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 真魚くんが戻ってしばらくしてから海の汚染が一気に広がり、人魚たちは人間の世界や遠くの海への移住を始めていた。真魚くんが海を離れる前からも言われていたことだったけど、それはだんだんと深刻化して、現実として人魚たちに襲いかかった。


 一度人間として暮らしていた真魚くんは、迷うことなく人間の世界へ移住することを選んだ。薬さえきちんと飲んでいれば人間として暮らすことは特に不便ないとわかっていたから。声が出ないだとか、身体への副作用は工夫次第でどうにかなることも、心得ていたし。


 遠くの海へ行くのは身体にも心にも負担があるそうだ。言葉や文化や治安、生態が大きく異なる場所へ行くくらいなら、真魚くんは人間の世界のほうがマシだと思ったらしい。


 それに真魚くんがお世話になっていた海の底のお医者さんも、人間の世界への移住を決めていたので今後のことも考えてのことだった。とはいえ、お医者さんは海の近くに今でも住んでいて、ときどき海の底で診療所を開けている。そこで真魚くんはいつも薬をもらったり、診察を受けたりして、長いこと人間として過ごすことができた。


 それからしばらくして玲さんも人間としてやってきた。玲さんは薬を飲むのを嫌がったそうで、人魚がもともと使える変身魔法でどうにか生きながらえている。とはいえ、魔法の効力は短くて一定時間を過ぎたら元の姿に戻ってしまうので、人魚に戻りそうになったら水に浸かっているそうだ。


「玲も来たし、デザインの仕事も楽しくて。瞳ちゃんのことをどうにか忘れて生きていけるって思った。だけどやっぱりだめだった。誰かと付き合ってもやっぱり思い出すのは瞳ちゃんのことで。棘が刺さったみたいに、ずっとここにきみがいた」


 真魚くんは手のひらでとんとんと自分の胸を叩く。パーカーの白が手の動きにあわせて波打った。その波の中で真魚くんの手が動くのをじっと見ていたら、真魚くんは目を細める。


「……あの日も、ちょうど瞳ちゃんのことを思い出してた。だから店に立ってたときは本当にびっくりしたよ。今度こそはもっとそばにいたいって思った」


 私の肩に頭を預けたまま、カーテンの隙間から差しこむ光に真魚くんは目を細めている。


「このまま人魚であることを黙っていればずっと瞳ちゃんと生きていけるんじゃないかって思ってたけど……嘘をつき続けるのは苦しくて。何度も話そうとしたけど、やっぱり怖かった」


 よいしょ、と言いながら真魚くんは頭を上げた。窓からの光の道筋を塞ぐようにして座り直すと、真魚くんから後光が差しているみたいだった。影と光のコントラストに呆けながらも、私は真魚くんの言葉にしっかりと耳を傾ける。


「でね、最近また胸が痛み始めた。火曜日にちょうど玲と会う約束をしてたからその話をしたら、玲から一度海に戻っとけって言われたんだ。あの頃よりはまだ症状も軽かったし、すぐに戻ってこられると思ってたんだけど……時間がかかった」

「どうして?」

「……怖かったんだと思う。海から戻って瞳ちゃんにこのことを伝えて、瞳ちゃんに逃げられるのが……俺が臆病すぎたせいだ」


 真魚くんは情けないよねとつけ加えた。情けないことを悪いことみたいに言う真魚くんが、とても悲しかった。ゆっくりとかぶりを振って、私は真魚くんに身体を寄せた。真魚くんの胸に耳を当てたら少し大げさな、生きている音がした。


 この音を私は一番近くで聴いていたい。今はただそれだけだ。真魚くんが人魚であろうと、臆病者であろうと、なんだって構わないから。


 真魚くんの腕が私の肩と背中に触れて、生ぬるい体温がゆっくりと混ざり合う。


「ごめん、心配かけて。もうどこにも行かないから……瞳ちゃんも俺のそばにいてほしい」


 返事をするかわりに、私は人差し指で真魚くんの唇に触れた。その約束を誓ってほしかったから。ちらっと覗く真魚くんの犬歯がいつもより少し鋭く見えたのは、真魚くんが人魚だと知ってしまったからだろうか。


 本当はずっと、私はこれを夢見ていたのかもしれない。真魚くんの温もりを確かめながら、私はまた泣きそうになった。


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