174話(別視点)獣と王
***
その黒髪は、見る角度によって青緑色の光沢を見せた。
結っていたそれを解き、黒髪の持ち主は椅子に腰掛けて大きく息を吐く。
その住まいは壮麗だった。
室内に拵えられたタイル張りの水路からは絶えず清浄な水が流れ、植えられた木々は大きな葉で影を作り、その下を青孔雀がゆっくりと横切っていく。
ランプで煌々と照らし出された室内は、夜だというのに真昼のように明るい。
黒髪の男性は、日頃の公務の疲れを癒すべく、焚かれた香を楽しみ、用意された茶に手を伸ばした。
香りを存分に楽しんでから、目を閉じる。
『ここは穢れなき良い住まいだ、星の眼を授かりし王よ』
不意に、頭の中に鳴り響くような声がして、目を開いた。
そこには、大きな獣がいた。
つい先程まではいなかったはずの、白く大きな狼のような姿をした獣が横たわっていた。
壮麗な室内の真ん中で、まるで我が家のようにくつろいでいる。
男性は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに得心したようにゆるりと微笑んだ。
「来たか」
『領域が開かれていたのでな。我を招いたのだろう?』
「いかにも──真獣の眷属よ、よく来た。私は中央国ミドレシアの王ネルスファルフである」
『我はワヌドゥ、真獣ヴァウドゥの眷属である』
真獣たち獣に名乗る習慣はなかったが、ワヌドゥは王に合わせて自己紹介をした。
あたりに人がいなくなった時を見計らい、獣は姿を見せたようだった。
「影から報告は受けていたが、まさか真獣に連なるものが我が領土に住まうとは。実に喜ばしいことだ」
『こちらも事情があってのこと。人の営みに干渉はせぬ』
「ああ、承知している。互いに領域を侵すことなく共存──そうだな?」
『相違ない』
「では、そのように」
冒険者たちは伝説のように考えていたが、大仰なことは何もなく、ごく手短に不可侵の協定は締結された。
王は立ち上がり、かたわらに置かれた果物の入った皿を自ら持ち、獣の前へ置いた。
「客人をもてなさぬとあっては、王の名が廃るのでな。そちらは森の産物ではないが、なかなかに良い初物だ。試されると良い」
『ふむ……悪くない』
ぺろりと平らげ、獣は満足そうに口の周りを舌で舐めて目を細めた。
再び椅子へ座った王は口を開く。
「ところで、戦において敵国がそちらの森に侵入し、森を害した場合のみ、助力いただけるとのことだったが」
『森を害するものを排除するのは当然のこと。其方らも森を防衛のひとつに組み込んで都市を作ったのだろう』
「ああ。だが当てにするつもりはない。戦において不確定な要素を戦力とするのは好かない」
『人の戦に興味はないが、それが良かろう』
「それに、真獣の眷属たる存在が何故ここへとどまることになったのか。それが分からぬ以上、戦力に数えるのは愚かであろう」
言外に「この王都の近くの森に来た理由を話せ」と言う王に対し、獣は少し顔を背けつつ答えた。
『……我らが長、真獣の愛し子が人に紛れておる』
「……なんと」
『我はそれを見守るため、ここへ寄越された。他の理由はない』
「そうだったか……しかし、もしその愛し子とやらの身に何かあった場合、咎を受けるのは一体誰になる?」
『愛し子を害した者のみ。だがそのようなことは、早々起こらぬであろう』
「というと?」
『愛し子の側には、『星』の加護を持つ者がついている。その者がいる限り、子の身は安全だ。かの者が
「星の加護?『星の眼』を持つ者がかたわらにいるというのか?」
『其方の持つような星の眼ではない。『星』そのものが祝福した、ただひとりの存在』
王は椅子から立ち上がり、ガタンと大きな音がした。
「今なんと……それは『英傑』のことか!?」
『人の世での呼称は知らぬ。だが、あやつの持つ力を考えるなら、相応であろうな』
「では、『再誕』は成ったのか……?」
『そうとも言えるし、そうではないとも言える。『星降ろしの儀』なくしては完成せぬだろう』
「そうか……」
王は消沈したように椅子に座り直した。
「『星降ろしの儀』が失伝してから久しい。我が血族の受けた加護では足りぬようだ」
『其方らは、天龍の祭祀を司る一族であったか。だが、星を呼べるのはただひとり、そしてこの国ではそれは行えぬ』
「何故だ」
『場が整っておらぬ』
「そうか……もし『星降ろし』ができたなら、我が王座も安泰なのだがな」
獣は鼻を鳴らして笑った。
『其方、『星』の威光を
「それが王というものだ」
『ふむ、人の世は命の巡りのみにあらず、か……我らが主の仰る通りだな』
「まあ良い。この国で『英傑』を迎えられるのだ。祝福の兆しであろう」
王は茶器を口に運び、ひと息ついた。
獣は穏やかで、話のわかる相手だった。環位の官僚たちもこうであればよいのに、と願うほどだ。
『なんだ、祝福が欲しいのか、ならば
「そのような浅ましいことを……」
『人には浅ましいのか、わからぬものだ』
「だが、努力が必要という点には同意だ」
『…………では果物の礼に、宣託をやろう』
獣は立ち上がり、その大きな体で王を見下ろした。
『近頃、大河の方角が何やら騒がしい。兵を備えておけ。そして狩人たちを働かせよ。目覚ましい活躍をしたものを『王の宴』に招くが良い。さすれば其方は『英傑』と『祝福』の両方を得られるであろう』
「それは……」
王が何かを尋ねる前に、獣はその姿を眩ませた。『また来る』と言い残して。
伸ばした手が宙をさまよう。
王は大きく息を吐いた。
「聞いたか」
「はい、王よ」
王の影から、するりと人間が出てきて跪く。黒髪で、気配の薄い人物だった。
「あれは大河の方角と言ったな、運河のことかもしれぬ。事の仔細を確認せよ」
「ただちに」
「あれは、お前の存在に勘付いていたか」
「おそらくは」
そうか、と呟き、王は椅子に深く身を預けた。
「何とも、真獣というのは掴めぬものであったな。だが、『英傑』か……やはり我が国が、『器』であったのだな。もし見つけ出したとしても、接触はならぬ。王都が塵にされてはかなわぬからな」
「承知しました」
「頼んだぞ、ファンイ」
影に再び消えた部下を見送り、王は先程まで獣が横たわっていた場所をじっと見詰めた。
「真獣の眷属というのは、実に良い毛並みであった。触れてみたいものだ」
***
次回、さらに別の別視点。
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