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私はコーヒーを飲み干してゆっくりと立ちあがる。お騒がせしてすみませんと一礼してパライソを後にする。潔子さんが店の外まで追いかけてきて、ビルの入口まで見送ってくれた。
「……瞳さん。真魚さんが帰ってきて、ふたりでお話ができたら……伝えてほしいことがあるんです」
「うん? 言付かりますよ。どうしたんですか?」
「『ヒトをなめんな』って伝えてください」
「……それもよく意味がわからないけど……それも真魚くんと話せば意味がわかるんですかね?」
潔子さんはこっくりと頷く。ヒトをなめんな、だなんて潔子さんは真魚くんのことを妖怪かなにかのような扱いをするんだなあ、とおかしくなった。こんな言葉を潔子さんから預かったことを伝えたら、真魚くんはどんな顔をするのだろう。高速のまばたきをして、口をぽかんと開けるかな。容易に想像がつく。
それからずっと真魚くんのことを待っていた。だけどいっこうに帰ってくる気配はなく、連絡も取れない。毎日送り続けるLINEは既読もつかないし、電話も繋がらない。『電源が切れているか電波の届かない場所にいます』という非情なアナウンスが流れるばかりだ。
さすがに一週間もお店を閉めているわけにはいかないので、とりあえず私ひとりだけで開けることにした。幸い打合せのアポイントもなく、真魚くんはきちんと調整していったのだろうかと思った。それならば、どうして私に連絡ひとつよこさないのかという思いに囚われる。
毎朝、真魚くんがなにごともなかったかのように出勤しているのではないかと、ほのかに期待をにじませながらうかぶせのドアの鍵を開けては落胆する。無機質な食器が並んでいるだけだ。いつものとおりにクイックルワイパーで食器の埃をはらって、店内は掃除機をかける。店の前はきちんとほうきで掃いた。
お客さんが来たら笑顔で対応して、アドバイスを求められたら真魚くんに教えてもらったことをしっかり伝えて、真魚くんが苦手だと言う事務作業もきちんとやった。ミスだって少なくしたし、真魚くんがこの店に戻ってきたときのためにきちんと整えておこうとしている。
だけど、あなたひとりがいないだけでこの店はからっぽだ。店内を整えようとすればするほど、私は今この店にひとりなのだと浮き彫りにされていくだけだ。
真魚くんがいなくなってから二週間が経っていた。
「あいつまだ戻んねえのかよ」
お菓子の搬入にきた玲さんが悪態をついている。それに対して力なく頷いて、どうにか愛想笑いを顔に張りつけた。一生懸命笑ったのに、玲さんは刀で両断するみたいに「そういうのいらねえ」と言い放った。
「前もこんなふうになったことがあったんだ」
「前?」
「ありゃいつだったか……たぶん十二、三年くらい前か。飲んでる薬の効きが悪くなって海に戻ってきた」
「……海?」
首を傾げる私をちらっと見て、玲さんはこほんとひとつ咳をする。
「……わりい、地元のこと。行ってた学校やめて戻ってきたんだ。その頃はお前と真魚は同じ学校だったんだろ?」
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