106 彼女の執着③

「愛じゃない……? じゃあ……、私が今までやってきたのは……なんなの?」

「こっちを見て……、雪乃が今やってるのを見て……、これが本物の愛だと思う? 本当にそう思う……? ちゃんと見てくれ」

「どうしてそんなことを言うの……? 私はずっと朝陽くんのために……、中学生の頃から頑張ってきたのに……」

「…………」


 そんなことしなくても俺は胡桃沢さんを離れたりしない。

 可愛くて優しい胡桃沢さんがこんな俺と付き合ってくれるなんて、それ自体が幸運だと思っていた。だから、ずっと彼女のそばでたくさんの思い出を作りたかった。今もその気持ちだけはずっと変わらず、俺の中に残っている。


 人生に何もなかったのは俺も一緒だから、俺も胡桃沢さんしかいない。

 普通の人生を生きてきた俺に……胡桃沢さんは特別な存在だった。


 だから、これを言うしかない。


「お父さんのことはどうでもいい。でも、朝陽くんはダメ……。お金よりも大切な人だから……。私もどうしたらこのつらい記憶から逃げられるのか分からない……」

「解放して……、どこにも行かないから……。雪乃」

「やっとここまできたよ……。あの人たちから私の物をちゃんと守ったのに……。なのに、今は私のことがいらないって言ってる……。朝陽くんはそう言ってる!!」

「違う! ちゃんと聞け! 雪乃……!」


 ぼとぼと……。涙を流す胡桃沢さん。

 頬を伝うその涙を拭いてあげたかったけど、あいにく両手が縛られていて何もできない状況だった。それになんか苦しそうに見える……。俺が言ったことが胡桃沢さんを刺激したのか、それでもそれは言うべきことだった。あれから一年半……、ずっと我慢してきたから……、だからちゃんと言うしかない。ごめん、胡桃沢さん。


 それは俺たちのためだから———。


「ああ……、涙が止まらない。止まらないよ! 朝陽くん……、どうしたらいいの? 分からない。分からないよ……」

「落ち着いて! 雪乃……」

「もう……朝陽くんの話は聞きたくない。私は……私は間違ってない。私がやってきたのは何一つ間違ってないよ! 私はお母さんと違うから……!!!」


 どんどん声を上げる胡桃沢さんが、少しやばそうに見えた。


「違う……。私は違う、朝陽くんは私の物でしょ? そうでしょ?」

「だから……お、落ち着いて! ここにいるから……」

「…………」


 何を言ってもダメなのか……。

 手足を縛られて全然動けない。それに彼女の状態もやばそうに見えるから、緊張して心がドキドキする。


「なかったことにして、先言ったのは全部嘘って言ってよ……! 私の愛を否定しないで!!!」

「…………そんなことをしても、何も変わらない。雪乃は知ってるはずだ……」

「聞きたくない! 聞きたくない!」


 声を上げる胡桃沢さんは俺をベッドに倒してすぐキスをした。

 冷えている体と温かい口の中……、彼女の震えている唇と指先が感じられる。その不安を、それだけをどうにかしたらいつもの胡桃沢さんに戻ってくるはずなのに。なんで、そんなに怖がってるんだ……。一体何が問題なんだ? 分からなかった。


「私のこと、好きだよね?」

「うん。好きだよ。雪乃……。だから———」

「じゃあ、一緒に死のう……」

「えっ? 今、なんって」


 隠していた包丁を取り出す雪乃。


「私は今のままがいい!! 朝陽くんが私のそばにいてくれるのがいい!! そばにいないと朝陽くんは私に飽きて……、他の女といやらしいことをするかもしれないから。変な友達ができて、私より友達の方を優先するかもしれないから!! 私に従うのが嫌だったらこのまま一緒に死のう……。私には朝陽くんしかいないから……、もう他の男はいらない……。死ぬ時まで一緒だよ———」

「ゆ、雪乃……! 待って、待って!! 雪乃!!」

「…………」


 目の前に包丁がある……。

 もし、ここで俺の選択が間違ったら……彼女に殺されるのか?


「そ、そんな選択肢しかないの?」

「彼女がいるのに他の女と話す彼氏がそんなことを言うの……? 朝陽くんはずっとそうだったよ。約束するって言ったくせに、私しかいないって言ったくせに。いつも他のことを優先するから……。ずっと朝陽くんだけを見てきた私は裏切られたよ。悪いのは……朝陽くんだよ……」

「違う! 頼むから、そんな風に考えないで……。それはただの……!」

「ねえ。私がそんなに嫌って言ったのに、それを無視したのも朝陽くんでしょ? 何言ってんの? それとこれと一緒だよ?」


 やはり、話が通じない……。

 

「そう。もう卒業だから、卒業した後に言ってあげたかったけど……」

「ん……?」

「私のお腹には……朝陽くんの子供がいるよ……?」


 耳元から聞こえる胡桃沢さんのとんでもない話、俺は信じられなかった。


「雪乃……? 嘘だろ?」

「本当に嘘だと思うの……? 朝陽くんは私とずっとやってたでしょ? エッチなことを、毎晩……」

「…………」

「だから、朝陽くんが選んで……。私に従うのか、あるいはみんなここで死ぬのか」


 そう言ってから両手で包丁を握る胡桃沢さん。

 切っ先がこっちを向いていた。


「…………雪乃、雪乃!!!」

「三……」

「頼むから、やめてくれぇ…………」

「二…………」

「雪乃…………」


 この恋はやはり間違っている。


「一…………」

「…………ユッ……」

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