107
「……その話はしないでって言わなかったっけ。いきなりなあに?」
「うん? ちょっと尋ねたくなりまして。で、どう?」
「どうもこうも、人間は人魚になれないんでしょ?」
「なれる、と、なりたい、はまた別の話だよ。ねえ、どう?」
その発言は思春期ゆえのポエムのようなものであって、私としてはもう忘れ去りたいのに。真魚くんにとっては思い出深いのかもしれないけど、あんまり話題にしてほしくない。だけどはぐらかしても真魚くんはしつこく答えを探ってくるに違いない。
「今は思わない。もう私は水の中で泳ぐこともないし、人魚になる必要はないから。今の生活で十分です」
「そう、よかった」
私は真魚くんの横顔を見ながらぼんやり考える。人魚になりたいなんて、今は特に思わない。真魚くんに伝えたとおり私は今のままで十分幸せだ。他の幸せの形があるかもしれないなんて考えてしまうこともあるし、欲しいものが満足に得られているわけでもない。
それでも私は真魚くんとの、今ある幸せを大切にしたいと思っている。どんなに小さくて、他人から見てちっぽけなものでも。
「あ……でも真魚くんみたいな、バスルームの人魚ならちょっと憧れるかも」
「俺みたいな?」
「お風呂でまったりしてる人魚。お風呂でアイス食べたりさあ」
バスルームの中の人魚なんて、世界を閉ざしてひっそりと生きているものだと思っていたけど、思いのほか楽しそうだ。うちの人魚はバスルームでときどきジュースを飲んだりもするし、本を読んだりもしている。私がイメージしていたバスルームの人魚とはだいぶ違う気がする。
「それは人魚じゃなくてもできるでしょ。でも湯船の中で食べるアイスはまた格別なんだよなあ……あれ不思議だよね」
「ふふ。あとで言おうと思ってたんだけど、実は冷凍庫にハーゲンダッツを冷やしています」
「おっ、さすが瞳ちゃん。じゃあ今夜はそれを食べながら一緒にお風呂に入りましょうか。よし、アイスを美味しく食べるために荷解きを頑張ろうか」
真魚くんはあたりを見渡して軍手を探している。段ボールの上に乗っているのを見つけて、そちらへ向かった。入れ口の部分を指輪に引っかけたりして、スムーズにはめられないようだ。私もついさっき同じことをやったなあと思いながら真魚くんを見ていた。
「夫婦共同作業ってやつだね」
「それ、引越しの準備するときも言ってたよね、真魚くん」
真魚くんはそうだっけ、とはにかむと、手前の段ボールのガムテープを剥がして、食器を一枚一枚丁寧に取り出す。その横で私も同じ作業をしていた。
うかぶせのリニューアルオープンまであと一ヶ月しかないねとつぶやいたら、真魚くんは『まだ一ヶ月もある』と笑いながら言い返した。
〈了〉
バスルームの人魚 来宮ハル @kinomi_haru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます