第97話:怨念を超える愛

 最初に認識したのは、黒。

 全く同じ色を見ている目に映る視覚のちらつきすらない、理想イデアの黒。

 俺は、こんなにも深い黒で満たされた景色を知らない。

 そんなものが物理的に存在できると信じられない。

 そして、重力の感覚さえなかった。


 孤独の女神の聖域に似た、しかし色だけは真逆の空間。


 俺は、眠っているのか。

 何故か、そう確信できた。


「許さない……」


 その闇に響く、女の声。

 その怨嗟に満ちた声を、俺は知らなかった。

 俺を睨み据える女性の、燃え盛るルビーの瞳を、俺は知らなかった。

 深い森の奥の苔を思わせる、安心感すら覚える暗い緑の髪を、俺は知らなかった。

 触れるどころか近づくことさえ恐れ多く感じる、しかし、何故か抱きしめて慰めたいと思える華奢な体を、俺は知らなかった。


 そしてもう一つ、誤解のしようがないほど、確信できたことがあった。


「許さない、許さない、許さない……!」


 俺を睨み続ける女性の言葉に嘘はない。

 百億の言葉と千億の文字でも到底言い表せないほどの怒りを向けてくるこの深緑の女性に、俺は憎まれている。

 その憎悪が俺に向くことが妥当なのかはさておき、憎悪の実在と、その怒りの正当性だけは、間違いなく本物だ。


 だが、そもそもこの女性は何なのだろうか。

 孤独の女神にも似て、二次元しか愛せなかったはずの俺が睨まれてなお好意を抱く程度には美しい、この女性は誰なのか。

 この悲しい怒り顔を抱きしめて慰めたいという衝動を与えてくる、まるで覚えのないこの女性が誰なのか、全く分からない。


「私の大地を、私の子どもたちを奪ったエリステアが憎い! エリステアの主権簒奪に与した神々が憎い! 私との約束を忘れ、私の名前すら忘れ、神々に与して、やっとの思いで帰ってきた私を拒絶した子供たちが憎い! 許さない、許さない、許さないぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 エリステアとは誰なのか。

 主権とは何のことか。

 分からないことが多すぎて、その言葉の意味は半分も分からない。


 だが、最も重要なことが一つ、分かった。

 彼女が、邪神だ。


「許さない……! 許さないから……!」


 殺意とともに手を伸ばしてくる女性は、しかし遠ざかっていく。


 どうやら、俺はもう、この場にいられないらしい。


 すなわち、覚醒の刻限であった。



 目を覚ました時、俺は見たことがないベッドで寝ていた。


「「「「「「フェイト(君)(様)(きゅん)!」」」」」」


 体を起こした直後、口々に俺の名前を呼びながらベッドに駆け寄ってきたのは、女王、メト、王女アストレア、王女レイア、シャル、宮廷魔術師ジーナ、聖術師カノン、魔術師アリサ、戦乙女、賢者エメラ。


 俺の数少ない知り合いの大半がそこにいたことになる。

 この場にいない、俺が名前を知っている者といえば、戦士アレックス、剣士ヴェイン、狩人ジョセフに、この国にいないヴォータン王とナツミか。

 話をした事はあるが名前を聞いたことがない者まで含めればもう少し増えるのだろうが。

 ※ラルファス将軍は敵判定のため知り合いではない模様。


「最後に君と会ってから何日たった?」


 冒険者ギルドに向かう直前に話をした記憶がある賢者エメラに目を向けると、賢者エメラは窓の外を指さしながら答えた。


「1日もたっていないわ。もう夜だけれど」


 賢者エメラの言葉の通り、そこには星空が広がっていた。


「そうか。1日無駄にしてしまったな……」


 鍛錬の時間として考えれば1千万年分ほどの時間が消えたことになるか。


「フェイト様ぁぁぁぁぁ!」


 窓の外を見てため息をついたところで、腹に軽い衝撃を感じる。

 目を向ければ、王女アストレアが俺に抱きついて大泣きしていた。

 ずいぶんと、心配をかけてしまったらしい。


 どうすればいいのかわからず、視線をさまよわせると、戦乙女と目が合った。

 戦乙女は少し考えるようなそぶりを見せると、口を開く。


 どうやら、状況の説明を求められたと解釈したらしい。


「ご主人様は、永遠に眠り続ける呪いに蝕まれていたんです。ご主人様の中の、魔剣と名乗る精霊が、ご主人様の呪いを引き受けて……」


 戦乙女の言葉に、俺は能力を可視化する魔術で自分の能力を確認する。

 能力は低下していないらしく、魔剣の意識が眠っていてもその性能は発揮されていると考えてよさそうだが。


 そういう事ではない。


 いくら孤独を愛する俺といえど、仲間を失ったという事実は、やはり重い。


「魔剣さんは、私の手を使って、お別れの手紙を書いて行きました……」


 メトが差し出してくる手紙、遺書というべきそれを受け取り、目を通す。


「親愛なるマスターへ

 私が、邪神の呪いに気づかないまま、攻撃を受けて《身代わり人形》で撤退することを提案したせいでこのような事態となったことを、まずお詫びします。

 幸い、この呪いは肉体内に宿る意識ひとつを永遠の眠りの中に縛るものでした。

 ですから、マスターと肉体を共有している私に対象を移すことにしました。

 私の機能の全ては、マスターに権限移譲しておきます。

 私のことは、どうか気にしないでください。

 私の意識を排除することで、私の機能を使用する際の、私に命じるタイムラグをなくすことができた、そうお考え下さい。

 私を手にしても、力に溺れて破壊衝動に飲まれないマスターを失うことは、私にとって永遠の眠りよりも恐ろしいことなのです。

 災いをもたらす、封印すべき、忌むべき呪われた魔剣ではなく、あなたのもとで、ただの強力な武器でいられた時間が、私は何より幸せでした。

 さようなら、マスター。どうか、ご武運を」


 最後まで読んだその手紙を、俺は火炎魔術バーストボルトで燃やした。


 そのまま、天井を見上げる。


 そうしなければ、涙がこぼれてしまうから。


「勝手なことばかり言いやがる……俺の気も知らないで」


 気づけば、俺は左手を、最初に魔剣と融合した掌を顔の上にかざし、恨み言を言っていた。そこに魔剣の意識はないと分かっているのに。


 災いをもたらす呪われた魔剣として長らく封印されてきたから、ただの道具でいられた時間が幸せだったというのなら、道具らしく、性能が維持されていることに安心するだけでいてほしいと願う魔剣の気持ちは、想像できる。


 だが、そういう事ではない。

 そういう事では、ないのだ。


「私達、より、信頼、していた、のね」


 魔術師アリサの指摘は正しい。

 人と違って、まだ魔剣は信頼に値すると考えていた。


「フェイトきゅん……お姉さんが慰めt」「お前は黙れ!」


 鼻血を出しながらにじり寄ってきた聖術師カノンは宮廷魔術師ジーナにジャーマンスープレックスをぶちかまされた。

 そう言えば、この姉妹はショタコンだとか言っていたか。

 15歳前後に見える今の俺の外見がショタに該当するかは議論が起こりそうだが、少なくとも聖術師カノンの守備範囲には該当するらしい。


 こんな時でも、彼女たちは変わらない。


 そんな穏やかな光景を見ていれば、深呼吸する程度の冷静さは取り戻せた。

 ※ジャーマンスープレックスが穏やかな光景であるわけがない。


「魔剣が遺書を書いていたのなら、状況は伝わっていると考えていいか」


 尋ねると、王女レイアは首肯した。


「はい。邪神が皇龍に力を与え、それにフェイト様は、いえ、フェイト様たちは敗北し、撤退の際に呪いを受けたと伺っています」


 王女レイアの答えは、今知った事実を加味した俺の認識と合致する。

 ならばあとは今後の方針だが。


 俺は女王に目を向けた。


「やみくもに鍛錬を重ねて挑んでも同じ轍を踏みそうだ。邪神について調べたい。1000年以上前の遺跡がある場所を教えてほしい」


 まずは、邪神のことについて、可能な限り生の情報を集めたかった。


「王立図書館にある地図の写しを用意させるわ。ただし、今夜はゆっくり休むこと。いいわね?」


 女王に首肯を返し、俺はベッドから立ち上がった。

 王城ではなく、自宅で眠ろうと思ったのだが。


「動いちゃだめです! ここで寝ててください!」


 王女アストレアに怪力で組み伏せられ、そのまま寝る羽目になった。

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