1-2.子狼は小さな精霊


 精霊界――。

 そこは、人の暮らす世に重なるようにして存在する場所。

 だが、決して交わることのない、人が立ち入ることが出来ぬ場所。

 精霊界には多くの精霊達が暮らす。

 空気があり、草木があり、水がある。

 朝があり、昼があり、夜がある。

 けれども、四季の移り変わりはなく、精霊と草木以外の生き物の姿はない。

 精霊界とは、そんな場所――。




   ◇   ◆   ◇




 精霊界も少しだけ陽が昇り、静かな朝から起き始めた森に幼子の声が響く。


「ねえ、じじうえ。じじうえってばぁ!」


 ゆすりゆすり。子狼は小さな前足で、未だに微睡む白狼を揺する。

 木のうろに昇り始めた朝陽が射し込む。

 それが眩しいのか、白狼は目元を覆い隠すように前足を乗せた。


「じじうえぇぇぇ」


 耳を倒した幼子の声が這うように呻く。


「ねぇーえぇー、おきてよぉー。じじうえぇー」


 じじうえじじうえと繰り返す声に、やがて白狼も寝起きの掠れ声をもらす。

 瞬間。子狼の倒れた耳が元気に立ち上がった。


「じじうえっ!」


「……祖父上じじうえって響きはやだなぁ」


「じゃあ、じいちゃんっ!」


「……バロンみたいのもなぁ」


「じゃあ、スイレンじいじっ!」


「そもそも、じいさん呼びから離れない?」


 白狼、スイレンがのっそりと身体を起こす。

 ぴょんぴょんと寝癖で体毛をあちらこちらに跳ねさせたスイレンへ、子狼ことプリュイが飛び付いた。


「でも、じじうえはぷりゅのじいちゃんだよ?」


 埋めた顔を上向かせ、プリュイは碧の瞳を瞬かせる。

 その瞳が心底不思議とばかりにスイレンを見上げた。


「……まあ、そーなんだけどね。だけど、精霊にあまり祖父とか祖母とかの認識は薄いんだよなあ」


 スイレンの空の瞳がプリュイを見下ろして苦笑を滲ませる。

 精霊の生きる時は、人のそれよりもずっと長い。

 だからなのだろうか。精霊には馴染みが薄いのだ。

 もちろん、己の血族だという認識はある。

 だが、家族と括られるのは己が子までであり、己の親まで。

 それに元より、長命ゆえに精霊は、次の世代へ命を繋ごうという意識すら薄い。

 だからなのかもしれない。人のように祖父や祖母という認識は薄く、孫という意識も薄い。

 なのに目の前のこの幼子は、己を祖父として慕ってくる。

 それはこの子の親、特に母親の価値観が影響しているのかもしれない。

 と、スイレンは思っている。


「……ぷりゅ、むつかしーことはわかんない」


 幼い顔の眉間に深いしわを寄せ、プリュイはわからないなりに理解しようとしているらしい。

 その姿が愛らしく、スイレンは顔を綻ばせる。

 スイレンが顔を低くし、プリュイの額に己の額を重ね合わせた。

 眉間に刻まれた深いしわを解すように、うりうりと重ねた額を擦り合わせる。

 幼子はきゃっきゃと楽しげな声をもらし、やりかえしだと彼女もうりうりを始める。

 これは昔、スイレンが己が子――つまりはプリュイの父親が幼い頃にもよくやっていたものだ。

 精霊に孫という認識が薄くとも、祖父と慕ってきてくれれば、やはりそれは愛しくなってしまうものである。

 一頻りうりうりして満足したスイレンは、今度は鼻先でプリュイの背を突いた。

 後ろから押された形になったプリュイはたたらを踏むと、訝しげに振り返る。


「“外”へ遊びに行きたいんだろ?」


 “外”とは、精霊界の外――つまりは、人が住む側を示す。


「なら、バロン兄上に連れて行ってもらいな」


 スイレンはにやりと笑った。




   *




「――で? なんで、オレなわけなの」


「じいじが、ようじがあるし、めんどーだもんっていってたよ」


「あっそ。それ、後半が本音だね、絶対」


 青磁色の子狼を抱えた少年、バロンの琥珀色の瞳が半目に据わる。

 すとんっと軽やかにバロンが着地したのは、“外”側の精霊の森。

 森を吹き抜ける風が、いらっしゃいとばかりに、淡い黄をしたバロンの髪を遊んで行く。

 と。彼の腕に抱かれた子狼、プリュイが鼻先を上向かせ、すんっと鼻を鳴らした。


「プリュ、どした?」


「なんかね、こいにおいがするの」


「濃いって……? ――ああ、魔力マナか」


 首を軽く傾げたバロンだが、プリュイが何を嗅ぎ取ったのかすぐに思い至る。

 魔力マナ、との言葉に腕の中でプリュイが振り返る。


「……まなって、まりょくの?」


「お、わかってんじゃん。そ、自然の中で発生する魔力のマナ」


 ちなみに人や植物などの生き物が体内で生成する魔力はオドという。

 バロンが虚空へ向け、ふっと小さく吹きかける。

 すると、その虚空に小さな空気の渦が生まれ、バロンの前髪を軽く巻き上げると、渦はすぐに凪いで立ち消えた。


「オレ達精霊の身体は魂の器だ。その器はマナで構成されてるから、こうしてオレ達は、人みたいに陣なしでこんなことが出来んだ」


 先程のような作用を、人は魔法と呼んだ。

 それは陣というものを自身のオドで描き出し、そこに自身の想いを編み込むことによって願うという工程を踏み、その願いにマナが応えてくれることによって、人はそこで初めて魔法というものを扱える。

 その上、そんな面倒な工程を踏んだにも関わらず、オドとマナの魔力間にうまく伝達出来なければ、魔法は失敗に終わることもあると聞く。


「だからまあ簡単に言っちゃえば、精霊自身が魔法とも言えるわけだ」


 改めて言わなくても、プリュは知ってんか。

 バロンが笑えば、プリュイは不満げに視線を逸らした。


「しってても、わかってても、ぷりゅはまだまだだもんっ。ちちうえみたいに、おみずをあつかえない。まだ、なかよくないから……」


 段々と言葉は尻すぼみ、言葉の後半になるつれて、プリュイの尾はだらりと垂れ下がってしまう。

 そんな、しゅんっとなってしまった妹の頭を、バロンの手が優しく撫でる。


「それがわかってるプリュはえらいぞ。プリュはまだまだだ」


 まだまだ。兄のその言葉に、プリュイの心にちくりと小さな棘が刺さる。

 そんなこと、言われなくともわかっている。知っている。

 垂れ下がった尾が、苛立ちか激しく振れた。


「――だから、解るよな」


 プリュイの撫でていた手が止まる。

 少しだけ声が低くなったバロンの声に、どこか真剣な響きを感じ取って、プリュイが顔だけ振り返る。

 真面目な色をはらんだバロンの琥珀色の瞳が彼女を見下ろす。


「いいか、プリュイ。魔力の濃い場所――森の奥地には行くなよ」


 バロンの声に呼応するように風が吹き込む。

 そこに不穏な気配が絡んでいる気がして、プリュイは思わず身体を震わせた。


「ルカにいみたいな、精霊の森に配属された精霊魔法師達が浄化してくれてんけど、それも完璧じゃないし、吹き溜まりってやつは出来ちゃうもんなんだ」


「ふきだまりって、なに……?」


「吹き溜まりっていうのは、どーしても溜まっちゃうところ――マナ溜まりのことだ。それは知ってるよな?」


 こくり。プリュイは静かに頷いた。

 マナで構成された身体を持つ精霊は、あまりにマナが濃いと耐えられないことがある。

 器である身体が耐えられなくなると、魂が壊れる。魂が壊れてしまえば、精霊はもう還ることはなく、廻る精霊にとってそれは死を意味する。

 それに、と。プリュイはもう一つのことを思い出した。


「……そこって、まものもいる……?」


「うん、そう。マナを多分に取り込んだ生き物は、マナに侵されて魔物に堕ちる」


 バロンがそこでひとつ息を落とすと、琥珀色の瞳を和らげた。


「えらいぞ、プリュ。だから、奥地には行っちゃ駄目なんだ。魔物の一太刀はオドをまとう。オドとマナは同じ魔力でも反するものだから、その一太刀が致命になることもある。だから、覚えとけよ」


 真剣な眼差しでプリュイが頷いて見せると、バロンが兄としての顔で笑い、彼女の頭をわしゃわしゃと撫で回す。

 プリュイは兄に頭を撫で回されながら、先程風が吹き込んこんで来た方向へ視線を投じる。

 鼻先にはまだ濃い魔力の匂いが残っている――匂いは、覚えた。

 プリュイは精霊としては未成熟で、己の身を守る術は持っていない。

 視線を投じても、マナ溜まりのある森の奥地は見えはしないけれども、気を付けなくちゃと思うのだった。

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