94


 ベッドから飛び起きて私はすぐに浴室へ向かった。そこはいつもの狭い浴室で、おしゃれな猫足のバスタブではなく、どこにでもある白いプラスチック製のものだった。入浴後にお湯を抜いたので当然ながらなにも残っていない。


 窓がない浴室は照明を点灯しないと真っ暗だけど、それすら気にする余裕もない。慌てて起きたせいかめまいが襲ってきて私はその場に崩れ落ちてしまった。そこでようやく私は嫌な夢を見ていたのだと気づいた。


 真魚くんを失う夢を見て、身体がばらばらになりそうなほど胸が痛んだ。こんなことにならないと、自分のことさえなにも気づかない自分をひどく嫌悪する。


 私は真魚くんがいないと、こんなにもだめになってしまうのだと。


 どん底に突き落とされたような気分で泣きじゃくる。私、今ものすごく深いところに沈んでいるよ。どこに沈んだって気づいていくれるって言ったじゃん。あれ嘘だったの。


 それとも沈んでばかりで手を伸ばそうとしない私に愛想が尽きちゃったのかな。それならごめん。真魚くんを責める権利は、私にはないよね。気づいてなんて言わない。もう言わない。だから帰ってきてよ。いつもみたいにふたりでお店を開けようよ。


 しばらく浴室で嗚咽して、バスタブにもたれかかっていた。お湯もないバスタブは冷たくて固くて無機質だ。私の熱を吸いこんだ部分だけがほんの少しぬるくなっているだけ。そんな温もりなど気休めにもならない。


 同じ体勢でい続けたせいか足が痺れている。うまく立てなくて足を引きずるようにして壁伝いに居室へ戻る。冷たくなったベッドに寝転んだまま動けなくなってしまった。


 今日も店で真魚くんを待つつもりだったのに、私は動けないでいる。変な夢を見てしまったせいだ。触れようとすれば真魚くんが泡になって消える。思い出すだけで私は小さな子どもみたいに身体を縮こませて、震えてしまう。弱々しい自分が嫌なのに、どうにもできない。


 ──今日はお店お休みにしちゃおう。

 夢の中の声が真魚くんと重なって、頭の中で無邪気にささやいている。聞いたこともないのに私はあの声をどうして真魚くんのものだと思ってしまっているのだろう。


 湿った空気を割くように、インターホンが鳴った。身体を起こす元気もなくて無視していたけど、私の身体を激しく揺さぶるように何度もしつこく鳴らされる。それでもしばらく無視していたら今度はスマートフォンが震えた。


 画面には真魚くんの名前が表示されている。また夢でも見ているのだろうと思って、私は電話に出た。


『瞳ちゃん。真魚です』


 夢の中よりも若干かすれた声が電話の向こうからする。ああやっぱり私はまた夢を見ている。だって真魚くんは話せないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る