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「……玲にすっごい怒られちゃった。瞳ちゃんにあんな顔させんなって」

「どんな顔してたんだろ、私」

「今みたいな顔のことを言ってるんだと思う。ほんとにごめん」


 ふたりでバスタブの前に並んでお湯が溜まるのを待つ。真魚くんに尋ねたいことがたくさんあるのに言葉が出てこない。夢でも現実でもいい。ただこの時間が終わってほしくない。なにか問えば終わってしまうような気がして、怖い。


 しばらくすると湯気が浴室に充満して熱気が身体を包みこむ。真魚くんが突然立ちあがったので私も同じようにした。真魚くんのパーカーの裾を掴んで見失わないようにすると、真魚くんは意を決したような眼差しを向ける。いつもだったら微笑んでくれそうなのに、今は違った。


「瞳ちゃん、ごめん。たくさん嘘をついて。臆病な俺でごめん」


 真魚くんはパーカーの裾をおへその上くらいまでたくし上げてから「ちょっと外で待ってて」と笑った。こんな状況で入浴するなんて本気だろうか。だけど真魚くんは「いいから」と言って浴室から私を追い出す。浴室のドア越しに真魚くんが服を脱いでいるのが見えて、なんだか見てはいけない気がして私は背中を向ける。


 どぼんと水の音がして真魚くんがそこにいることを感じた。だけどさっきの夢──いやこれも夢かもしれないけど──あのバスタブの光景が浮かんで背筋が冷たくなった。


「瞳ちゃん、開けてみて」


 真魚くんに呼びかけられて私はおそるおそる扉を開ける。


 バスタブの中には真魚くんの顔をした──なにかがいた。顔は真魚くんだけど、その耳は普通の人間では考えられないほどの大きさ──扇子くらいはあるか──で、魚の胸びれのような形をしていて、ぎざぎざしている。浴室内の照明に反射してぬらりと光った。明らかに人間のものではない。


 そして下半身は深い青に緑を少し混ぜたような色の肌に無数のうろこがついて、つま先は足ではなくて魚の尾ひれみたいな形をしている。目の前の真魚くんは幼い頃にアニメや絵本で見た人魚みたいだ。


 ──やっぱり私はまだ夢を見てる。


 真魚くんがいきなりそんな姿で現れていることに驚きがないわけではない。だけど夢ならば、まあこんなこともあるかと思えてくる。だって人魚なんて存在するはずがない。しかも真魚くんが。


「言っとくけど、夢じゃないよ」

「夢だよ。ありえない」

「夢じゃない。俺は正真正銘人魚だよ」


 私はおそるおそるその異形の耳に触れた。ぬるりとした触り心地は確かに指先にあったし、真魚くんがくすぐったそうに顔を背けたのを見て、いよいよこれは夢ではない気がした。身体から力が抜けて真魚くんの耳から湯船に落ちた手にはお湯の温もりを感じた。ああ、現実だ。

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