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 おそらくそれは真魚くんが高校のときの話だ。身体を壊して高校を中退したと言っていた。私は真魚くんとほとんど交流がなかったから、気づいたらいなかったというほうが正しいけど。


 玲さんによればそのときも療養に時間がかかっていたそうで、薬の効きが悪くなった理由も結局わからなかった。どうにか回復してからは、しばらく調子がよかったが、ここ最近は不安定なことが多かったらしい。


 私の前ではだいぶ気を張っていたのだろうか──いつもの真魚くんに見えていたけど。直前には一緒にフリーマーケットにも行って、そのときは楽しそうにしていたのに。


「瞳、心配かけてわりいな。俺が謝ったところでどうしようもねえけど。その……たまには愚痴こぼしに来いよ。コーヒーくらいはごちそうする」

「……ありがとうございます」


 玲さんはバイクにまたがるとエンジンを吹かす。しゃくりあげるような音がバイクから響いて、思わず下唇を緩く噛んだ。

 玲さんを見送ってから、閉店時間まで私はいつもどおりに働いた。いつもどおりなのに、やっぱり真魚くんはいないままだ。



 自宅の浴室から水の音がした。水を出しっぱなしにしていたのかと焦りながら向かい、扉を開けると、うちのバスルームではなく、どこか別の場所に繋がっていた。一面真っ白な壁。その中にぽつんと猫足のバスタブが置かれていた。近づこうとすると、とぷん、と一度だけなにかが跳ねる音がした。


 覗かなければいけない気がするのに、額に汗がにじんで心臓が早鐘のように鳴った。身体はがちがちと震えている。肌の表面がざらついていくような感覚と自分の歯が鳴る音が私から動きを奪った。だけど、ここから動かなくてはいけない。


 ──気づいて。

 ──気づかないで。


 バスタブから消えそうな声がする。知らないはずなのに私はその声の主がすぐにわかった。慌てて覗きこむと、バスタブには底がなかった。その深くに真魚くんが沈んでいくのが見えた。生成色のシャツと黒いパンツを身につけたままだった。静かに目を閉じて遠くなっていく。


 その手を掴もうとしたら、指先が泡になって消えた。私は必死に両手を伸ばして真魚くんを引きあげようとするのに、触れたところから泡になって消えていく。私の手のひらをひと粒の泡が滑って、手首のあたりでぱちんと弾けて消えた。


 バスタブの中にはなにも残っていなかった。


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