第一章

1-1.ミルキィという少女


 少しばかり薄暗い部屋。

 カーテンがほんのりと明るい。

 もう朝だ。

 そう思うのに、ミルキィはもぞもぞとベッドの中に潜り込む。

 身体を丸め、ベッドから垂れ落ちていた尾も丸めた。


「――……」


 意識が少しばかり浮上した。

 ベッドの中から手を伸ばし、枕元に放り投げたスマートフォンを探る。

 ややして目的のものを見つけたミルキィは、もそりと気怠げな身体を起こしてスマートフォンの画面を見やった。

 真っ暗な画面に映り込む己の顔に。


「……タイミング悪いなぁ」


 くしゃりと苦く笑った。

 それはまるで、叱られた子供のような。

 スマートフォンに映ったミルキィの顔には、頭部にへなりと倒れる獣の耳があった。




   *




 膝丈のアウターを羽織り、背にはリュック。

 ミルキィはアウターのフードを目深に被り、足音を立てることなく階下へと下りた。

 そのまま玄関まで向かおうと足を向けるも、ふと思い留まってリビングへと足を向ける。

 廊下から覗き見ると、朝の支度を進める母がキッチンに立っていた。

 その母が廊下に立つミルキィに気付く。


「どうしたの、ミルキィ? そんなとこに立っ――」


 ミルキィを見た母が動きを止めた。

 目深に被られたフード奥から覗くミルキィの瞳が、あか色のきらめきを帯びた――ように見えた。

 が。ミルキィが瞬いた時には、彼女の常の色である金のそれ。

 見間違いだ。母はそう己に言い聞かせてぼんやりと呟く。


「……そうか、満月……近いもんね……」


「うん。だいたい月一頻度の満月だけど、今月は私もちょっと抜けててさ」


 ミルキィは丈の長いアウターから栗色の尾をふぁさと垂らした。

 フードを被ったまま、くしゃりと苦く笑う。叱られた子供のように。


「朝起きたらこんなんなの。最近ちょっと気が立ってるとは思ってたけど、オドが活発化してたみたい」


 口を開けたまま身体を強張らせている母に、ミルキィは口早に告げる。


「だから、ルカんとこ行ってるね。数日したら戻って来るし――」


 背負ったリュックからスマートフォンを取り出そうと手を動かした瞬間。


「――っ」


 母が大きく肩を跳ねさせた。

 はっとしたように母はミルキィと同じ金の瞳を見開く。

 その瞳がのろのろと、怯えた光を携えてミルキィを見る。

 ミルキィは困ったように笑って、上げかけていた手を下ろした。


「……スマホも持ってるし、用があれば電話なりメッセージ送るなりして」


 そう言うと、ミルキィは母に背を向ける。

 金の瞳が一瞬だけ揺らぎを見せるも、ミルキィはそのまま母からその瞳を逸らす。

 家を出るまでの間、彼女が母を振り返ることはなかった。

 彼女の瞳の動きに気づいていながら、母は動くことが出来ず、ぱたりと玄関の閉まる音を静かに聞いていた。

 きゅっと、弱く手を握り込む。

 未だにわからないでいる。

 人ならざる顔を持つミルキィと、どう接すればいいのか。

 普段の仲は良好な方だと思うのに、ああいった面を目の前にすると、途端に竦み、距離感がわからなくなってしまう――。



   ◇   ◆   ◇




 起き始める前の静けさに包まれた朝の街。

 普段は人々で賑わう露店通りも、今は店が閉じられ静かな通り。

 敷かれた石畳を踏みながら、ミルキィは通りを歩く。

 目深に被ったフードの奥から覗く金の瞳が、警戒の色を滲ませて辺りを見渡した。

 フードが膨らむ。

 中で立ち上がった獣の耳が音を拾った。


「……人が来る」


 朝の静けさに包まれていた通りが、緊張に震えて風が吹く。

 かちかちと何かを打ち鳴らす音が通りを駆け抜けた。

 通りの両脇に立ち並ぶ家々の軒下からはロープが渡されている。

 その様はまるで通りのトンネルのようで。

 そこに括られた木製の飾りが、風に揺らされて打ち鳴る。

 狼、兎、鳥など。様々な生き物を模った木製の飾りは、精霊を模しているらしい。

 ああ、そうか。

 精霊祭が近いもんね。どこか他人事のように薄ぼんやりと思った。

 警戒と緊張に満ちた金の瞳が辺りを見渡す。

 やがて、ミルキィは家屋の屋根に目を留めた。


「跳ぶか……」


 くっと軽く膝を折り曲げ、石畳を蹴り上げる。

 ふわっと背に羽でもあるかのように、ミルキィは軽々と跳躍した。

 アウターが広がり、栗色の尾がふぁさりと滑らかに揺れる。

 とんっと軽やかに屋根に着せば、反動でフードが肩に落ちた。

 そこからぴんっと立ち上がった獣の耳は、ミルキィの髪と同じ栗色のもの。

 そのカタチは、先日ミルキィと出会った狼の姿をした精霊、プリュイのカタチと似ていた。

 かちかちと風が飾りを打ち鳴らす。

 通りを荷車を引く親子が通っていく。

 それを眼下に見下ろしてから、ミルキィは身を翻した。


「うん、仕方ない。屋根伝いに行くとしよう」


 軽く呟き、うーんと伸びをしてから、ミルキィは再び身を軽く屈める。

 そしてまた、ふわりと跳び上がった。




   ◇   ◆   ◇




 がさりと梢が揺れたかと思えば、次いで、とさりと下草を踏む音が静かに響いた。

 枝から飛び降りたミルキィは、精霊の森、と呼ばれる森を歩き始める。

 朝の柔らかな陽が落ちる中、フードを取ったミルキィの頭部には獣の耳が立つ。

 時折動くのは、周囲の様子を探るため。

 それからややし、周囲に自分以外の人の気配がないのを確認すると、ミルキィは身体から力を抜いた。


「……大丈夫。まだ人が出歩く時間じゃない」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 と。視界の端に何かが掠り、反射的に息を詰めた。

 けれども、それはすぐに光の粒――下位精霊だと気付く。

 ほっと息を吐き出す。人ではなかった。

 だが、精霊だと気付いたのならばやることがある。それは、気付かぬふりをすること。

 視線は前を据えたまま、ミルキィは光の粒とすれ違う。

 彼らは怯えるでもなく逃げるでもなく、きゃっきゃと楽しげな声を上げながら、街の方へと消えていく。

 ミルキィはそれを肩越しに見送った。

 彼らは思ってもいないだろう。

 まさか、すれ違ったミルキィにその姿を視られていたなどと。

 精霊を視ることの出来る人が少なくなって久しい。それは、永く生きる精霊が慣れてしまうほどに。

 だから、視える側が気付かないふりをする。それが今の、人と精霊の丁度良い距離感なのだ。

 あの子達は何処に向かっているのだろうか。

 街の方ということは、賑わう街の様子を眺めに行くのかもしれない。

 精霊は人に惹かれるから。


「精霊祭も近いもんね」


 ぽつりと呟き、朝の陽に透ける枝葉を見上げた。

 そしてまた、ミルキィが見上げた先で光の粒が過ぎて行くのが見え、慌てて視線を落とす。

 それでも、ミルキィの人よりも音を拾う獣の耳が、はしゃぐ光の粒の声を拾い上げる。

 その声が本当に楽しそうで、ミルキィは頬を緩めてふふっと小さく笑った。楽しさは伝染するものだ。

 だが、その気持ちもすぐにつまらなさで埋もれる。


「精霊祭、か」


 精霊祭。精霊へ感謝と祈りを捧げ、この先も寄り添えていけるようにと願うもの。

 ミルキィは金の瞳を揺らし、伏せていた顔を上げる。

 森を歩き進む足取りは、いつの間にかとぼとぼになっていた。


「精霊祭のお触れが出てから、街中じゃ誰と過ごすかって話題をよく耳にするようになったけどさぁ――」


 声がからげんきみたいだ。他人事のように感じた。

 金の瞳がまた揺れる。


「私と寄り添ってくれる人なんて……」


 居るのかな、の声は飲み込んだ。

 きゅっと口を引き結び、けど、と口にする。


「これが私なのにねっ!」


 やけくそのように叫ぶ。

 が、頃合いよく、ミルキィの横をそろっと通り過ぎようとしていた光の粒が、その声に驚いて大きく飛び上がった。

 やばっ、とミルキィが思った頃には、ばびゅんっと擬音が付きそうな速さで、その光の粒はミルキィの側から消え去っていた。

 光の粒が消え去っていっただろう方向に、ミルキィはそっと手を合わせる。


「どっかの誰かは知らない精霊さん、おどかしてごめんね」


 申しわけなさげに苦笑してから、困ったように笑った。

 あまり騒がず、そそくさと行った方がよさそうだ。

 くるりと片足を軸にして回ると、今度はちゃんとした足取りで歩き始めた。




 かさと木が揺れる。

 そこには枝に巻き付き、頭をもたげる白蛇の姿があった。

 ちろと舌を出した白蛇が呟く。


「精霊がやたら騒ぐと思えば、なんだミルキィ殿ではないかえ」


 白蛇の周りには光の粒達が集まっている。

 そうだよ、あの子。あの子だよ。

 森に人がここまで入って来るのも珍しいよね。

 己の身体を明滅させて、光の粒達が白蛇へ各々に訴える。

 それを白蛇は、表情の乏しい己の顔面に代わり、尾先を振ることで煩いということを示す。


「あのむすめは問題ないゆえ、早うね」


 白蛇が低く発すれば、光の粒達はきゃあと悲鳴を上げて散り散りに去っていく。

 きゃあという悲鳴が怯えというよりも、楽しげな響きを持っていたように聞こえたのは、きっと白蛇の気のせいだろう。


「あやつらが騒ぐのも仕方あるまいか。精霊祭が近いゆえに、普段はこちら側に来ぬ精霊も多く出てきておる」


 軽く息を落とすと、白蛇はそれよりもと思考を切り替えた。


「それよりも、ルカが居ぬ間と重なってしまったか。ちと間が悪いな」


 嘆息を落とし、白蛇は木々の枝々を伝い始めた。

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