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「……なあに?」
『今、家の前にいる。鍵を開けてほしい』
「わかった」
『……驚かないんだね。俺が話してるのに』
「夢ならなんでもありだもん」
私は言われるがままエントランスを開錠した。そしてそのまま玄関のドアも。髪はぼさぼさだし、すっぴんだし、大泣きした後だから目も腫れてとても見られたものではない。だけど夢ならどうだっていい。どうせ覚めて、なかったことになる。
夢の中で夢だと気づくことほど、むなしいことはない。しかも幸せな夢ならなおさらだ。いっそのことこれまでのことがすべて夢で、私は最初から真魚くんと出会っていないことになればいいのに。そう願いながらごろりとベッドに寝転んで窓の外を眺めると、しとしとと雨が降っていた。
廊下のドアが開いて、白いパーカーに黒いスキニーとシンプルな服装の真魚くんが立っていた。ゆっくりとベッドの上の私に近づいてくるのを見て、ついさっきまで夢ならどうでもいいと思っていたくせに、ぼろぼろの自分が途端に恥ずかしくなってきた。
「夢でもやっぱりだめ。すっぴんはまずい。せめて眉毛だけでも」
「夢? ああ、寝ぼけてるんだね。ここは現実だよ」
「夢だよ。だって真魚くんはいないし、そもそも喋れない」
「俺は帰ってきたし、話せるようになった。夢じゃないよ」
ベッドの端で膝を抱えクッションに顔を埋めている私を、真魚くんがすっぽりと包む。ほんのりと潮の香りがした。懐かしさと苦さを感じさせる香りに頭がぼうっとする。
「……どこ行ってたの」
「海の底」
「こんなに長く?」
「もっと早く帰ってくるつもりだった。ごめん」
「連絡くらいちょうだいよ」
「ごめん。海の中はでスマホ使えなくって」
なんだかいまいち会話が噛みあわない気がする。海の底ってなんだよ。頭の奥が一気に熱くなって顔を上げる。だけど眉毛を下げ、髪の毛の先と肩が濡れている真魚くんを見たらなにも言えなくなった。目の前に真魚くんがいることだけで、もういい。
真魚くんは耳元で何度もごめんと言う。それになにも返せずにしゃくりあげるだけの私は、理性のかけらもない小さな子どもみたいだ。真魚くんに包まれたまま、泣くことでしか自分を伝えられないでいる。本当は伝えたい気持ちがたくさんあるというのに、私はやっぱり大事な場面でなんだかだめなやつだ。
「……瞳ちゃんに話しておきたいことがあるんだ。とりあえず見てもらったほうが早いと思うから、お風呂を借りてもいいかな」
「こんなときにお風呂?」
「うん。まだちょっと寝ぼけてそうだし、眠気覚ましには効くかなって。逃げたくなったら逃げていい」
「寝ぼけてなんか」
真魚くんは私から離れると浴室へ進んでいく。またいなくなってしまいそうな気がして後ろをついていくと、真魚くんはバスタブの前で一度振りかえっていつもと同じだらしない笑みを向けた。私の気なんて知ることもなく。それからきゅっと蛇口をひねって、お湯を注ぐ。
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