1-3.彼だけが


 夜が明けてからそれなりに経つとはいえ、人が起きて活動を始めるには少しばかり早い時間。

 応接用にと置かれたソファとローテーブルと、数人分の作業机に少しばかりの資料棚があるだけの質素な部屋。

 薄暗い中でも、作業机に置かれたパソコンの電源ボタンが明滅している。

 スリープモードにしたまま、誰かが電源を落とし忘れたのだろうか。

 カーテンが閉じられた薄暗い部屋に、突として小さな音が響く。

 窓が静かに開かれ、朝風がふうと吹き込むと、僅かに積もった埃を舞い上げた。

 開いた窓から差し込む朝の陽に照らされ、埃がきらときらめく。

 そして、人影が音もなく部屋に忍び込んだ。

 窓枠に足をかけて部屋に忍び込んだ人影は、獣の耳を立ち上げて音を探る。

 室内はもちろん、廊下にも、足音も気配もなさそうだ。

 ほっと息をつき、静かに窓を閉めた。

 風に踊っていたカーテンも大人しくなり、朝の静寂が部屋に満ちる。

 薄暗い中、金の瞳が瞬いた――刹那。

 ぱちん。静寂の中に無機質な音が響き、室内が急に明るくなった。

 何者かが電気を点けたのだ。

 人影に緊張が走り、金の瞳があかに変じたかと思えば、気配を探って鋭く視線を走らせる。

 が。


「窓は玄関口でないと何度も言っておろうが、ミルキィ殿」


 部屋の出入り口に立っている人物が、いつもの見知った者だと気付くと、途端にミルキィは身体から力を抜いた。

 紅に変じていた瞳も、常の金の色に戻る。


「な、なんだ。びっくりさせないでよ、ヒョオさん」


 脱力してその場に座り込んだミルキィに、呆れの色を滲ませたヒョオが歩み寄って行く。


「ここは魔法機関の施設ゆえ、無断侵入が見つかれば相応の咎を受ける」


「でもそれ、見つからなければ問題ないし」


「屁理屈を言うでない。受付を素直に通れば良かろうが」


 はあと嘆息を落とし、やれやれと首を振るヒョオに、ミルキィは悪びれた様子もなくしれと答える。


「受付窓口まだ開いてない時間だし、めんどいし」


「此奴……」


 後半が本音だ。ミルキィは呆れるヒョオに、にひっと歯を見せて笑っておいた。



   *




 ミルキィがヒョオに案内された一室は、普段はルカが寝起きに使う宿舎の部屋だった。

 魔法省魔法師団魔物対策部門――主に魔物、精霊応対機関となっている。

 国の機関に部類されるここは、森の中にある支部規模の施設とはいえ、わりと充実している。

 所属する魔法師が業務を行う複数棟からなる本舎。そして、彼らが寝起きする宿舎。

 他にも食堂や洗濯場などの設備を備えた生活舎や、時たま訪ねて来る客のための客舎まである――なのに。


「ミルキィ殿。支部長には話を通してあるゆえ、客舎の一室の用意も出来るが?」


 ヒョオは確認のために問いかける。

 だが、これはもはや、表向きは確認をとったと言い張るための問いにすぎない。

 ミルキィの返答はもう訊かずともわかっている。

 既に彼女は部屋に入るなり、背負っていたリュックを部屋の片隅に置き、さっさとベッドに腰掛けてしまっている。

 そして、ヒョオはそんな彼女を見やって嘆息を落とす。

 この流れが毎度の如く繰り返される。


「ルカの部屋で全然いいよ。無問題」


 ミルキィのこの返答も毎度の如くなのだが、今回は無問題というわけでもない気がするのだ。

 そう。今回はいつもと違うことが一つある。


「……そう言うであろうと思うてはおったが」


 言うのも億劫な様子でヒョオは肩をすくめたが、次の瞬間には、それなりに真剣な表情でミルキィを見やる。

 だから、ミルキィも少しばかり緊張して背筋を伸ばした。


「――ルカは今、不在にしておるぞ」


 ぱちくりとミルキィの金の瞳が瞬く。

 何を言われるだろうかと身構えていたのに、拍子抜けとはこういうことか。

 伸びていた背筋がだらしなく丸まった。


「知ってるよ。ルカからメッセージアプリに返事あったし、前にちらっと聞いてたしね。精霊祭の諸々で王都に行かなくちゃ行けないかもって」


 ルカは渡し役の任に就いている。

 渡し役とは、精霊と人を繋ぐ架け橋のような役目を課せられた者のことを謂う。

 ルカの一族は代々その役目を継いできた。

 余談にはなるが、ミルキィはその分家筋の者にあたるため、ルカとミルキィは遠縁の間柄だ。


「プリュちゃん迷子騒ぎのとき、ルカ言ってたよ。渡しの精霊のスイレンさんから、そのうち正式に精霊の春の話が来るだろうからって」


「ルカが不在なのは、そのための王城召喚があったゆえな。スイレンもそのための喚び出しがあれば、転移にて向かうと言うておった」


「その辺りの話は私が知る範疇でもないし、べつに何でもいいんだけど、ルカがそういう諸々で居ないのは知ってるよ。で、それが?」


 ヒョオが真剣になる理由がわからない、とミルキィの表情がそう訴える。

 ヒョオが既に何度目になるのかわからない嘆息を落とす。


「ルカ不在の部屋にお主が泊まるのは、少しばかりあれではないか?」


「え、なんで?」


「――なんで、だと?」


 少しだけ低くなったヒョオの声に、ミルキィは思わず怯んで両耳が垂れる。心なしか、身も縮こまる。


「……だ、だって、いつもルカの部屋に泊まってんじゃん、私」


「それについても、我はどうかと常々思うておったのだが、年頃のおなごが若い男の部屋に転がるのもどうなのか」


「……それ語弊ある気もするけど、私が居る間、ルカはそこのソファで寝てるもん」


 そこ、とミルキィが指差すのは、ベッドの横に置かれた二人掛けソファだ。

 ソファの向かいには小型だがテレビもあり、休みの日にはルカがソファに寝転がってテレビを観ている姿を見ることもある。

 ソファを見ていたヒョオの視線がミルキィに戻る。


「それも知っておるが、お主、まだ十八であろう。少しは年頃の自覚を――」


「私は十九ですっ。それに人の十八はもう成人。年頃じゃないし、子供扱いしないでっ」


 ヒョオの言を遮り、突としてミルキィが声を荒げた。


「いいのっ! ルカが部屋使っていいって言ってんだしっ!」


 そう言って、ミルキィがヒョオへスマートフォンの画面を突き付ける。

 メッセージアプリを起動させた画面には、確かにルカからのメッセージがあった。


【ルカ:俺居ないけど、いつもみたいに部屋は勝手に使っていいから】


 ルカ本人から了承があるのならば、ヒョオが口出しすることは出来ない。

 これは二人の問題であって、そこにヒョオが割って入るのは違う。

 それに――と、ヒョオはミルキィを一瞥する。

 ヒョオを睨むミルキィの瞳に、時折だが紅の色がちらつく。

 ミルキィの瞳の常である金ではないその色は、彼女の感情の昂りを起因とした、体内に保有する魔力オドの高まりに触発されて具現する色。

 彼女が昂ぶっているのは、口もとから僅かに覗く犬歯からも窺える。

 獣が唸るが如く、その唸り声まではなくとも、覗く犬歯が鋭い様は既に人のそれではない。

 ここは引いた方が互いのためだ。

 はあと重たげなため息をつき、ヒョオは一歩下がる。

 出方を窺うような視線が突き刺さった。


「……我の出過ぎであったな。ルカが了承しておるのならば、我はその意に沿おう」


 引き下がる様子を見せたヒョオに、ミルキィの放つ気配が幾分か和らぐ。


「我は本舎の“渡しの間”にるゆえ」


 そのまま背を向けるヒョオへ、ミルキィはばつが悪そうに言葉をもらす。


「……一応、当たりが強いなって自覚は、ある。あやふやが、余計にあやふやになりやすい時期だから、感情も持て余すし……」


「……」


「……ヒョオさんは、私にとっては突き放せない存在だから、その――」


 ヒョオが肩越しに振り返ると、ミルキィは俯いて口を引き結んでいた。

 しばらくもごもごとしたのち、最後にぽそりと呟いた。


「…………ごめん」


 そして、ミルキィは勢いよくベッドに潜り込む。

 ルカが起きたまま整え忘れていた、くしゃくしゃになったままの掛布を頭まで引っ張り上げ、潜り込む。

 ややして、おずおずと尾だけが出てきた。

 その尾がゆっさゆっさと揺れる。


「ルカの部屋には、私の着替えも置かせてもらってるし、歯ブラシとかそういう日常品もある。だから、問題なし」


 と、ミルキィが言い切る。

 だが、ヒョオとしては問題だらけな気がする。

 思わず半目になりかけるが、これも二人の問題であって、ヒョオが口出しすることでもないのだろう。

 気付かれぬようそっとため息をついたあと、ヒョオはルカの部屋を後にした。




 廊下を歩くヒョオの足音が遠ざかって、やっとミルキィはベッドから顔を出した。

 些細なことをきっかけに、すぐに感情が不安定になって持て余す。

 今がそういう周期だからとはいえ、ヒョオには悪いことしてしまった自覚はある。

 彼が何を気にしているのかまではわからないが、心配をしてくれているのは伝わっている。

 ごめん、と胸中でもう一度謝ってから、ミルキィは再びルカのベッドに潜り込んだ。

 満月の時期が近くなると、ミルキィに流れる人ならざる血に宿る力が強まってしまう。

 それは身体的にも影響を及ぼすため、こうしてその時期になる度に、ミルキィはここへ身を隠すことになっている。

 それは色々な大人の事情とやらが絡んでのことなのだが、ミルキィにとって大切なのは一つだけ。


「……ルカの匂いが、する」


 人のそれよりも鋭くなった嗅覚で、ベッドに染み付いたルカの匂いを目一杯に吸う。

 それだけで、不安定にささくれだっていた感情が落ち着きを取り戻していく。

 この匂いがあれば、たぶん、自分は自分という存在は見失わずに済む。

 ミルキィはベッドの中で身を丸めた。


「ルカだけかもしんない。私の全部を知ってても、これが私だって言ってくれたのは」


 きゅっと目を閉じた。

 人ならざる面を知っても、目を逸らすでもなく、興味を示すでもなく、ミルキィとしてくれたのは――彼だけ。

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