16話 朱殷に馨る




 赤い髪の冒険者の女。


 そう聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


 なんでなんで。

 ここにいるはずない。


 どうして。

 いやだ。


 またこわされてしまう。


 廊下から甘ったるい香りがした。紛れもなくあの、暴力の具現化のような女のまとっていた匂いだ。


 ここに来るのか?


 身体中の血液が足元にザッと流れていく。


 どうしてここへ。

 ここにいるのを知られちゃダメだ。

 逃げなきゃ。どこに?


 反射的に風呂場に駆け込んだ。



「……ダイン!」

「あァ。ノーヴェ『遮音の領域』を」

「ハルクは近くの衛兵の詰所に」



 蒼白になった俺に気づいたリーダーが小声で指示を飛ばしているのが聞こえた。


 膝に力が入らず風呂場のタイルの上に座り込んでしまう。


 身体の制御がきかない。この身体の髄まで恐怖がしみこんでしまっている。


 頭が妙に冴えている。


 身体と思考が剥離しているな、と冷静な分析をする。そりゃそうか、元々違うんだ。


 奥歯がカチカチ鳴って、面白いくらいに身体が震えている。


 この身体の少年のかけらがまだ残っていて、ひどく怯えているみたいだ。



「……ゆっくり息しろ」


 俺を追いかけて風呂場に来たダインが声をかける。


 息?

 そのとき初めて呼吸が浅くなっていることに気がつく。やばいなこれ、過呼吸だ。


 呼吸の仕方がわからないって本当にあることなんだ。ゆっくりがわからない。


 どうしよう。



「いったん息を止めろ、ほら大丈夫だから」

「スゥ…………」

「そうだ、そンでゆっくり吐く……偉いぞ坊主、その調子だ」


 ゆっくり吸って、止めて、ゆっくり吐いて。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。


 身体が震えているからスムーズに呼吸ができず、かくかくする。


 ダインは毛布でぐるぐる巻いて、その上から俺の身体を摩った。


 だんだん落ち着いてきた。


 落ち着いたら顔が涙や鼻水やらでべしょべしょになってるのに気がつく。制御できなかったのは顔面もか。


 あの屋敷にいたときだってこんなに恐怖を感じることはなかったのに。平和を知ってしまったから、恐怖が二倍になってるんだ。


 それとも、少年の記憶のかけらと、俺の記憶が共鳴したのか。


 過去が追いかけてくる。

 これだから暴力はだめだ。



 その時やっと、まったく音がしないことに気づく。向こうはどうなったんだろう。



「ノーヴェが領域魔法で遮音してる。どんなデケェ音立てても向こうにゃ聞こえねェ」


 領域魔法。かっこいい響きだ。


 ほんとに聞こえない?でっかい魔物が暴れても聞こえない?


 そう思ってじっとダインを見ると、クツクツと笑い始める。まだゆっくり俺の身体を摩擦している。



「……そうだなァ、魔物が暴れりゃァ、揺れで気づかれるかもしれねェな」


 やっぱりこいつ、俺の思考読んでやがったか。そんな魔法あるのかな。


 便利な通訳として使い走られてもらおう。


 ちょっと笑う余裕が出てきた。まだ膝はぷるぷるする。


 俺はありがとう、の気持ちを込めて、ダインのお腹のあたりに頭をぐりぐり擦り付けた。


 ダインはぐしゃぐしゃになった俺の髪をざっくり整えて、いろんな液体でよごれた顔をごしごし布で拭う。


 それから頭のてっぺんにスッと唇を落とした。


 そこからふわりと身体が何かに包まれる感覚がする。


 え、何。



 いきなりのことで呆然としてしまう。


 に、似合わねえことしやがる……。


 多分、魔法の一種なんだろうけど。この世界では当たり前なんだろうけど。子供にするおやすみのキスみたいでむずむずする!


 文化の違い、こわい。


 俺の思考を読んだのか、せっかく整えた髪をまたぐしゃぐしゃにされた。


 魔法の効果か、震えは完全になくなっていた。



「──落ち着いたかァ?今から聞かなきゃならねェ事がある。ちょっと向こうの様子が見えるようにするからなァ」


 そう言ってダインは手のひらで宙を撫でた。


 撫でた場所に映像が現れる。

 すごい!どういう原理なんだ。


 部屋の入り口あたりの風景が空中に投影されている。宿の主人と、あの女が目に入って身体を固くした。リーダーとノーヴェもいる。


 ダインが後ろからきゅうっと抱えてくれる。む、この筋肉、見た目より柔らかいぞ。



「あっちからは見えねェ。お前はうなずくだけでいい。……じゃあ聞くが、あの女がお前のいた商会に出入りしていた『冒険者の女』で間違いないな?」


 うなずく。

 赤い派手な髪、この街のほかの女性たちより少し体の輪郭線がはっきりした服。間違いない。



「……あいつも奴隷たちに暴行を繰り返していた。……事実だな?」


 思い出したくないし、誰かに話すことも憚られるような数々の出来事が頭をよぎる。


 この記憶をダインが見なければいいのだが。そう考えながら、うなずく。



「……じゃあ最後。この女は『粉』を使っていたか?」


 うなずいた。

 護衛たちとハイになって脱法で破廉恥なパーティーを開いていた。


 ううん、あのいやな匂いを思い出して気分が悪くなってきた。また鼻水がたらりと落ちてくる。



「わかった。これからあの女はいなくなる。もう会うこともねェ……待ってろ」


 俺の頭をぽんぽんとしてから、ダインは風呂場から出ていった。


 途端にシーンとする。本当に音がしないんだな。


 映像も消えてしまったので、向こうがどうなったのかわからない。


 俺はただひたすらに待った。


 ご主人たちが何とかしてくれるという安心感がある。


だから、以前では考えられないくらい凪いだ気持ちで扉が開くのを待ち続けた。


 

***

次回から別視点。





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