第103話:対価を求めてしまったら、愛でなくなる気がして

「来たわね」


 ややくたびれた表情でメトと俺を部屋に迎え入れる賢者エメラの声は、その表情に似合った疲労の色をにじませていた。

 読めばそれだけでとりあえず使いこなせるレベルで習得できるとかいうこの世界きってのインチキアイテムである魔導書として、理論の概要が自分の頭の中にあるだけの術式を書き起こす作業は、賢者エメラをして相当の疲労を伴う行為であったようだ。


 俺は収納魔術からタオルと水筒を取り出し、タオルを軽く濡らしてから出力をごくわずかに絞った《バーストボルト》で温め、賢者エメラに手渡した。

 即席の蒸しタオルだ。

 まあ、紡糸技術というか紡績技術というか、そのあたりの技術レベルの関係で、布地の品質は前の世界のものよりは低いのだが、ともかく不潔でなければ問題はないだろう。


 賢者エメラは一瞬俺の意図が読めなかったようだが、疲労感からくる欲求がそのまま使い方だと理解したのか、タオルで顔、特に目元を念入りに拭った。


 賢者エメラにはこれからも知的労働を頑張ってもらう予定であるし、近いうちに魔物の素材からホットアイマスクのようなものでも開発してみよう。


「フェイトはすぐそういうことしますよね」


「まあ、ご主人様ですから」


 何故だろう。メトと戦乙女の視線が冷たい気がする。


 ひとまずメト達の視線は気にしないことにして賢者エメラの傍らの机に目を向けると、4冊の魔導書が置かれていた。


「魔導書はそれか。一つだけ色が違うものが、俺が読むべき魔導書と理解していいか」


 賢者エメラが言っていた術式は、魂を預ける側と受け入れる側それぞれが、預けるため、受け入れるための準備ができていなければならない。


 そのための魔導書が、今、俺の目の前にある。

 なら、一人しかいない受け入れる側である俺用の魔導書が、一つであるはずだ。


「ええ。残りは、私達のぶんよ」


 タオルで顔をひとしきり拭ったエメラの答えを受けて、俺は自分用だと確認できたほうの魔導書を手に取った。

 そのまま部屋にある椅子に腰かけ、時間を止めて魔導書を読む。


「うへぇ……」


 思わず声が出た。


 その内容の難解さに、ではない。

 その内容のおぞましさに、だ。

 いや、これをおぞましいと考えるのは、俺の感性ゆえだろう。


 他者の魂を己の内に受け入れることは、孤独の完全なる否定だ。

 俺自身の、信仰の完全なる放棄を意味する。


(大丈夫。大丈夫よ)


 何故だろう。孤独の女神の神託にも全く安心できない。


 主神の神託を信じられない、か。

 既に俺は、信仰心を失ってしまっているのだろうか。


「クソッ」


 考えたくもない可能性を振りほどき、俺は魔導書を読み込んだ。


「ふぅ……」


 俺が元の時間に戻り、頭痛をこらえて魔導書の灰を握りつぶして席を立った時、賢者エメラと戦乙女は驚いたような顔をしていた。

 そういえば、二人の前で時間を止めるのは初めてだったか。

 メトの前では何度もやっているから、メトが驚いていないこと含めて、それが原因と考えて間違いないだろう。


「速度、いまいくつくらいなの?」


 俺が一瞬で魔導書を読み終えたことでいろいろ察したのか、賢者エメラは端的に聞いてきた。

 そして、それは俺が予想していた可能性の範囲内だ。


「桁を数えるのが面倒なくらいだな」


 だから、俺もさして考える間をおかず、端的に応えることができた。


「そんなに……」


 賢者エメラが何故か、難しい顔になる。


「何か問題があるのか?」


「術式の効果に支障はないわ。ただ……」


 賢者エメラは珍しく目を泳がせ、言葉を濁した。


「ただ?」


 術式に問題がないとせば、何か。

 固唾をのんで待つ俺に、賢者エメラは数秒の沈黙ののち、意を決して口を開いた。


「なんでかしら。あなたを好きな気持ちに、実益がついてくるというのが今更嫌になった、と言ったら、伝わるかしら」


 賢者エメラの言いたいことが、俺にはよくわかった。

 俺が信仰に実益を求めない理由が、まさにそれだからだ。


「……分かる気がする。何故だろうな。大切なものを大切にすることに対価があると、対価のためにやっているような気がして気持ち悪い。……どうだろうか」


 今回については、最初からそういう術式を作るという事ではあったが、その実益の大きさに驚いて、実感した、といったところだろう。


 ……俺は、彼女の思考に正しく共感を示せているだろうか。

 沈黙の時間が、そのまま気まずさを膨れ上がらせる数秒間。

 それは、賢者エメラが俺の言葉を反芻し、自分の感じているものを言い換えれば俺の言葉になるかどうかを検証する時間だった。


「……たぶん、そういう感じよ」


 最終的に賢者エメラが首肯を返したとき、メトと戦乙女が顔を見合わせて首を傾げた。


「戦乙女さん、フェイトとエメラさんが言ってることの意味、分かりますか?」


 メトの言わんとすることもわからんではない。俺も賢者エメラも、どうでもいいことまで理詰めで考えすぎていて、傍から見れば面倒くさい奴である。

 そんなことは自覚しているのだ。少なくとも俺は。


「簡単で当たり前な感覚を言葉にしようともがき苦しんでる感じですね。例えば、メトさんがご主人様と毎日一緒にいたら一日1万サフィア差し上げますと言われたら、ご主人様と一緒にいたいから一緒にいるのか、お金のために一緒にいるのか分からなくなりそうで気持ち悪くないですか?」


 しかし、戦乙女の答えは、適切にメトに対する具体化がされており。


「その1万サフィアでフェイトに能力が上がる果物をいくつプレゼントできるかなって考えちゃいました……。絶対そういう事じゃないですよね」


 メトも、ややズレた感想を持ちつつも、それがずれていると理解する程度には戦乙女の言わんとすることを理解していた。


「あら、どうしましょう、フェイト。私達が感じていた気持ち悪さの完璧な解決策が見つかってしまったわね」


 言われて横を見れば、俺と一緒に二人のやり取りを見ていた賢者エメラがとても楽しそうに笑っていた。


「そうなのか?」


 今のやり取りのどこに、解決策があったのだろう。


 俺には全く分からないことに気付けるあたり、賢者エメラは俺よりずっと頭がいい。

 これからも魔術関連の研究をお願いできるだろうか。

 ……お願いも何も、今の俺は、彼女に命令できる立場か。


 彼女の首輪と自分の手首を見て、それを繋ぐ細い光の鎖を、自分が彼女の主である証を見て、俺は失笑する。


「ええ。あなたを好きな気持ちによって手に入れたものは、全部あなたのために使う。それだけで全部解決よ」


 俺の失笑を、理解の笑みだと理解したのか、賢者エメラはそう言った。

 なるほど、大切なものを大切にすることに対価があっても、その対価をもう一度大切なものを大切にすることに使えば、自分の手元に対価など残らない。

 気持ち悪さの解決としては、最も手っ取り早いと言っていいだろう。


 問題があるとすれば。


 今回の話題においては、俺こそが大切にされる大切なものであり、賢者エメラのような美姫にそこまで尽くされるのは、なんだかヒモみたいで気まずいということくらいか。


 なら、俺も同じことをすればいいか。

 貢がれたことに報いるだけの何かを。


 つまり、今の俺には、彼女たちの献身に報いるための何かを考える時間が必要だ。

 幸い、それはすぐに確保できる。


「……三人が魔導書を読み終えるまでどのくらいかかる?」


「そうね。時間を止めたりせずにゆっくりお風呂に入ってきてくれれば、その間に習得しておくわ」


 風呂に入る程度の時間か。

 まあ、悪くない。


「そうか。ありがとう。風呂に入ってくる。終わったら呼んでくれ」


 しばらく、一人でゆっくりくつろぐことにしよう。

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