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改めて真魚くんの姿を見ると、途端に腰が抜けた。腰って本当に抜けるんだなと頭の奥で考える冷静な自分と、生まれて初めて妖怪を目の前にして焦る自分がいて、私はただ真魚くんを眺めるだけだ。
「これが俺の本当の姿です。薬を使って人間に化けて暮らしてた。ずっと黙ってて……ごめんね」
真魚くんの声はかすれていて、話しながら語尾がだんだんと消えそうになる。膝を抱えるようにして、下半身を腕で包んでいた。水面にはうろこが数枚浮いて、照明に反射しては虹色の光を放つ。美しい水面と真魚くんの垂れ下がった眉毛を交互に見ていると、夢と現実を行き来しているようだった。
ごめんね、の四文字が消えそうになりながらも必死に私の意識を揺らしている。腰は抜けたままだけど私は唇を噛みしめた。
「……どうして……どうしてもっと早く……」
「ごめん。このことが知られたら……瞳ちゃんといる時間がなくなりそうな気がして。拒否されたらって怖くて。俺は妖怪だし。このまま隠しとおして、瞳ちゃんのそばにいられるならって思ってた。だけど、瞳ちゃんは自分の幸せを見つけようと前に進むのに俺が怯えてばかりなのは嫌だった」
私はまた真魚くんの耳にそっと触れる。耳の先は尖っていて指先の皮膚に柔らかく刺さるけど痛くはない。人間の素肌とは違う触り心地を受けいれたわけでもないし、だからといって拒否するつもりもない。真魚くんは目を潤ませながら私の手に自分の手を重ねた。
「……震えてる。怖がらせて本当にごめん。俺はもう、瞳ちゃんの前に現れたりしない。仕事はちゃんと紹介するし、生活は守る。瞳ちゃんから俺の記憶を消すことも……」
真魚くんが言っていることの意味がわからない。この人はなにをぬかすんだ。腰を抜かして私はバスタブにもたれかかっているのに、頭だけはグラグラと煮たぎっている。
「勝手なこと言わないでよ! 私がどんな気持ちで真魚くんを待ってたと思ってるの。私の気持ちを全部無視できるほど人魚ってえらいの? ……勝手に置いていかないでよ」
なんだかもうぐしゃぐしゃだ。こんな自分が嫌で仕方ないのに、真魚くんを前にすると抑えられなかった。ううん、本当は知らしめてやりたかった。私の中の許容量はとっくに超えていて、どうにもできないくらいにあふれている。
膿をすべて出し切ったような気分だ。出し切った箇所がどこかはわからないのに、身体のどこかが痛む気がして泣いた。傷を撫でるように真魚くんの手が私の頬を滑っていく。温かいけど力なくて支えておかないと落ちてしまいそうだった。
「……人魚なんてえらくもなんともない。ただの妖怪だよ」
「……じゃあ、もういなくならないで」
腕を伸ばして真魚くんを抱き寄せて、その温もりを確かめた。あの夢みたいに泡になって消えることもなく、確かに真魚くんは私の腕の中にいて、肌の下から脈打つ音が響く。真魚くんの手がゆっくりと私の後頭部をさする。そのまま私たちは互いにそこに存在することを確かめた。
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