第37話:少年の希望、少女の恋慕

 数十分後、獣欲に任せて一人の少女を穢した自己嫌悪に耐えながら眠ろうとあがくうち、ふと気づけば俺は見知らぬ場所にいた。


 いや、いくつかの不純物を取り除けば、それは俺の知っている場所だった。


 俺が寝ているらしい、知らないベッドの天蓋から目をそらせば、俺の目に入るのは、理想イデアの白。


 孤独の女神のおわす場所。

 孤独の狂信者たる俺にとっては、聖域に等しい空間。


 また、死んだのだろうか。

 女性メトと同衾するストレスで血圧が上がって脳溢血とかで。


「死んではいないわ」


 はっきりと聞こえる孤独の女神の声に、俺は振り返った。

 いや、寝返りを打った、と表現するべきだろう。

 重力の、上下の感覚がないとはいえ、俺は今、ベッドに寝ているのだから。


「辛そうだったから、こっちに呼んだわ」


 そう言って俺の頭に手を伸ばすのは、隣に寝ていた孤独の女神。


 微笑む小さな純白の少女の、アメジストの瞳を、俺はよく知っている。

 地に落ちた雪を思わせる、儚く華奢な体を、俺はよく知っている。

 触れるどころか近づくことさえ恐れ多く感じる、しかし、だからこそ自らの手で穢したい衝動を掻き立てる、無垢で不可侵なその姿を、俺はよく知っている。


 俺は、その姿をこそ、天上の美と信じ、敬愛している。

 いかな美の女神が目の前に現れようと、俺は目の前の女神に奪われているほどに心を奪われることはあるまい。


 逆に言えば、俺は心奪われた女性が他にいても、全く心奪われていない女性を、肉欲だけで抱ける節操なしであるわけだが。


「あなたはよくやった。たとえあなたが自分を軽蔑するようなやり方であっても、あの娘は、あの方法でしか救いえなかった。私がそう保証する。だから、胸を張りなさい」


 その女神が、俺の悪行を肯定する。

 あのような所業でしか、メトの苦しみを和らげることはできなかったと。

 たとえそれが、多くの人々から後ろ指をさされるようなことであったとしても。

 俺自身が、俺自身に恥じる行いであったとしても。


「大丈夫。ここにはあなたの安息の邪魔をする者は誰一人いないわ。不純物という意味では、私がそうかもしれないけれど」


 慈しむように、慰めるように、小さな少女の手が俺の頭を撫でる。

 それはやけに、俺を落ち着かせた。


 まるで、全てが死に絶えた世界の中心で眠るかのような安心感。


 他の誰といても、このような感覚になることはない。できない。

 孤独の女神のみが与えうる、極限の孤独感。


 きっともう、俺にとって、真の安息はここにしかないのだろう。

 この静寂を知ってしまった俺には。


「よかった。……おやすみなさい。愛しい人。嫌なことは忘れていいから」


 女神の腕に抱かれて、俺は数日ぶりにぐっすりと眠ることができた。



 しばらく息苦しそうにしていた、今は静かに眠る主人の少年の隣で、未だ消えぬ悦楽の余韻に浸りながら、奴隷の少女は少年の愛をかみしめていた。


 無論、少女も理解している。

 少年は特定の誰かを大切に思うような人物ではない。

 それでも。


 誰かと一緒にいること自体が苦痛だと放言してはばからない少年が、少女のために死に物狂いで肉欲をかき集めて、うまく眠れなくなるほどの慚愧と引き換えにしてでも少女を優しく抱いてくれたその献身を、愛と呼ばないのなら何と呼ぶのか、少女は知らなかった。


 少年はいつだってそうだった。


 初めて出会った時、少年は《誘引剤》に引かれてくる魔物を殺すのが目的だといって、少女に対して対価を求めることは一切しなかった。

 《誘引剤》をかけられて置き去りにされた少女にとって《誘引剤》を自らかぶるという少年の行為は、決して見捨てないと言ってくれているに等しかった。


 少女に対してだけでなく、多くの冒険者に武器を配ったり、他人用の武具を発注するために大金を放り出したり、戦利品を山ほど女王に献上したりと、少年の行動は、常に利他的で献身的なものばかりであった。


 少年は認めないだろうが、少女にとってそれは愛以外の何物でもなかった。


「私は、幸せです………でも」


 ともすれば歪かもしれない愛に満たされている幸福の中で、奴隷の少女は痛感する。


 少女が本当の意味で少年を満たせることは未来永劫無い。

 何故なら、少年にとっての、永遠の真実はただ一つ。名づけるなら『孤独欲』。


 誰もいない、自分だけの時間と空間で静かに眠る安息。


 それ以外は、全て不純物だ。


 迷宮で見せる闘争欲も物欲も、ギルドで見せる食欲や知識欲も、全て。

 魔物を殺し、ドロップ品や死体を戦利品とすることを、食事を、読書を少年が楽しんでいることは、確かな事実だ。

 だが、それは少年が一番ほしかったものではない。


 そして、奴隷の少女自身もまた、不純物だ。

 少年は、他の誰を欲することもあり得ない。

 少年の望む永遠に、むしろ少女は邪魔でしかない。


 それを、少女は正しく理解していた。


「ごめんなさい……フェイト……」


 少年は少女を欲してなどいなかった。

 関心すらなかった。

 それでも、少女が少年を欲したから、ありったけの肉欲をかき集めて、少女の求めに死に物狂いで応えて見せたのだ。


 だから。


 少女は、与えられたものだけで、十分に幸せだった。

 少年は少女を欲してくれないだろう。恋してくれないだろう。

 それでも、愛してくれる。献身を示してくれる。


 それで、十分だった。


 例え那由多の果てを超えても叶わぬ恋だとしても、それを知ってなお、どんなに応えて欲しいと望んでも。

 それでも。

 与えられたものだけで、少女は満足していた。


 たった2週間で抱くには、重すぎる感情だと自覚している。

 それでも。


 ―愛させてください。

 ―あなたを愛することを、許してください。


「愛してます、フェイト……」


 湧き上がる想いに任せて、少年が起きている間は決して口にできない、少年にとって暴力に等しい睦言を放つ。


 一方通行で構わない。見返りは求めない。

 これまで、少年がそうしてくれたように。


 だから。


「置いていかないで、ください……」


 少女は、眠っている少年の胸に、泣きながら頬ずりした。



 久々にぐっすり眠ったせいか、夢を見た。


 走馬灯のように俺の前に現れては消えていく、人の影。

 死ぬ前の、かすれた記憶。

 数多の、裏切り者たちの嘲笑。


 もう、その顔も、された仕打ちも思い出せないが。

 裏切られたことだけは、この魂が覚えている。

 吐き気とともに。


 元来、人間は他者を利用し、裏切る生き物だ。


 助け合いを訴えながら、自分が助ける側に回ることはない。

 何故なら、自分が一方的に助けられる側でいたいから。


 自らの不道徳は伏せ、外面だけは取り繕う。

 何故なら、よい世間体は自分の一方的な意見を押し付けるのに役立つから。


 自分が体現したことなどない道徳を賢しらに語り、他者に押し付ける。

 何故なら、そうすれば自分に迷惑をかける者はいなくなり、自分だけが他人に好きなだけ迷惑をかけられるから。


 俺の知る『人間』とは、そういうものだ。


 たまに外面を取り繕う目的で善行をすることもあるかもしれないが、それすらも外面を取り繕う目的、つまり裏切りへの布石に過ぎない。


 そんな連中ばかりなので、人間どもの目論見はうまくいかない。

 全員が裏切ろうと考えているなら、周りを出し抜いて自分だけが得したいと考えているなら、そこにあるのは凄絶なまでに醜い足の引っ張り合いでしかない。


 それを理解した少年の頃の俺は、だからこそ、自分だけでも清くあろうと心を固め、己をすり減らしてでもその在り方を貫いた。


 そして、当たり前のように、人間という生き物の習性である裏切りに直面し、嘲笑を浴び、いつも割を食わされてきた。


 今となっては、悪夢の中で俺を嘲笑う者達に賛同する。

 あの頃の俺は、間違いなく愚か者だった。

 本来の性質が悪である人間が、その本質に背いて善人であろうとする気狂いを見て改心するなどありえない。

 俺は、人間という種族の悪辣さを甘く見ていたのだ。


 その事実を理解し、それでも抗い、抗い、抗い続けて。


 やがて俺の精神が現実に屈し、裏切り者たちに餌をやることをやめたとき、俺の魂からは、人を信じ、愛し、助け合うための機能自体が失われていた。


 それは、正しい変化だと確信できる。


 信じ、愛し、助け合うための機能など、存在してはならないのだ。

 人間とは、裏切り、憎しみ、足を引っ張り合うしか能がない生き物なのだから。


 だから、それでもと人を信じ続けた幼い頃の記憶の残滓が俺に与えるのは。


 吐き気だけだ。


「大丈夫ですよ。大丈夫……」


 ふと、誰かのはっきりとした声が聞こえた瞬間、俺を取り囲み、嘲笑を投げかけてきた黒い人影の姿が掻き消えた。


 次に、何者かに抱きしめられているかのような感覚。


 浮上する意識の中、寝起き特有のけだるさに顔を顰めながら目を開けると、目の前には、首輪をはめた栗色の髪の少女。


「起きました? えっと、大丈夫、ですか?」


「メトさん……?」


「はい」


 そういえば昨晩、同衾したのだったか。


 久々にぐっすり眠ったことで悪夢を見て、うなされていたのだろう。

 だから、メトが心配して今俺を覗き込んできている。


 状況を全て理解した俺は、宿の部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けて片隅に設置されているトイレに飛び込む。


「あ、照れてるんですねぇ?」


 メトの呑気な声が聞こえてくるが、俺は反論する余裕もなく、苦悶の表情を浮かべたままその場で膝をつき。


「おうろろろろろ!?」


「えええええええええええええええええええええええ!?」


 悪夢を見た寝覚めの吐き気に任せ、胃の内容物をトイレにぶちまけた。


 トイレから出て、水差しの水で口をゆすいでいると、唖然とした様子のメトのじっとりした視線がどうにも気になる。


 冷静に、自分の置かれた状況を振り返ってみよう。


 ①起きたらメトに抱きしめられていた。

 ②俺は覚醒すると同時にトイレで吐いた


 メトの視点では、起き抜けにメトが抱きついていたことが気持ち悪くて吐いた、とか誤解されていてもおかしくない。 


「すみません。たまに、吐くような悪夢を見ることがあるのです」


 俺は誤解を解くことにした。

 だが、メトはなお、悲しそうに目を伏せ続けている。


「わ、私のせい、ですかぁ……?」


 続くメトの言葉は、つまり、昨晩メトと関係を持ったことが悪夢の原因か、という意味であると解釈できる。

 その誤解も、解いておくに越したことはないだろう。


「いいえ。しいて言いうなら、かつて俺を裏切ってきた、数多の者達のせいです」


 俺は水差しの水を全て飲み干した。

 ……メトの分がなくなってしまったな。宿の主人に頼んで、貰ってくるか。

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