5 バスルームの人魚

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「あ? お前なんも聞いてねえのか」


 慌てて店にやってきた私を見て、玲さんと潔子さんも一瞬狼狽えたようだったけども、真魚くんのことを話したらふたりはなんだと言わんばかりに突然落ちついた。

 というか実際に玲さんは舌打ちをしてから「なんだよ」と言った。


「真魚のやつ、また身体壊して昨日から……そう、実家で療養してんだよ」

「わざわざ実家で? あれ、真魚くんって福岡出身じゃ……」

「えっ、えっと、今はご両親は千葉のほうに引っ越してきてるらしいですよ。ときどき帰ってるそうです」


 潔子さんが「ねっ」と玲さんに確認するように声をかけると、玲さんは小さく「おう」と返す。

 そんな話、真魚くんからはいっさい聞かされていない。付き合いの長さはどうにも埋められないけど、自分だけが知らないのは思っていた以上に大ダメージだ。


 それなら連絡のひとつくらいくれればいいのに。いつもはどうでもいいLINEを送ってくるくせに、肝心なことはなにも教えてくれないなんて。


 うかぶせの扉に雑に貼られていた紙を思い出す。真魚くんとは対照的な、スピードに全振りしたような雑な字。文字の線の一本一本には吹き矢みたいに飛んでいきそうな勢いがあって、とても乱暴というか粗雑だった。あんなものを誰が書いたのだろう。明らかに真魚くんの字ではない。それも気になる。


「悪かったな汚くて。俺だよ、俺。俺が書いたの」


 ──あ、失言……。

 いくら慌てていたとはいえこんな失礼な発言をしてしまったことにも、私は落胆する。なんかもうこのまま地面に埋まってしまいそうだ。


 潔子さんが隣で「確かに玲さんは字汚いですよね」と笑ってくれたことが救いだった。

 私が理太郎くんと呑気にご飯を食べていた頃、玲さんは真魚くんと会っていたらしく体調がおもわしくないと話を聞いたそうだ。玲さんの勧めで真魚くんはその日に実家に戻ることにした。


 貼り紙を忘れたと真魚くんが言っていたので、代わりに貼っといてやるよと玲さんが親切心からあの汚い──シンプルなお知らせを書いて、店の入口に貼っておいてくれたというわけだ。


 玲さんは真魚くんが私に連絡をしているものと思っていたそうだけど、私にはなにもない。私から連絡をしてもリアクションもいっさいないし。


「……連絡もできないほど具合が悪いんでしょうか……」

「ど、どうなんだろ……あ、どっかにスマホ忘れてんのかもしんねえな、あいつ」

「そんなことありますかね。真魚くん、本当に大丈夫なんですか?」


 突然姿を消すなんてただごとではない。玲さんにはぐらかされているような、子どもみたいな思いこみだけどのけ者にされているような気分さえある。玲さんが呑気な回答をするたびに焦燥感が募っていく。私が焦ったってどうしようもないことは頭でわかっているのに、心が制御できないでいる。

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