第6話 千年王国 マルグフスト

 目を覚ませば、あるべき空には天蓋が掛かっており地面が揺れている。明瞭な夢に怪訝な思いを抱きつつ、寝心地の良い枕の様なものから頭を起こし周囲を確認する。隣には一般的に服装に身を包んだ白銀の騎士らしき女性がいた。その位置から枕だと思ってしまったものは彼女の腿であり、彼女はずっと膝枕をしていてくれたのだろう。その他には連邦の軍装に身を包んだ兵たちがいたものの、どの人もどこかしら負傷していた。


「ミコト、さん。ここは?」


 彼女も寝ていたのか、ビクッと反応するのが見える。以外と無防備な姿に一抹の不安を感じてしまった。


「あっ、グレシアム様。私はミーシャですよ、ミコトとは誰なのですか?」


「いや、夢で貴方のことを見ちゃって、ミコトって呼んでいる黒い騎士がいたかな。お兄さんちょっとタイプだったなぁ。」


 ミーシャと名乗った彼女は戸惑う様子を見せないものの、んーと思案する声を上げていた。あの夢はなんだったのだろうか、明瞭な夢見は未来を見る者にしかとは聞いたことがあるものの、自分にはその才がないはずだった。


「多分気絶する前に私の姿を見たからじゃないですかね。ほら夢って以外と寝る前考えてたことが出てきたりしないですか?」


「そうかなぁ、絶対貴方の過去だと思ったんだけどなぁ。」


 自分の記憶を疑いながら外に目をやる。空は青天、地には金色の麦畑が広がり、多くの人間が畑で働いていた。時折、連邦でもそうそう見ない形の風車が所々に並んでいる。連邦では四枚羽に対してこちらでは三枚羽である風車はその風体自体同じであっても、その在りようは違うのである。技術はこちらの方が上とはまことしやかに噂されているもののそれがどの程度の物なのか実感がなかった。これも技術があるからあの形になるのだろうか。


「ねえ、ミーシャ。ここって王国よね。」


 風車の形から考えうる答えを聞いてみる。そうすると彼女は申し訳なさそうに答えてくれた。


「そうです。あの場所では治療ができず死んでしまうと思ったので……。」


 やはりそうかと思う。確かにあの状況では治療さえ満足に受けられなかっただろう。その点に関しては感謝するしかない。しかし姉妹たちと一言も話せずにここまで流れてきたことは非常に心残りであった。姉の安否も知らずに、頼まれた妹たちをほっぽり出す形でこの地にいる。そんな現実が今の私を責任放棄したと責め立てる自分自身がいた。苦しい、胸がとても苦しく感じる。この感覚は感じたことのないほどに痛みとなって、翳りを見せる心を串刺しにしていくようだった。


「申し訳ありません、でもいつかは戻れますよ。私が付いているんですから。」


 自身ありげに胸を張るものの、彼女には一体何ができるのだろうか。少し聞いてみることとする。」


「自身に自信ありげですけど、何かできるのですか?」


「んー、やはりこの腕っぷしでしょうか。頭脳仕事はあんまりしたくはありません、まあ否が応でも使わされるのがつらいとこですけど。」


 想像以上に脳みそ筋肉ではないらしいが、まあ生きるために必要なこともあったのだろう苦労は想像に難くなかった。連邦でも弱者は搾取され強者の餌となるのが宿命であり、奴隷制を維持している分その価値観は強烈な物として存在していた。そんな弱者にならないために考え抜いて生き抜かねばならない現実が毎日であった。


 私なんて子供のころ奴隷になってもおかしくない境遇であったものの、先生に出逢えその運命にはならなかった。感謝しつつも勉強して少しでも弱者にならぬように日々を過ごししていたのだが、それが試されるかの様な現実となっていた。現にその身一つで王国に向かっており、身寄りのない女性二人、社会的に考えれば弱者であり間違いなく危険である。しかしこの現実を乗り越えなければならない、そのための目標もあるのだ。弱った心に決意と期待の火が心を仄かに暖かくし、少しは気分が楽になる。


 田園風景を背景に馬車は牛歩ながらも確かに進んでいく、道中物珍しそうに見つめる労働者たち、はちきれんばかりに手を振る子供も見える。それに対して比較的傷の軽い兵士たちが手を振り返したり、軽口を言っていた。負傷兵たちを見返せば少し前に戦闘していた内では不安げな顔をしていたものの、一抹の不安すら消えた安らかな表情であった。下手に腹など撃たなければ助かったのかと、銃弾を撃ち込んだ兵士に対して憐憫にも似た思いが噴き出してくる。


「しかしこの地域は良い土地だな。戦乱に明け暮れていた土地とは思えないほどだ。」


「え、そうなんですか。信じられない……」


「ああそうだ、私が生きていた時なんて豊かな土地を奪い合い、家をなくした男たちが傭兵になったり、他人の女を略奪しあって酷い土地だったよ。本当に。」


 その顔は優しく、晴れ晴れした顔つきであり、本当に悲惨な土地であるのだと感じられないほどであった。それもそうであろう、ここには城塞跡といった構築物は存在しておらずただただ金色が成る畑と風車、遠くに街らしきものぐらいしかなかった。


「とても長い時間をかけてここまで、でもなんでこんな平和になったのですか。」


「それはね、偉大な王が居られたからだ。それはそれは偉大な王で、技術を発展させ、技術発展から生まれる力によって分裂状態の国家群を半ば強引に併合したのだ。」


「そして長い時間をかけて、力に依らない発展を進めるしかなかったわけだ。なにせ力である武力の保持は認められなかったからね。」


「そうなんだ、王国史も学んでおけばよかったなぁ。」


「何、その生き証人の私がいるではないか。教えてやってもいいぞ、私の好きな分野だからな。」


「ははは、まあ今度聞かせてね。暖かで気持ちがいいね。」


「そうだな、ここは本当にここの太陽は心地が良い。」


 ポカポカ陽気の中、負傷兵たちを乗せた馬車に揺られながら黄金で包まれた畦道を進んでいく。彼方まで地を埋め尽くす麦畑に太陽が照らされ、その地域の宝のように輝いていた。


 


 あの黄金の地から離れて数時間、馬車に揺られながら外の光景をずっと眺めていた。移動する中、足を動かしてみたりするものの銃弾を受けた足はなんとか動く程度には回復している。そうしているうちに景色は移り変わり、建物群がちらほらと見え始める。


 その建物たちは連邦の石造りの古臭い建物とそう違わない様子であり、ここが王国なのかと疑問に思う。違う点としてあげるのであれば誰も彼も貧相な服装に身を包み、貧民街に等しかった。連邦と結構似ているようで、都市の外にはこういう貧民街があったものだ。


「驚きましたか、ここが王国のいい点でもあり悪い点でどんな人間でも都市の外で生活できる環境です。連邦は奴隷制を含んだ形で追いつこうとしているものの、自由市民による国家形成がなされた王国は負けんだろう。」


 そうか、ここは多くの人が自由市民なのだ、しかし貧民街で過ごしている人々がみんな楽しそうに過ごしているという点も衝撃であった。


「でもこのど、自由市民って本当に生きているのかな。」


 彼らは本当に自由市民として、自分の意志で生きているのだろうか。物事を選べない被差別身分がそのように生きていること自体初めての知識であったために、純粋に気になったのだ。


「ええ、生きています。貧しいながらも精いっぱいに生きていますよ。」


「そうなんだ、奴隷のときの方がよかったこともあるんだろうなぁ。」


「それはあるでしょうね、ただ自由であることもこの国の成功の元ではあるだろう。良くも悪くも自由は大切なものだ。」


 そうなのかなと思いながらも、流れていく世界の中貧民街を見つめていた。


 貧民街に入って数分したぐらいだろうか、負傷者を乗せた馬車は停止し運転していた兵士が誰かと喋り始めた。中身と言えば連隊の名前と命令書を出しているようで、その確認が終われば馬車は再び動き出す。そこからだった。劇的に街並みが変化していき、道は石造りとなり車輪が石を削る音が鳴り始める。そして街と見れば連邦首都でなければそうは見ないほどに繁栄していたのだ。切り出した石と木でできた古い家々は見えず、レンガや見たこともないほど丁寧に彫られた石などで装丁された家や謎の金属棒が道の所々に生えて居た。余りの別世界に驚く声すら出ることはなかった。


「どうだ、これが南方の大都市ニューポリンズだ。最近の区画整理などで一新されたと聞いたがここまでとはな。」


「……ここって本当に都市なの。」


「ああ、間違いなくな。私もここまで変貌しているのは初めて見たものだがな。やっと名だたる北方都市に追いついたというところか。」


 その一言を聞いて、ふと思う。この規模の都市が北方にはまだまだあるのか、そんな国がすぐそばにあったのだという現実は非現実的な私をひどく驚愕したのだ。この疑問を率直に聞いてみる。


「まさかこんな都市がまだまだあるの?」


「ああ、王都ほどではないがこんな都市なら北にそれなりにあるな。」


 やはりそうであったか、その言葉は想定した分動揺は少なかった。しかししばらく滞在するであろうこの異空間に馴染めるのかという憂いがぬぐい切れないものの、車を曳く馬はそのような心を知らず、馬車が多数行きかう道を走っていき目的の場所へと走っていくのであった。


 人通りの多い主要道路を北へ進み、市街の中心地へと到着する。中心地はそれは観光をするのであれば美しい街であった。端正なその街並み、発色のよい赤のレンガに純白の石造りの建物たちがその風景を作り出していた。そして街の中心には昔の偉人らしき銅像が屹立するかのようにその巨躯が存在し、各方角へと抜ける道から多くの人や馬車が行き来している。巨象を中心点にし南には白く大きな建物が見える。周りには意匠の凝られた鉄の柵が周辺を覆っており、敷地内では馬車の到着を待っている人々が見えた。馬車はそのままその建物の中へと入り、入口付近で止まる。すると待っていた看護師らしき白装束の集団が次々と負傷者を運び出し、次々と建物内へと移動を始めた。グレシアムもその例に漏れず運びこまれることとなり、中に入れば清潔そうな白い部屋へと運ばれ治療が始まった。


 外科的治療と魔術を使用した治療は撃たれた後遺症を残すことなく回復させ、自分の足で立ち上がるほどができる状態となった。治療費についても軍属ということで無料となり、現状ではとてもありがたかった。なにせ私たちの財布すらないのだから。これからどうしようかと悩んでいる時、馬車が止まっている場所へ一人の騎兵が駆けてきた。その姿は将校の傍にいた人間で、顔つきは豚そっくりであった。瞬間武器を取ろうとしてしまい、今は武器を持っていない状態であることを理解するしかできなかった。ミーシャが手を振り、おお大尉じゃないかと声を掛けた。いつの間にか彼と知り合いとなっていたのだろうか、それとも何か裏でつながっているのか今は彼女も信じられない。彼は馬を降り、こちらへ小走りに寄ってくる。


「お主何をしに来たのだ。」


「はく、公爵閣下が二人を呼んで来いと言われましてね。こうして運ばれた場所へ向かってきたのですよ。」


 大尉と呼ばれた豚のような男はその豊か体躯からでる汗を拭きながら答える。王国の軍服らしき緑を基調とした服装に着替えており、不潔な顔つきに見合わず思いのほか似合ってはいた。


「それで、公爵の元へは徒歩で行けるのかね。」


「ええ、こちらにある邸宅にてお待ちです。こちらへ。」


 大尉は歩き出し、ミーシャはそれについて歩き出す。私も遅れずについていくこととする。しかし彼女と大尉の関係は一体なんなのだろう。あの時剣先を将校に向けたということは敵対関係なのだったのか、気絶している間に交友を深めたということか。二人の関係性に尽きぬ疑問が湧いてくる。その心には姉妹と先生以外の他者への不信感が介在していた。それはそのはず、彼女の根底には過去のあの一件が信頼というものを粉々に打ち砕いたのだから。


「大丈夫ですか、グレシアム。先ほどから何も喋らないようですが。」


 ミーシャが心配そうな顔で見つめてくる。彼女はいつものように答えた。うん、問題ないよと。彼女の含み笑いを含んだ言葉にはあまりに痛々しげであり、ミーシャはそれを深くは追求はしなかった。


「しかしこの街も随分と変わったな、かの公爵殿の計画の賜物か?」


「えっ、ああまあ公爵閣下が計画なされ国王陛下に上奏なされた結果ではありますね。グラッセル公爵家や他公爵、伯爵など名だたる家からの出資や地元の名望家たちの支援あっての計画ですから。」


「なればこそ、この街は王国の未来の形なのかもしれんな。」


「ええ、郊外の貧民たちへの政策として就職先として工場の誘致なども進んでおり、国も関わって大きく変貌しようとしている。とてもいい街になりましたよ。」


「良い街か、そうなることを祈るばかりだ。」


 その言葉にはどうしても裏があるように思ってしまう。彼女にとっての良い街とはなんなのだろうか、今のグレシアムには要領を得ない答えばかりが妄想するように湧いてくる。グレシアムは思い切って尋ねることとした。そうすればこの不安を終わらせることができるのではないだろうか。


「そういえば、ミーシャってこの街がいい街じゃないの?」


「いい街だとも、だがまだ良い街ではないと思うな。」


「それはなんで?」


 ミーシャは困った表情になる、彼女にも未だ言語化が難しい領域ではあったが何とか紡ぎ出すのが彼女なりの誠意ではあった。


「私は、そうだな。やはり全ての民や人が健やかに育ち、静かに死ねる街、いや国にしたいと思っている。」


 良くわからないことを言うなとまず考えてしまう。静かに死ねる国とは一体全体なんなのだろうか、彼女は一体何をしたいのだろうか。漠然とした回答には漠然としたものしか生まなかった。


 その後もしばらく歩き、またも中央へと戻り西の道路を歩いて行く。荷台の上から眺めた風景は歩いてみればまた違う風景となって見える。街は比較的清潔であり、街並みを眺めても飽きることのない意匠の凝られた様式、さらにミーシャの知り合いの紳士の邸宅はそれは小さな宮殿と言わんばかりに紋章の意匠が込められた鉄柵、小さな庭園には過去の文明の残滓らしき朽ちながらもそこにあると感じざる負えない物があった。人型ながらも朽ちる姿には詫び寂びがあると紹介していた。彼がいなかったことにより中の美術品を紹介できずに無念とミーシャは悔しそうにいた。、なぜに甲斐甲斐しくも会話をしてこようとするのだろうか、それが気になってしまった。


 そんな紳士の邸宅を離れ、今度こそ公爵の別邸に到着する。別邸は紳士の邸宅に比べれば質素さが感じられる。そこら辺にある住宅地とそう変わりはないものの、入口前には小さな庭が備えられており担当の召使いが花の手入れをしていた。入口へと続くレンガの上を歩き、大尉はドアを三回ノックしたのちドアから離れる。ドアが開き、非常に高価そうな執事服を着こなす紳士が姿を現した。


「大尉殿、お待ちしておりました。お坊ちゃまは応接室におられます。どうぞおはいり下さい。」


「これはメーフィス殿、いつもすみませんね。ほら行くぞ。」


 失礼しまーすと呟きながら恐る恐る足を踏み入れる。入口から見える範囲で入口では右に階段、左に廊下があり大尉は廊下側へ歩いて行く。その後ろをついていき、廊下を歩いていると壁に様々な絵画が飾られ、高そうな壺に生け花がされており、その机まで細かな装飾がなされていた。これ一本いくらするのかを考えれば触れる勇気すらでなかった。入口から数えて三つ目のドアの前につくと扉を三回ノックし、入る。


「アルフレース大尉只今参上致しました。要件のある二人もつれてきました。」


 軍人らしくも仰々しさを感じない敬礼を見せ、彼とこの大尉の関係性が若干見えたような気がする。長い付き合いがある人間なのだろう。白いシャツに黒いスーツの様な紳士服に身を包んだあの将校が対面するように備え付けられた長椅子に腰掛け、純白のティーカップに口をつけていた。


「ご苦労だった大尉、この件はいつものように。」


「はい、後で御代を頂ければ。」


 大尉は笑顔で敬礼し、その場を去っていく。大尉は俗物的な人物であったが、彼もそうなのだろうか。緊張で唾を飲み込む。息が激しく、短くなる。私の足を撃った張本人が一体何をするつもりなのか、気になることが多くあった。長椅子に座り、話を聞くこととする。


「まずは私のお願いについて聞いてくれてありがとう。そしてそちらの少女には申し訳ないことをした、その足は戻ったか?」


 皮肉を一発ぶち込んでやろうかと思ったものの、理知的な場でそのようなことを発するほど教育が悪いわけではなかった。むかむかする心を落ち着かせ、できうる限りどういう意図があるのか聞きだすつもりであった。


「ええ、こちらの治療魔術がよかったみたいです。何不自由ありませんよ。しかしなぜ私のような者をこのように助けてくれるのですか。」


「ふむ、それは簡単なこと。その女性と契約をしましたからね、助ける代わりに命は取らぬと。」


「なるほど、ではこれ以上ここにいる必要もないわけですね。」


 すると扉をノックする音がする。彼の入れという言葉と共にドアが開き、メイドの一人が一礼し二つの純白のティーカップを盆にのせ運んできた。こちら側にティーカップを置き、そのまま一礼しメイドの一人は戻っていく。ティーカップの中からは芳醇な茶の香りが漂い、鼻孔の奥まで吸い込みたいほどに美味しそうな匂いがする。


「まあそういわず、少し楽しんでいきたまえ。うちの名産の一つだよ。」


 グレシアムとミーシャ二人はそのお茶を頂くことにし、口をつけ液体が口腔の中へと流れていく。鼻では感じられなかった味が口の中を染め上げていく。今の今まで味わったことのない上品かつ濃い味に恋をしてしまったかのように、最後まで飲んでしまう。最後には冷たさがのど越しの良さを作り出していた。


「これは旨いな、もっと南方でしか味わえないこの味、私は気に入ったぞ!」


「確かにすごくおいしい、ここの名産なんですね……」


「そうだろう、私のお気に入りの銘柄だ。気に入って貰えてよかったよ。」


 失礼と言い、彼は外で外に待機しているメイドに声を掛けもう一杯淹れるように伝える。しばらくするともう一杯運ばれ、それを満足するまで堪能しつくこととなった。


「さて名前を言い損ねていたね。私の名はマーティン・グラッセルだ。今はこちらの名で呼んでくれて構わない。」


「あっすみません、私アーセル・グレシアムです。」


「グレシアム、孤高の白い花、花言葉は純真。親はいい名前を着けたものだな、名づけ親はかなりの知性をお持ちのようだね。」


「そうなのですか、私全然由来なんて知らなかったです。」


「だろうね、今では読まれなくなった王国騎士道物語という古典の一つに”彼女はグラシアムを一つ彼に捧げた”と一文があってね。昨今では中々見ない美しい名前だ。」


 自分の名前がそんな古典から名付けられたことは初耳であり、驚きであった。その上あんな父でもそれなりの教養があったとはさらに驚嘆を覚える。


「ああ、あの御伽噺か。私の小さなころからよく聞かされたものだ。」


「そうなのですね、貴方も嗜んでいらっしゃったのですね。美しい詩で私は好きなのですが、殉職する場面にはいつも心を引き裂かれるあの気持ち、何度読んでも読みたくなる作品です。」


「だな。ただ私は私は姫を守るための決闘が好きだがな。軽やかな動きを想像するに容易いあの文には今でも脳裏に浮かぶぞ。」


 二人は王国騎士道物語についてあれやこれやと語りだし、賑やかな様子を醸し出してきた。なんだか緊張で張り詰めた私が馬鹿みたいであった。家ではこんな風に誰かと喋れたのだろうなと今は無き、過去の残滓に身を寄せる。過去の残滓に浸るとただただ心が辛くなってくるばかりであり、ただ帰りたいという心が強くなる自身の心を感じざる負えなかった。


「グレシアムも読んでみないか、新訳の奴をうちの家庭教師が出していてね。一冊贈呈しよう。」


 マーティンは後ろの棚に飾っている一冊の本をとり、渡してくた。その話に興味がないわけではなかった、しかし今は――。」


「ありがとうございます。それで連邦に帰りたいのですが、帰していただけるのですよね。」


「ふむ、それについては今は難しいということだ。君たちは我々を見てしまった故に帰す訳にはいかない、そして彼女、白銀の騎士も本来は我々の所有物の一つだ。」


「見てしまったことは誰にも言いませんし、彼女も、彼女は。」


 言葉に詰る。彼女を置いていく、その一言が今のグレシアムには言えなかった。それもそうである、ミーシャがいなければあそこで死んでいただろうし、何より救ってくれた恩人に対してそのような惨い仕打ちに父が賛同するとは到底思えなかった。彼女の顔を見ても、彼女は信じる目つきでこちらを見るのみであり、その無言の圧が重責となって身体にのしかかる。今の彼女にはそのようなことはできなかった。


「一緒に帰ります。それが私の要求です!」


 ミーシャの顔は安らかながら嬉しそうに微笑むのが見える。グレシアムにはミーシャの信頼に応えなければならない重責、そんな彼女を売ろうとした自己の浅はかで卑劣な自身への批判で胸が張り裂けそうであった。


「要求についてはまあ想定どうりだな。何そう悪い待遇にはせん、しばらくこちらに泊まって王国でも見ていくといい。家はここの二階に上がって突き当りの部屋を使うといい、後はここでの紙幣だ持って行きなさい。」


 部屋の鍵と十枚ほどの紙幣をテーブルの上に置くものの、彼は一体何を考えているのだろうか。ただもらえるものは貰うことにし、感謝を伝えその場を去ることとする。彼は残った茶を静かに飲み、その場を後にする彼女たちを追うことはしなかった。


 応接室の扉を開け、外にでると執事のメーフィスが廊下で待っていたのか声を掛けてくた。


「夕餉の時刻は七時となっております、それまでに戻っていただければ食堂へ案内いたします。」


「あっはい、わかりました。ありがとうございます。」


 グレシアムは一礼してそのまま外へと出ていく、そんな中ふと先ほどの応対について、またここに戻ってお世話になってしまうこと、この前提で話してしまったことに失敗したかなと思ってしまった。執事は短くいってらっしゃいませと一礼し、送り出したのであった。

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