らない。
その上、ダンストンを始めとした彼らは、ヒョオが精霊であることすら知らない。
ミルキィだって、ヒョオがどのくらい前から――昔から、この地を見守っているのかすら知らないのだから。
「――さあ、話はここまで」
各々で思考に沈んでいた皆を呼び戻したのは、オリヴィアの声だった。
皆の注目を集めた彼女は、先ずはダンストン達に目を向ける。
「ほら、配膳の準備が出来たようだよ。そろそろ団員の連中も来る頃合いだし、大盛りにするならさっさと行ってきな」
ここの食堂はバイキング形式。
もちろん、定食なども頼める。
ダンストン達の腰が浮く。
お兄さんらが勢い込んで動き出し、ダンストンもその後に続こうとしたが、オリヴィアに襟首を掴まてしまう。
ダンストンはぐえっと声をもらし、非難めいた視線を彼女に向ける。
「なんだよ、オリヴィア」
「あんたは野菜も食うんだよ」
「あ? 何を食おうがおれの好きに――」
「食うんだよ……?」
オリヴィアがにこりと笑う。
ダンストンはなぜか顔を青くし、静かにこくりと頷いた。
彼女から開放されたダンストンは、とぼとぼとした足取りで、料理が盛られ並べられたスペースへと向かって行く。
ミルキィが呆気にとられてダンストンの背を見つめていると、オリヴィアが朗らかに笑った。
「あの人は放っておくと肉しか食わないからねぇ」
「そうなんだ……」
「そうなんだよ――と、ミルちゃんにはこっちだよ」
そう言うと、オリヴィアは布包みをミルキィの前に差し出す。
ミルキィは反射的に手を出すと、そこにぽんと置かれた。
感触からタッパー。手にはずしりと重みを感じる。
「たくさん詰めて置いたからねぇ。しっかりとお食べよ」
人好きな笑みを浮かべるオリヴィアに、ミルキィも自然と頬が緩み、淡く笑みを浮かべた。
「……うん。ありがと」
手に感ずるタッパーの重みが、オリヴィアの気遣いそのものの重みな気がして、じんわりとぬくもりが沁みるようだった。
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