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真魚くんと出かけてから数日後、私は返事をするために理太郎くんを食事に誘った。理太郎くんはいつものとおり颯爽と待ち合わせ場所に現れたので、私のほうが緊張しているように感じられて複雑だ。余裕があって羨ましい。私は脇と手のひらがべたりと湿っているというのに。
簡易的な仕切りがあるダイニングバーを選んで予約しておいた。お酒が好きな理太郎くんはビールを頼んで、私はジンジャーエールにする。いくつか単品の料理を頼んで、ふたりで取り分けながら食べる。
「……で、この前のお返事なんだけど……」
「うん。だろうなって思って、今日来た」
「だよね……その……ごめんなさい。私、理太郎くんとはやり直せない」
あまりに飾りっけもない言葉だけど、私の気持ちを間違いなく伝えるにはやっぱりこういう言い方をするほかないと、昨晩散々悩んだ結果たどりついた。
理太郎くんは目を見開いているけども、あまり感情を出していない。
「……わかった。考えてくれてありがと。もしよければ、理由を知りたい」
「……私ね、自分のこと嫌いだったのに、あの店で働いて、少しだけ好きになれたんだ。私は自分の力で幸せになってみたいと思ったの」
「その幸せに、俺と結婚って選択肢はないんだな」
「……ごめん」
こんな私と歩みたいなんて言ってくれる人は、きっと理太郎くんのほかにはいない。私を幸せにしたいとまっすぐな目を向けてくれるのも。それが嬉しくないわけではなかった。
だけど、私の幸せとはなんだろうと考えたときに、私はやっぱりうかぶせのことを思ってしまうし、私は自分の力で私の幸せを見つけたくなった。
理太郎くんの申し出を受けてしまえば私はまた理太郎くんに甘えてしまうだろう。理太郎くんに私の幸せを委ねてしまって、もう自分のことを好きになってあげられない気がする。
理太郎くんはネイビーのネクタイを緩めながら、長い溜息をつく。五秒くらい天井を見あげてから私の瞳の中を覗きこむように、まっすぐな視線を向けた。それに応えるように私もじっと見据えたら、理太郎くんのほうから逸らした。
「今度こそって思ったけど、過ぎた時間は取り戻せねえなあ」
「……うん。でも、その気持ちは嬉しかった」
「嬉しいなら付き合ってよ」
理太郎くんは口を尖らせる。理太郎くんもこんな顔をするのだと驚きつつも、この仕草を見ると真魚くんを思い出してしまって、絆されそうになる。
ごめんなさいとゆっくり伝えると、理太郎くんは腕を組んでけらけらと笑った。照明器具が少なくて薄暗い店内の中で笑う理太郎くんは薄い雲に覆われた太陽みたいだった。
「……やっぱり俺、瞳のこと好きだな。真面目すぎるくらい真面目で、謙虚で。俺のこと責めたっていいくらいなのに。むしろ責められたほうが楽だ」
「そうでもないよ。私、サボり癖もあるし、頑張り屋でもないし」
理太郎くんがうかぶせでの私を見たら幻滅するかもしれない。疲れたからといって店を早く閉めようとしたり、勤務時間中に呑気におやつを食べたりしているし。
「そう? 付き合ってるときは気づかなかった。まあ……気づくほど一緒にいてやらなかったのかな、俺」
理太郎くんはそう言ってビールを飲み干した。グラスにわずかに残った泡が静かに底へ向かって落ちていく。理太郎くんはそれを店員さんに渡してから、おかわりのビールを注文していた。
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