後悔

 通行人たちから悲鳴が上がる。誰かが「救急車!」と叫んだ声が聞こえた。


「あんたなんか、死ねばいいのに」


 自分の言葉が頭の中で反響していた。麗の言葉はいつだって正しい。急激に吐き気がこみあげてくる。私は交差点の柱に手をつきながら嘔吐した。


 楓はなにが起こったのか理解できていないのか、あるいは理解したくないのか、笑顔を浮かべていた。


「お姉ちゃんどこ? ねぇ、麗お姉ちゃん?」


 そう笑って、血と肉片を張り付けたまま、周囲をきょろきょろと見渡していた。


 麗と仲が良かったころの記憶がよみがえる。小学校の帰り道、三人で手を繋いで帰った記憶。運動会で偶然かけっこで一位を取って、たくさん麗に頭をなでてもらった記憶。傘を忘れて立ち尽くしているときに、笑顔の麗と相合傘で帰った記憶。


 その全ては小学生の頃の記憶だった。人生で一番楽しかったころの記憶だ。私が笑っているときにはいつだって麗がそばにいた。頬を涙が伝っていく。なんで、こんな。


 漠然と麗との縁はどこまでも続いていくのだと考えていたのだ。だから「死ねばいいのに」なんて暴言もはけたし、適当に麗をいなすこともできた。でも、もしも、今日、終わってしまうのだと分かっていたら、私はきっと……。


 ひとりでに嗚咽が漏れる。固い地面に膝から崩れ落ちる。


 楓はニコニコと笑っていた。まだ麗を探している。私はよろよろと立ち上がって、楓の元へと歩いた。だけど私が近づいても、楓は怯えたような表情を浮かべるだけだった。


〇 〇 〇 〇


 それからのことはよく覚えていない。覚えているのは、お母さんとお父さんがやって来て、吐瀉物まみれで涙を流す私と未だ状況を理解できていない楓を抱きしめてくれたくらいだ。私たちはすぐに病院で心のケアを受けさせられた。


 私は特に病気なんて認められなかったけど、楓はPTSDや解離性健忘と診断されていた。


 私の薄情さを病状のなさで示されたような気がして、どうしようもない気分になった。それに比べて楓は本当に麗のことが好きだったのだろう。麗を失った瞬間の記憶をなくしてしまっているみたいだった。


 お医者さんによると多くの場合数日で記憶は戻ってくるとのことだった。でも私は楓に何も思い出してほしくなんてなかった。


〇 〇 〇 〇


 翌朝、私は目覚ましの音でベッドから起き上がった。いつもなら部活の朝練のために早く起きる麗に起こされるはず。なのに、どうしてなのだろうと考えていると、昨日のことを思い出して、吐きそうになってしまう。


 鏡に映る私の顔は、いつも以上にひどい有様だった。


 リビングに向かうと、お母さんとお父さんがいた。


「おはよう。紗香」


「おはよう。今日は十一時から葬式があるから、そのつもりでな」


 葬式という言葉は聞きたくはなかったけど、伝えておかないといけないことではある。私は頷いてから椅子に座った。私が黙り込んでいるとお父さんが口を開いた。


「楓はまだ起きないのか?」


 それはきっと楓の姿が見えないことを不安に思っての言葉なのだろう。もしも楓の記憶が戻っていれば、精神的に極めて不安定な状態のはずだ。


「……私、呼んでこようか?」


 私だってもう、家族を失いたくはない。麗の死の記憶が頭にこびりついている。


「そうしてくれると助かる」


 お父さんは笑って告げた。お母さんも頷いている。二人だって泣きたいはずなのに、きっと私のことを思いやってくれているのだろう。二人は麗のことを殊更、愛していた。だけど私のことだって、大切に思ってくれているのだ。


 でも私は、その差を受け入れることができなくて、こんな風になってしまった。


 私は楓の部屋に向かった。扉には小学生のとき麗と楓と私の三人で一緒に作ったドアプレートが吊り下げられている。私がノックをすると、ドアプレートは悲しそうに揺れた。


 返事はない。私はもう一度ノックをする。やはり返事はなかった。不安に思って私はドアノブに手をかける。扉を開くと、楓の姿がみえた。ベッドの上ですやすやと眠っている。


「楓。起きて」


 私が肩を揺すると楓は寝ぼけ眼でつぶやいた。


「……麗お姉ちゃん?」


 だけど私の顔をみると、すぐに不安そうな表情になる。


「なんで紗香お姉ちゃんが……。麗お姉ちゃんはもう行っちゃったの?」


 胸がバクバクと早鐘を打つ。楓はまだ思い出していないようだ。ただ一言、そうだよと相づちをうってあげればいい。なのに、ただそれだけのことがとても怖かった。


「……うん。今日はいつもより早くいかないといけないみたいで」


「そうなんだ。早く麗お姉ちゃんに会いたいなぁ」


 楓はふわぁとあくびをして、ベッドから降りた。起きてすぐの楓はまるで小学生の楓がタイムリープしてきたような性格になる。しばらくすると、すぐに私のことを怯えたような視線でみるようになるけれど。


 まぁ、それは当然のことだ。一番荒れていた中学の頃、私は麗としょっちゅう喧嘩をしていた。楓はそれを間近で目撃していたから、私を嫌うのは当然のことだろう。私の言葉はいつも嫉妬と劣等感と憎しみで満ちていた。正当性なんて欠片もなかったのだ。


 楓のあとを追って、リビングに向かう。するとお母さんとお父さんがおはようのあいさつをした。楓も眠たそうに「おはよう」と答えていた。


 お母さんがすぐに朝ごはんを持ってきてくれる。楓はやっぱり目をこすりながら、ご飯を食べていた。私はそのいつもと変わらない楓の様子をみて安心しつつも、思い出した時のことを考えてしまい、不安になった。


 そのとき、楓はどうするのだろう。


 食事を終えると、楓は身支度を整え始めた。


 お父さんとお母さんは不安そうにしていた。


「楓、学校に行くのか?」


「なに変なこと言ってるの。休みじゃないんだから行くに決まってるでしょ」


「……そうか。だったら紗香、ついていってやってくれるか?」


 私は頷いて、身支度を整えた。その頃になると、楓はいつもの楓に戻っていた。


「……一緒にいかないとだめなの?」


 嫌そうな顔でお父さんとお母さんに告げている。すると二人は口々に答えた。


「最近不審者が多いって聞くでしょ」


「だから二人で行ったほうがいい」


 すると楓は渋々といった態度で頷いた。


 私たちは一緒に家を出た。楓はいつもの道で中学校に向かおうとする。でもこのままだとあの交差点を通ることになってしまう。もしも楓が思い出してしまったらどうしよう。私は不安で「今日は別の道から行こう」と楓に告げた。


 楓は反論せずに頷いた。でもそれは信用しているからではなくて、ただ私のことが怖いからなのだと思う。


 いつもと違う道を通っていると、車通りの多い場所に差し掛かった。トラックが目に入って、私は吐き気を催してしまう。視界がぐるぐる回って、平衡感覚がつかめなかった。


 楓はそんな私を不安そうにみつめていた。


「どうしたの?」


「……なんでもない」


 目を閉じてしばらくすると、落ち着いてくれた。私は何の病気も診断されていなかったけど、しっかりとトラウマは残っていたらしい。そんなことに安心してしまう自分が嫌だった。

 

 私は楓を中学に送り届けてから、高校に向かった。葬式は十一時からだから、結局は一時間目の終わりで早退することになるだろう。でも今、家に帰ればあの重苦しい空気の中で過ごすことになる。


 教室に入ると非難するような視線が集中してきた。いつものことだ。私は窓際の自分の席に着いた。すると委員長が険しい顔で話しかけてきた。


「あなた、お姉さんが亡くなったのに、どうして平然とした顔してるのよ」


 その声にまたしても非難の視線が私に集中する。血も涙もない奴だとでも思われているのだろう。私が何も言わずに席に座っていると、委員長はため息をついてから自分の席に戻っていった。


 私は窓際の席から、窓の外を眺めていた。視線を感じたくなかったからだ。


 私はみんなの嫌われ者だ。みんなに好かれていた麗が死んだのに、みんなに嫌われている私が生きている。憎まれっ子世に憚るとはまさにこのことなのだと思って、私は自嘲的に笑う。それをみたらしい、話したこともないクラスメイトが私の席のすぐそばを通り過ぎる時「死ね」とつぶやいた。


 私は思わず声の方を向いてしまう。その「死ね」はまるで幻聴のようでもあったし、幻聴でないようでもあった。どちらか分からなくて、私はなおさら頭が痛くなった。


「おい。紗香!」


 その時、宮城が廊下から私の名前を呼んだ。励ましにでも来てくれたのだろうか。私は立ち上がり宮城の所へ向かう。宮城はどうしてかニヤニヤとしていた。


「よかったじゃん。死んだんでしょ? あの憎たらしいやつ」

 

 私はその瞬間、頭に血が上って、宮城の顔面をぶん殴ってしまった。


「おい! なにすんだよ!」


 宮城は私の髪の毛につかみかかった。廊下を通りかかった生徒たちは低俗なものに唾を吐くみたいに、視線を落としてから歩いて消えていく。私は馬鹿馬鹿しい気持ちになって、宮城を突き飛ばした。髪の毛がぶちぶちと千切れる音がする。


 私は頭皮に痛みを感じながら、教室に戻った。


 結局、私の味方をしてくれる人なんて両親くらいしかいないのだ。私はこれまでずっとそういう振る舞いを繰り返していた。勉強も人付き合いも全ていい加減で、ただただ麗に嫉妬するばかり。変わろうともしない。その結果がこれだ。


 私は誰にも聞こえないように、音のないため息をはいた。

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