第26話 グラッセル伯爵の社交界

 珍しい意匠に加工されたガラス細工や数々の名画、銀色に輝く食器たち、広々とした空間に白い壁が明るさをより明白にしていた。この豪華絢爛ともいえるこの邸宅を見れば誰であろうともその身の程を知ることであろう。今私はその邸宅を保持するグラッセル伯爵の社交界へとお邪魔しており、噂には聞いていたがグラッセル伯爵の資産家としての側面は相当すごいのだと感じてしまう。所有する土地に産業を興し、彼の兄が製造業者として安くで加工し民間へと流すという貴族にはあるまじき行為をしていた。まあこの流れに乗れなかった貴族たちは私たちのように落ちぶれていったというのがこの世の理であろう。今は考えれば嫌になることは考えないこととする、今そんなことを考えてもどうにもならないのだから。


 ただこの社交界にはどうにも乗り気になれないのも現実であった。それは自分自身がここで身を固めるつもりなんて毛頭なかったからでもある。身を固めれば良妻賢母として、国家を作っていく銃後の母としての存在に固定されるからである。そんなことは今の私には耐えがたい屈辱でもあった。近くに椅子に座り、用意されたワインを少し口に含みそんな熟考を巡らせていた。老いた夫婦たちは男女の馴れ初めを嬉々として見、若い男女たちは各々会話をしたりダンスをしたり、稀に二人で外に出る男女もいた。そんな中でも私は誰にも会話されたくないですと言わんばかりに念を出しつつ、ただ社交界の遠巻きでみるばかりであった。ただ何事もなく社交界は終わるのであろうと思ったその時、白地のシャツに綺麗な紺色の軍服で揃え、こなれた着方をした少尉がこちらに歩いて来るのが見える。そして仰々しくも丁寧に一礼する。私も一応一礼する。


「初めましてレディー、少しお隣いいですか?」


「ええ、構いませんよ。」


 彼はよいしょと年甲斐もなく声をあげ、座る。何とも爺臭いが、あまり話しかけてこないでほしかった。正直グラシアムのことを今は考えたいのだ。だがその願いは彼に届くことなく、こちらの服を神妙そうに見て、声を掛けてくるのであった。


「これは珍しい服を着ておられますね。マイヤーのところで見たことがありますよ、たしか……ええっ。」


「着物です。」


 母が若いころ着たのであろう南方の島国名物で、綺麗な赤で染められた着物の一つ。こちらに来る時にいくつか家から持ってきたのであろう上等な着物が何着も家にあったのであった。着付け方も小さなころ何度か教わったこともあり、何とか自分で着付けることができたのであった。


「ああ、そうだキモノだ。一度見て美しいと思っていましてね。こうして見られるなんて幸運に感謝ですね。」


「そうなんですね。」


「いやはや貴方自身も美しいですし、よい相乗効果がありますよ。他の方々も見る目がないことで、どうです一緒に踊りませんかレディー。」


 この誘いは断ろうかと思ったものの、老夫婦たちの衆目があり恥をかかせるのも、このことが父に伝われば問題であるためになくなく踊ることとなった。彼に手助けしてもらう形で立ち上がり、貞淑な女性として必要なことはできうる限りするつもりであった。


 手を取り立ち上がれば中央のダンスをしている広間へと歩いて行き、他の面々もぞろぞろと集まってくる。そしてヴァイオリンやピアノといった数々の楽器によって奏でられる演奏が始まれば、全員同じ動き、足取りで踊りを披露する。この聞き慣れた旋律から生み出される曲は何度も踊ったことのあるド定番のメリアの歌である。この歌と踊りであれば全然問題なく踊れるであろう、社交界にあまり行っていない私でも踊れる程度の踊りでよかったと思ってしまう。晴れの舞台でこけることなどあればそれは社交の場として汚名を受けることにもつながるというのもあるのだろうか。そんな思案をしつつダンスを踊るのである。タタタンと足踏みをして次第に円の形となり集団は踊り、円を維持しながら一周回りまた並んだ時のような形となるのである。踊ることに集中していると軍人の彼が話かけてくるのであった。


「ダンスも、お上手ですね。よく、できてますよ。っと、それなりに踊られてます、よね。」


「ええ、友人と、踊っていますからね。」


「そうなの、ですね。どうです、今夜私と踊りませんか、レディー。」


 そんなもの御断りである、第一踊るなら気の置けない友人と踊りあかすほうがよっぽどマシだしと内心反吐と共に罵倒するがにこやかなに答える。


「考えさせて、ください。でもその優しさは、とてもありがたいですよ。」


 そう聞くと彼は少し悲しそうな顔をするものの、再度笑顔に戻る。


「では終わりの際に、再度お尋ねいたしますね。っとレディー。」


 彼のいらないお節介に辟易するものの何とか顔に出すことなく踊り切る。彼はありがとうございましたと一礼し、彼の親友らしき数人の元へと歩いて行く。しかしこの着物を着てダンスは中々にハードであった。動きの少ないダンスであったからまだましであったものの、ここまで動きにくい服なのは正直派手に動くことをよしとしない淑やかな文化だからなのかと考え、近くの椅子に座りこむ。


 そしてずれた着付けを再度整えるのであった。すると後ろから肩を軽く叩く無礼な人間がいた。誰だと振り返れば。


「よっミズキ!」


 マックスがそこにいた。なんと彼がこの社交界に顔を出すなんて誰が予想できようか!


「マックスじゃない、こんなところでどうしたの?!」


「俺がこんなとこにいちゃ悪いか、ってその服いいじゃん。すげー大人の女性っぽく見えるぞ。」


「な、なによ、いつも子供っぽいだとか好き勝手言っておいて今さら気づくのね。」


「その花柄もすげー細かいし、これ相当いい物だろ。腰あたりの巻いてる帯だって意匠が凝ってるし、こりゃあすげえわ!」


 まあ相当いい物に違いはないだろう、名望家であった母の実家のことを考えれば生半可な着物とは考えにくかった。ただどうしてか彼が服ばかり褒めるのになんとも言えない怒りが沸々を湧いてくる自分がいた。ふんっとしかめっ面でそっぽを向き、彼に伝える。


「そんなに服がお好きならどうぞ見たらいいですよーだ。」


「なんだよ、褒めてるじゃんか……。」


 そうではないのだ、私の言いたいことはそうではないのだ!だが彼の顔を見てしまえば言い淀んでしまうのが目に見えるから、顔を背けてしまった。その結果はこうだ、彼に見てほしいのは母の形見ではなく私自身なのだと伝えることはできなかった。小さく呟く――。


「バカマックス……」


「あっ、いま俺を馬鹿にしたなミズキ!」


「いーだ、なんにもいってませーん。」


 そんな彼に意地悪を一つ言ってしまうが、この止まらない心臓の慟哭にも似たはち切れんばかりの高まりのせいなのだろうか。今は別のことを考えよう、そういえば彼は結婚予定者でも探しに来たのだろうか。なんだよとつまんなそうな顔をするマックスに尋ねる。


「そういえばマックスは結婚する相手を見つけに?」


「社交界に来る時点で大体そうだろ……親父が煩くてな。まだ許嫁もおらんのかってガミガミ言われてこっちに来てるってわけ。グラッセル伯爵も似たようなもんらしいから上玉が狙えるかもしれんからな。」


「そうなんだ、私と一緒じゃん。」


「お前のとこも同じなのか、奇遇だな俺たち。」


「あんたと奇遇になっても嬉しくないけどね。」


 嘘だ、マックスと同じでとても安心した私がそこにはいた。ここにきて不安しかなく、固まった心の内が少し解れて少し息もしやすくなったようにも感じる。


「お前ならグラッセル伯爵のところにだって行けるだろ、時折見せる儚げで今にも壊れてしまいそうな顔をしてしまえばイチコロさ。」


「まあ別にグラッセル伯爵でもいいけど、個人的にあの偏屈そうな顔はごめんかな。変に苦労人気質が見えるというか、あんまりいい噂聞かないし。」


 困った顔で確かになと言い言葉を続ける。


「例の許嫁の婚約破棄もあるしな、けどああ見えて考え方自体は結構柔軟な人だぜ。まあ苦労人気質ってのは間違っちゃいねえが……。」


「なら私はグラッセル伯爵はパス、正直顔が好みじゃないし。」


「そっか、それで俺がいない間にグラシアムがどうなったか教えてくれないか。」


 飲みかけのワインを一端テーブルに置き、真面目な顔でこちらを見てくる。そして今日一日あったことこ事細かに説明するのであった。説明を聞いて大きなため息にも似た息遣いが聞こえる、こうする彼は大体困った時にする癖の一つであったことから相当困っているのだろう。


「……正直荒唐無稽というほかないが、そんなことがあったんだな。」


「私も嘘だと思いたいけど、全部本当。このことはほかには絶対言わないでよ。」


「言うわけないだろ、というかまだ未来視とは決まったわけではないだろ。あくまでそう感じたというだけだろ?」


「それはそうだけど、でも間違いないとは思うの。感が多分に入ってるのは間違いないけど、でも間違ってるとも思ってないから。」


 そうか、と彼が言いしばらく考え込む。その顔を見ていれば相当な熟考をしているのであろうしかめっ面にも見える。彼なりに考え、答えを出してきた。


「多分魔術的測定方法では確定方法としては不適格で、そして一対一の戦いでも同様だ。だから二対二での模擬戦、できれば二対一の戦局の形成が必要だな。理由はわかるな?」


 彼の言わんとしていることは理解できる。グラシアムの意識外からの攻撃によって存在の実証をするのだということであろう。もし未来視なのであれば意識外からの攻撃でも対応してくるはずであり、もしグラシアムが対応すれば未来視が確定するというわけである。確かに確証としてはそのような手順を踏まなければただの推測でしかないという彼の批判もあるのだろう。


 やはりマックスに相談して正解であった、このように私に足りない部分を彼は理解し批判してくれる。まあイラつかないかと言われればイラつくが正直ありがたかった。


「ありがとう、また今度訓練の時とかに試してみるよ。」


「ういよ、っと俺もそろそろ誰かと踊らないとな。それじゃあま――。」


「待って!!」


 声を掛けてしまった、声を掛けてしまった!!たった一言彼に伝えようとすれば緊張の糸が張り詰めるのがわかる。この一言喋るだけでも唾をのみ込み、吃音のように言葉を発するのが難しくなる。そういえばどうして声を掛けたのだろうか、離れるとわかった瞬間に出たこの気持ちは一体何なのだろう。彼のことを考えると心臓が高鳴り、彼がどこかに行こうとすれば胸が引き裂かれるように感じる。ワインを飲み過ぎて変にでもなってしまった気分である。それともこの場の空気に酔ってしまったのだろうか、混迷とした私の気持ちに私自身が全く理解ができなかった。そんな中でも必死に声を出す。


「あ、あの。私と、一緒に……」


「一緒に?」


 あと一言、一言を必死に紡ぎ出す。私はこんなところで後悔をしたくなかった、失敗しなくなかった、苦しくなりたくなかった。


「踊って、くれませんか。」


 それを聞いたマックスは優しく笑顔で答える。


「いいぜ、ちょうど始まる前だな。ではグラシアムの花のように身目麗しいお嬢さん、僕と一緒に朝まで踊り狂いましょう。」


 今や古典文学の一つとなった騎士物語の一節をもって誘ってくるのである。ならばこちらも応えなければならなかった。


「強きものよ、貴方の求めに応じ貴方の傍におりましょう。」


 騎士物語とは風景も背景も違うものの、二人の間の空間はまさしくかの文学の如く甘くも儚い若々しくあった。その古典をよく読んでいた聴衆は二人の会話から今後の展開までそれぞれ妄想に近いものを話し合い、知らない聴衆たちは二人の馴初めだと見ているのであった。二人は列の後ろ側に並び、しばらくすれば再度同じ曲が流れる。二人は流れる曲を零れんばかりの笑みで踊るのであった。タップも回転も、難なくこなし踊る踊る。遠目から見ていたあの士官候補生も物悲しそうな目で二人の光景を見つめていた。だが今は楽しかった。この苦しかったこの心に、胸にぽっかり空いた空虚な場所に温かなものが流れ込んでくる。そして満たされていく心はあの一件で傷ついた私自身を癒し、自然と笑みが零れる反応を見せた。


 思えば不思議であった、今日マックスにあった時も、毎朝合う時も、いつもこんな感じではないのだが今日は一段と近くにいることを感じてしまう。そんな彼が近くにいると強く、強く感じれば感じるほどに心臓の猛りが激しくなり顔も高潮し始める。こんなにも嬉しい、正しい言葉ではないのだろうが嬉しいことはなかった。十分ほどの時間ずっと踊り、終わるころには真っ赤な顔となっていた。するとその様子を見たマックスは額から汗を流しながら、ハンカチをこちらへと渡そうとしてくる。


「ミズキ、使えよ。珍しく顔真っ赤だぞ。」


 流れるその汗、自身のことを置いておいて私のことを心配してくれる。そんなリアルに自身の乙女心が突き動かされる。急ぎ真っ赤な顔でそっぽを向き、彼からハンカチを奪うように取り汗を拭う。そして乱雑に彼に返すのであった。


「今日は特別だからね、その、今日のことは誰にも言わないでね。」


「お前なあ、こんなこと恥ずかしくて言えねえだろ。ったく……。」


 ただ彼もじれったそうな声を出し、困っているようであった。ただ彼の顔を見ることはできなかった。いや見てしまえば嬉しくてさっきから崩れない笑みが見えてしまうからである。この笑みはどうやっても現れては私を困らせていた。二人は近くの壁の元へと歩いて行き、壁に寄り添いただ漠然と社交界での時間を過ごす。ワインをゆっくりと飲み、あの衝動も、慟哭にも似た心臓の猛りも収まりつつありやっと素面に戻れたのであろう。そうして彼の顔を見て小さく言うのであった。


「ありがとうマックス……」

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