1-5.少女と精霊の兄妹
安心できる匂いに身を包まれ、いつの間にか微睡んでいたらしい――と、ミルキィは目が覚めてから気が付く。
肌触りのいい掛布に
吐息がもれる。ほお、ともれた吐息に絡む気配で、夜が濃いことを知る。
部屋に明かりは点いていなかった。
身を起こすと、肩から掛布が落ちる。
衣擦れの音が夜で静まった部屋に響く。
ミルキィの獣の耳が音を拾って動いた。
隣室が賑やかい。
「――……」
寝起きの乱れた髪のまま、しばし、ぼおと虚空を見つめた。
頭は妙に冴えていて、心は夜の静けさに溶けてしまったかのように落ち着いている。
夜はミルキィに流れる人ならざる血が目を覚ます。
常は金の色をする瞳が
部屋にミルキィ以外の姿はなかった。
細く吐いた息は安堵か、心細さか。
ふいに獣の耳がくいと動く。隣室の扉が開く音を拾った。
足音が廊下を歩き、ミルキィの居る部屋の前で止まる。
常ならば誰だろうかと、少なからず緊張するような場面なのに、今は不思議と心に揺らぎがなかった。
扉の軋む音と共に、夜の静けさに満ちる部屋へ廊下の明かりが細く入り込む。
ふわりの舞った幾ばくかの埃がきらめいた。
そして、その隙間から覗く見慣れた顔に、やはりか、とミルキィは表情の変わらぬ顔で息をつく。
「起きる音がしたゆえな。腹は空いておらぬか?」
そう言って部屋に入って来たヒョオの手には、皿の乗った盆があった。
「……ヒョオさんって、耳いいんだね」
「む? ああ、我は蛇ゆえな。音には敏感だ」
ソファ前のテーブルに皿を並べながら答えるヒョオを見て、ミルキィはそういえばと思い出す。
彼は蛇の姿を持つ精霊だったなと。蛇は地を這うためか、音には敏感らしい。
ヒョオは普段から人の姿に転じている。それがあまりに自然だから、彼が精霊であると、ミルキィはいつも忘れそうになる。
「それで、ミルキィ殿。腹は空いておらなぬか?」
ヒョオに問われ、ミルキィは自身の腹に手を添えた。腹は――と、意識を向けた途端に、くぅぅ、と小さく鳴った。
ヒョオは小さく目を丸くし、ミルキィは口を尖らせる。
「…………お腹、空いてる」
「のようだな」
苦笑をもらすヒョオに、ミルキィは僅かに口をへの字にした。
ヒョオが部屋の電気を付けると、夜に慣れたミルキィの視界が一瞬灼ける。
思わず目をつむり、それがもう一度開かれた頃には、彼女の瞳は常の金の色に戻っていた。
のそのそとベッドから抜け出し、乱れたままだった髪を手ぐしで軽く整える。
「ヒョオさんの部屋にお客さんでもいるの? なんか賑やかいなって思って」
「プリュイが来ておる。主に会いたかったらしいゆえな。バロンはその付き添いだ」
「え、プリュちゃんが?」
ソファに座ったミルキィが目を丸くする。
夜のように落ち着いていた心が、ほんのり動く。
「……そっか。それは悪いことしたかも」
申し訳なさに眉を下げながら、ミルキィはテーブルへ視線を向ける。
テーブルに並べられた皿は、ことことと煮込んだであろうシチューだった。
けれども、そこから湯気は昇っていない。
ごろごろとした野菜は柔らかそうでも、既に冷めてしまっていては固いだけだ。
ほんのり動いた心が、再び夜に浸ろうとする。
「それゆえ、主を待つと我の部屋に入り浸っておるぞ」
「……あ、それで賑やかいわけだ。って、待って。まだ待ってくれてんの?」
ミルキィの視線が上がる。
ヒョオは面倒そうに肩をすくめていた。
「煩くて敵わん。呼んでくるゆえ、待っておれ」
踵を返す中で、ヒョオはテーブルに手を向ける。
すると、手から不可視の何かが迸る。
確かな熱を持って温められたのは、テーブルに並べられたシチューと茶。
立ちどころに湯気が昇る。
「茶は我の淹れたものだが、シチューは食堂から預かったものだ。明日にでも礼を言っておくと良い」
「……さすが火の精霊。電子レンジ要らず」
熱の作用は火の精霊が得意とするところ。
感心半ばにミルキィが思わず呟けば。
「電化製品と一緒にするでない」
のぼやきと共に、ヒョオが廊下の方へと消えていった。
それからすぐに、隣室の扉が開かれた音がする。
プリュイが来るのもすぐだろう。
「でも、先にごはん」
くぅぅ、と。ミルキィの腹がまた小さく鳴いた。
*
頃合いを見計らっていたのか、ミルキィが食べ終わった頃にノックは聞こえた。
「ミル
「いいよ」
応えると、プリュイを腕に抱いたバロンが入ってくる。
そして、ソファに座るミルキィを一目見て、バロンは立ち止まった。
その視線は一点を、ミルキィの獣の耳に向けられている。
彼の琥珀色の瞳に滲む感情の色は窺えないが、興味で揺れているのはわかった。それは関心か――拒絶か。
ミルキィに苦笑が浮かぶ。
少しだけ仄暗い気持ちが心に落ち、口の端が嫌な形で僅かに持ち上がる。
「そういえば、バロンくんは初めてだったかもね。私のこれ」
これ、とミルキィが言うと、彼女の片耳が示すようにくいと動いた。
「そうかも。オレ、シルフの遣いで報告持って報告持ち帰るだけが多いから、あんまここには長居しないし」
そう言いながら、バロンは後手に扉を閉める。
バロンの母であるシルフは、その名の下に土地を守護する役目を持っている。
その土地に暮らす精霊に問題が生じていないか、つつがなく暮らせているのか、人と共有することもその一つ。
そしてまた、シルフの守護する地において、人側にも問題が起きていないのかを把握することも大切な役目である。
それらを定期連絡で情報を共有するため、バロンは精霊側の情報を持って行き、人側の情報を持って帰ることを役目としているのだ。
だから、ミルキィの事情は何となくは知っていながら、実際の形で目にするのは初めてだった。けれども――。
「――」
落ちた息はどちらのものか。
バロンは遠慮することなく、ずかずかとミルキィのへと歩み寄る。
ミルキィの両の耳がぴんと立つ。金の瞳はじいとバロンを見やり、そこに滲むのは警戒の色。
だが、バロンは構わずにミルキィの隣にどかりと座った。
ミルキィは口を堅く引き結び、身も固くする。
琥珀色の瞳がそんなミルキィを見た。
彼女は警戒強まる瞳で、その琥珀色を見返す。否、睨む。
さあ、バロンは何を口にするのか。
この獣の耳について触れるのだろう。彼は興味を持ったはずなのだから。
人は己らと違うものに、いい意味でも悪い意味でも興味を示すもの。そして、異質だとわかるとすぐに拒絶を示す。あるいは、憐れみを。
「……――」
幾分の沈黙。その間にミルキィはバロンの反応を待った。
彼の腕に抱えられた子狼は、その腕から逃れようと暴れている――のだが。
「――っ、あにうえのばかっ……!」
突として、子狼がソファから転がり落ちた。
転がり落ちながらも、きちんとばかと罵りながら落ちるプリュイを、反射的にミルキィが受け留める。
手に感じる温かさと重さに、ほっと浅く息をついてプリュイを膝に乗せた。
受け留められたプリュイは、ひんひんと鳴きながら、ミルキィの腹の方へ鼻先を押し付けて埋める。
ひんひんと泣く声は、どこかわざとらしく聞こえる気がした。
こわかったよ、の声はちっとも怖くはなさそうで、ミルキィはそれでも彼女の背を優しく撫でた。
「白々しい声だな、おい」
ミルキィの視線が横へ行く。
そこには少年の姿はなく、淡い黄に身を包む小鳥がいた。
小脇に抱えられるぬいぐるみ程の大きさ――それを小鳥と呼んでいいのかは、個人の感覚によって変わりそうだが。
バロンが瞬きひとつの間で姿を転じさせたから、彼に抱えられていたプリュイが転がり落ちたのだ。
小鳥が眠たげに琥珀色の瞳を瞬かせる。
「オレ、寝るわ。ミル姉にプリュまかせる」
金の瞳をぱちくりさせるミルキィの返答を待つことなく、小鳥はプリュイが占領する彼女の膝上に跳び乗る。
ひんひん鳴いていたプリュイは当然の如く押し退けられるも、今度は踏ん張って落とされはしなかった。
けれども、碧の瞳を不機嫌にさせて吊り上げる。
「あにうえ、じゃまっ! ここぷりゅのばしょっ! あっちいってっ!」
兄を押し出そうと全力で全身を使って押すも、彼はびくともしない。
体躯はそれほど変わらないくせに、と歯噛みする気持ちだ。
「あっちいけぇっ!」
「やだよ。オレ、今夜はここで寝るって決めたもん」
翼を丁寧にたたみ、バロンはすでに寝る準備に入っている。
「ねれそうなところ、ほかにもいっぱいあるじゃんっ」
「いいじゃん、べつに。女の人は柔らかくていい匂いするから、気分良く寝れそうだし。あ、これオレ調べね。いつの時代の女の人も、柔らかくていい匂いすんだよ」
満足げに言うと、バロンはたたんだ翼に顔を埋もれ目を閉じた。
もう完全に寝る体勢である。
プリュイが押すも、バロンはもう意に介さない。
碧の瞳が悔しげに揺れた。
「……あにうえのばかぁ」
すんっと鼻を鳴らして、プリュイはミルキィの腹に鼻先を押し付けて顔を埋める。
今度こそ、ひんひんと確かに泣いていた。
ミルキィはその背をまた優しく撫でる。今度はあやすように。
けれども、その顔は苦笑を浮かべていた。
「その姿じゃなかったら、バロンくんに変態って言ってるようなセリフだ」
「それもオレ知ってる。人ってやつは、大抵見目が可愛い動物ならガードも緩くなんの」
薄ら開いた琥珀色の瞳がミルキィを見上げる。
「だから、オレがそう言っても許されんのよ。小鳥のオレ、可愛いから」
バロンは得意げにふんっと息を吐き出すと、今度こそ寝るために目を閉じた。
ミルキィが彼の羽毛に指の背を滑らすと、彼はぴるるぅと小さく囀った。
羽毛は柔らかく、その触り心地に何度も撫で付ける。
「……確かに、小鳥は可愛い」
ぽつりと呟くと、プリュイからくぐもった声が聞こえた。
「ぷりゅのほうがかわいいもんっ」
不貞腐れた彼女の声に、ミルキィは思わず小さく吹き出して肩を震わせる。
そして、暫く震わせたあと、細く呟いた。
「バロンくんとプリュちゃんは、私として見てくれるんだね」
それどころか、さして気にしていないようにも見える。
ミルキィの、人ならざる部分を。
先程まで緊張で身体を固くしていたというのに、気が付けば強張りはとうに解れていた。
夜に溶けていたミルキィの心に、ぽつと穏やかな灯りが灯る。
その灯りは、夜に灯すキャンドルに似ていた。
そうして、夜はしんしんと更けていく。
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