0-4.彼女の笑う顔


「またあんたはそうやって一人で……」


 電話口の向こうで母の諦めの嘆息が聞こえる。

 母からの電話。

 通りから逸れた路地に入り、ミルキィはそんな母の嘆息を聞いていた。

 ほんの僅か、スマートフォンを持つ手に力が入る。

 普段の母との仲は良好だが、こういう声の時の母は、正直に言ってしまえばあまり好きではない。

 心内でむくむくと湧き上がるのは、意地なのか憤りなのか――はたまた、寂しさなのか。今はもうわからない。

 プリュイは彼女の足元でちょこりと座り、大人しく電話が終わるのを待っている。


「きっかけはお母さんなんだから付き合うって言ったのに、結局あんたは一人で動いちゃうんだね」


 そこに少しばかりの棘を感じたのは気のせいか。

 母が言っているのはプリュイの件だ。

 母は始め、彼女の存在に気付いたのは自分なのだから、自分も付き合うと言っていた。言ってくれていた。

 だがそれを、なんとかなるから、と断ったのはミルキィだ。その響きが突き離すように聞こえてしまっていたか。

 何度目かの嘆息が電話口から聞こえる。

 呆れともとれる小言をはらんだそれに、ミルキィは努めて常のように声を通した。


「だってお母さん、まだやる事あったでしょ?」


 それは親を気遣う娘のそれ。


「そうだけど、そうじゃないでしょ。べつにミルが一人で抱え――」


「これもいつも言ってることだけど、私は大丈夫だよ」


 そう言ってミルキィはスマートフォンを耳から離すと、何事かの母の声は聞こえていたが、構わず画面をタップして通話を切った。

 しばらく画面を眺め、やがて湿った嘆息をひとつ落とした。


「一人で抱え込むなって言われても、それを拒んだのはそっちじゃん」


 声に潜む、途方にくれた幼い響き。

 今までだって自分は一人でやってきた。やってこれた。だから。

 ミルキィの金の瞳が揺らぐ。

 と。


「みる、どーかしたの?」


 幼い声にはっとする。

 ミルキィの足元でプリュイが心配そうに見上げていた。

 かしかしと、小さな前足がミルキィの足を軽くつつく様に頬が緩んだ。

 金の瞳に揺らいでいた何かは瞬きひとつで搔き消え、スマートフォンをトートバッグの内ポケットにしまうと。


「ううん、なんでもないよ。さあ、プリュちゃん」


 屈み込み、プリュイを抱き上げる。


「お兄ちゃんに会いに行こっか」


 ミルキィが明るく笑って見せると、プリュイはしばし彼女を見つめたのち、ぺろりとそっと頬を舐めた。

 金の瞳が小さく開き、瞬く。

 やがて、ミルキィは苦笑を滲ませてプリュイの頭を撫でた。

 ありがと。自然と口についた言葉は、何に対してのお礼だったのか。

 それについては深掘りせず、ミルキィはすっくと立ち上がると、プリュイを腕に抱いて再び通りへと足を向けた。




   *




 天幕通りからも、露店が立ち並んで賑わう大通りからも離れた、行き交う人々もまばらな通り。

 大人しくミルキィの腕に抱かれたままのプリュイが彼女を見上げる。


「ねえ、みるー?」


「ん、なあに? プリュちゃん」


「どこにむかってるの?」


 ミルキィはプリュイに落としていた視線を戻して前を向く。

 こつこつと靴音を鳴らしながら、石畳の敷かれた通りを歩く。


「プリュちゃんのお兄ちゃんのところだよ」


「でも、みるはぷりゅのあにうえしらないよね?」


 こてん、と。ミルキィの腕の中でプリュイが首を傾げた。

 碧の瞳が心底不思議そうに瞬いている。

 その最もな疑問に、こつりと歩みの足を止めたミルキィは、片腕でプリュイを抱え直し、肩にかけたトートバッグからスマートフォンを取り出した。


「これで連絡したら――」


 と。ミルキィは言いかけた言葉をつぐんだ。

 プリュイの碧の瞳が軽く見開かれて丸くなっていたから。

 物珍しそうな好奇心に満ちた瞳にミルキィの頬が緩む。


「ぷりゅ、みたことあるよ! ひとがはなしかけてるいたっ!」


 弾んだ明るい声が通りに響く。

 プリュイはミルキィの腕に前足を付いて身を乗り出すと、その不思議な板を覗き込む。

 落ちそうになるプリュイをミルキィが慌てて抱え直すのも構わず、彼女は鼻先を板に寄せてふんふんと鼻を鳴らす――と。


「ぴゃっ!?」


 突として、その板の真っ黒だった面が明るくなった。

 予期せぬ出来事に瞬時に板から距離を取ったが、彼女の碧の瞳は見開かれ、全身の毛は立ち上がる。

 ばくばくと早鐘を打つ鼓動に、安心を求めたプリュイは、ミルキィの胸に顔を押し付けて埋めた。

 だが、くすくすと笑う響きと。


「――あ、ルカ? うん、そう。大通りからは出たよ。え? そのままそこに居ろ? んー、なんかよくわかんないけどわかった」


 板に向かって話しかける声に、プリュイはそっと顔を上げた。

 何やら話し込んでいる様子だったが、ミルキィはそれからすぐに耳から板を離して指先で軽く触れる。

 すると、途端にその板はまた真っ黒の面に戻ってしまう。

 プリュイにはそれがとても不思議だったが、もうその板に近付こうとは思わなかった。

 そんなプリュイの心境を察したのか、ミルキィが彼女の前でひらひらとそれを振る。


「これはね、スマートフォンっていう文明の力だよ」


「すまーと、ほん……?」


「そう。遠くに離れた人とお話しできる便利道具なのだ」


 ほわりと笑うミルキィの顔に、プリュイも自然と顔を綻ばせた。


「これでルカとお話ししたら、あっ、ルカっていうのは私の幼馴染。そんで、そのルカとプリュちゃんのお兄ちゃんが一緒に居るんだって。なんか動くなって言われちゃったし、ここでちょっと待とうか」


 が、矢継ぎ早に言われたプリュイは理解が追いつかない。

 そんな彼女を抱えたまま、ミルキィは通りの端へと寄ると、外壁に背を預けた。


「大丈夫って言ったけど、私は一人で出来ることと出来ないことの見極めは出来てるつもり」


 ぐるぐると思考を回していたプリュイだったが、トーンの変わった声に瞳を瞬かせる。

 だが、プリュイがそっと見やった頃には、ミルキィはにこりと笑顔を浮かべていた。

 あ、さっきと笑顔が違うな。プリュイはそう思った。


「お兄ちゃんと会えそうでよかったね」


 プリュイは、うん、と頷く。

 けれども、ミルキィに対して寂しさを覚えてしまったのは、どうしてだったのだろうか。




   ◇   ◆   ◇




 ずんずんと前を進んでいくバロンに、ルカはふっと小さく笑う。

 バロンが足を止めて振り返った。


「……なに。笑いたければ笑えばいいじゃん」


 口を尖らせ、不貞腐れたようにそっぽを向く様子に、ルカの笑みは深まる。

 が、バロンの琥珀色の瞳に苛立ちの色が揺らいだのを見て、ルカは苦笑のそれに変えた。


「いや、悪い悪い。べつにバロンを笑ったわけじゃねぇよ」


「じゃ、なにさ」


「そうツンケンすんなって」


 ルカはバロンの肩に一度手を置き、止まっていた歩みを再開させる。

 バロンも渋々ルカの隣に並んで歩き始めた。

 人通りのない細い通りに、二人分の靴音が響く。

 ルカがちらりと隣を盗み見ると、バロンは口を尖らせたままだった。

 その様が年相応に見えて、ルカは頬を緩ませた。

 実際のバロンの年齢をルカは知らない。

 中学生のような見た目をしていても、見目イコール年齢ではない精霊だ。もしかしたら、バロンはルカよりもずっと年上なのかもしれない。

 それでも、人の姿に転じたバロンの背丈はルカよりもやや低く、ルカはどうしてもバロンを弟のような目で見てしまう。

 その上、見目通りの年相応な反応は微笑ましい。

 だから、弟感をより強く感じてしまうのはもう仕方ないのだと思う。


「妹、心配だったんだろ? よかったじゃん、すぐに見つかって」


 バロンが横目でルカを見やる。

 じとりとした瞳は、見るというより睨むに近かった。


「べつにそんなんじゃないし。プリュイになんかあったら、オレが母さんに怒られるからだし」


 ふいっとバロンに顔を背けられてしまい、ルカは肩をすくめた。


「ほいほい、そういうことにしとくよ」


 二人は再び並んで歩き始める。

 こつこつと石畳を踏む音が響く中、ルカはふと気になっていたことを口にした。


「なあ、バロン?」


「……なに」


「お前って、何の用事で来たの? なんか妹の方がメインっぽい感じだけど」


 ルカが隣を振り向けば、不機嫌マシマシの琥珀色の瞳が自分を見る。


「そんなん、プリュイが精霊の春で祝を受け取るためじゃん」


 ぶっきらほうなバロンの声だったが、その中に聞き逃せない言葉があった。

 ルカは歩みを止め、ぱちくりと蒼の瞳を瞬かせる。


「……精霊の春って、あの……?」


「ルカ兄の言う精霊の春がどの精霊の春かは知んないけど、精霊王から祝をもらうあの精霊の春」


 同じくバロンも歩みを止めた。


「もうじき精霊の春をやるんだってさ」


「いやいやいや、俺聞いてねぇよ?」


「それこそ知んないよ。だったら、近いうちにじいちゃんから話がいくんじゃないの」


 バロンのいうじいちゃんとは、スイレンのことである。

 スイレンは、渡しの精霊、という二つ名を持つ精霊だ。

 彼に課せられたのは、人と精霊との渡しの役目。

 ルカが人側の代表ならば、対するスイレンは精霊側の代表。

 ルカとスイレンは謂わば、互いの種同士を繋ぐ架け橋のような対の関係なのだ。


「ウソだろ。そんな話出てんの?? だとすると、やる事いっぱいあんじゃん」


「オレはまだ子供枠だからあんますることもないけど、精霊側はそれで動きだしてるみたいだね」


 でなきゃ、母さんにプリュイを連れてけって言われなかっただろうし。

 と、バロンは肩をすくめる。


「うわあ。俺が渡し役引き継いでから初めての精霊の春じゃん。慌ただしくなりそうで今から吐きそう」


 ルカはげっそりした顔で項垂れた。

 通りに風が吹く。

 風はバロンの頬を撫で、彼の耳元に言葉を落とした。

 琥珀色の瞳が小さく見開かれる。

 バロンががばりと振り返ると、遠目に外壁に背を預ける人の姿が見えた。

 そして、その腕に抱かれた青磁色の毛玉。


「――プリュっ!」


 バロンは駆け出した。

 ルカももっそりと顔を上げて、同じくミルキィの姿を視界に認めると、バロンを追いかけるべく足を踏み出した。




   ◇   ◆   ◇




 精霊の春。

 それは不定期に訪れる精霊の季節。

 四季の流れとは異なるそれは、精霊が春の芽吹きに倣って行うようになった祝いの季節。

 精霊王から祝を贈られ、精霊の子らへ祈りを捧ぐ。

 そしてまた、人の世では精霊祭が催される。それは人々が精霊へ祈りを込める祭り。

 祭りの謂れは、精霊の起源は人の祈りから、の一節からだと伝えられている。

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